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花とペン  作者: 井上マイ
55/68

55.

「こっちは駄目です」

 先に部屋を出た、草四郎がかぶりを振った。

 目の前の床には大穴が空いている。

 階段は重機で押し潰されたように、途中の段が欠落していた。

 幻想の家は、紙で作られたかのように脆かった。

 しかし立ちすくんでいる暇はない。

「よっと」

 窓枠に手をかけ、よじ登る。

「ーー!!」

 そのまま反動を付けジャンプ。天井の照明に手をかける。

 ダンッ!

 不格好に、どうにか階段の踊り場に着地した。

 草四郎もぼくに続く。


 時間が経つにつれ、攻撃は激しくなっていく。

 絶え間なく、激しい揺れが続く。

 陥落した床を飛び越え、玄関へと向かう。

 内側に倒れた玄関扉。

 瘴気は室内にまでなだれ込んできていた。

 家の照明ももう動かない。手探りで進むしかなかった。


 ファーー

 ファーー

 強い風が耳朶を打つ。

 異形が咆哮していた。

「これは………!?」 

 目の前に現れたのは、漆黒の”マ”だった。

 闇で構成された巨大なその”マ”は、まるで原生の生物だ。明確な外殻を持たない。

 うねり、形を変えていく。


 被害は、尋常のものではなかった。

 ドアは消失している。

 外壁も屋根も、抉り取られていた。

 強い酸のように、闇は空間を蝕む。

 もう白い道も、リンゴの木も、青い芝も何もない。

 すべては闇に飲まれてしまった。

 奈落が一歩先まで、迫ってきていた。


 “マ”はアリアの作ったこの世界全体を壊し、飲み込もうとしていた。

 無数の黒い帯が、球体の体から伸び揺らめいていた。

 ぼくらはすぐに補足された。

 “マ”の表層が波立つ。

 帯が押し寄せてくる。

 刺すような冷気。

 そして闇は形を変えた。

「畜生……!」

 呻くことしか出来なかった。

 “マ”が食らってきたのは、アリアの記憶と感情だけではなかった。

 ミカさんが飲み込んできた、”マ”たちの残滓。

 闇はそれらを蓄え、体内で芽吹かせていた。


 複数の赤い目が、白い牙が、暗闇の中から浮かび上がる。

 群狼だ。

 手垢にまみれた造形。

 この程度の敵は幾度となく、打ち倒してきた。

 だが今のぼくらには、構えを取る間さえ無かった。

 それどころか地面もない。一歩踏み出せば奈落の底だ。

 しかし引くことも許されない。

 逃げ場所など無かった。

 狼の牙がぼくの喉にかかるまで、あと何秒もない。

 その時だ。

 ミカさんがぼくの肩に触れた。ポンと軽くだ。

 大丈夫。

 そう言われたような気がした。

 それでぼくには十分だった。

 ミカさんがそばにいてくれるのだ。この程度の敵に遅れを取るわけが無い。

 大きく体を使うことだけが、舞ではない。

 ぼくは右手を前に伸ばした。

 指先に意識を集中する。

 親指、人差し指、そして小指まで。順に折り曲げる。

 これも大切な所作だ。

 草四郎も、腰にくくりつけた笛を取り出す間もなかった。

 だがあいつも、ぼくと同じ結論に至ったようだ。

 あり物で何とかするしかない。

 指笛が高く響く。

「――――!!」

 風が巻き起こった。

 ぼくの指先から放たれた風だ。

 反動で後ろに飛びそうになる。

 風は光を帯びた刃へと変わる。

 獣たちの叫びが響き渡った。

 肉を持たない影たちは、跡形もなく消え去っていく。

「駄目ですっ!効いてない……!」

 草四郎が落胆の声をあげる。

 漆黒の”マ”は傷を受けた様子がなかった。

 表面が激しく波立つ。

 魔眼は新たな形を紡ごうとしている。

 しかし成果がなかった訳では無い。

 魔眼が吐き出したのは、影だけではなかった。

 飲み込まれて消失していた、地面が戻ってきた。

 アリアが作った草木などは消失したままだ。

 灰色の土があるだけだ。

 しかし立って歩けるだけでも御の字だ。

「行くぞ」

 草四郎に呼びかける。

 ぼくらはようやく家の外へと出た。

 青空は完全に消えていた。

 ぼくらに明るさを与えているのは、眼前の”マ”だった。

 球体の”マ”の表層は、漆黒の影だ。

 しかしその中心で赤く輝く核があった。

 核はひとつの生命のようだった。

 ドクドクと脈打っているのがうかがえる。

「これが、あの魔眼ですか…!?」

 草四郎の言葉に、ミカさんがうなずいた。

「ああ、そうだ」

 ここは黄昏の世界の深部だ。

 父たちは巨大な”マ”から奪った目を、この場所に封じた。

 偶然なのか、アリアはこの場所に迷い込み、辺りの景色を一変させてしまった。

 そして魔眼はその余波で目覚めてしまった。


 風に似た、”マ”の叫び声がやんだ。

 黒い影の帯が引いていった。

 影が凝縮していく……

「次が来るぞ!」

 ぼくは叫んだ。

 草四郎も笛を構え、既に準備を整えている。

「ーーー!」

 “マ”の雄たけび。

 そして強い妖氣を持って迫り来る、影の眷属たち。

 肌が粟立つ。

 恐れを振り払うように、ぼくは舞う。

 草四郎の笛の音は、猛っていた。

 闇は渦巻き、虎の群れへと姿を変えた。

 虎たちは魔眼から与えられた、赤黒い光をまとっていた。

 先陣の狼たちとは違う。

 ただの虚ろな影ではなかった。

 しかしぼくには、ミカさんの力があった。

「ーーー」

 思いを込めて舞えば、風が巻き起こる。

 風は刃に変わる。

 一閃。

 吠え猛る獣の首が、切り裂かれる。

 吹き飛んだ闇の欠片が、頬を掠めた。

 皮膚に灼けるような傷みが走る。

 そしてぼくは”マ”の怨念というべき、波動を感じる。

 魔眼は意志を持ち、我々に敵意を向けていた。

 奴は知っているのだ。

 我々アガミは、奴の宿敵であることを。

 かつて魔眼をその体から切り離し、封じたのはミカさんとぼくの父たちなのだ。

 どこにも逃げ場はない。

 魔眼を打ち倒すしかなかった。

 ーー歌ってくれ、ミカさん!

 声には出さず、ぼくは叫ぶ。

 その間も、舞うことはやめない。

 それは祈りの言葉だ。

 そしてミカさんは、応えてくれた。


 澄んだ歌声が響き渡る。

 それはこの空間全体を巻き込む渦となった。

「ーーーっ!!」

 地面が激しく揺れる。

 倒れまいと、必死で踏みとどまった。

 黒い霧が晴れていく。

 新たに魔眼から生まれ出ようとしていた、異形たちが散っていく。

 そして遂に、魔眼を覆う厚い影に亀裂が入る。

 ミカさんの放つ歌はきらめく星だ。闇を散らし、色のついた風景を取り戻す。

 ーーーアアアア

 しかし魔眼はそのまま倒れはしなかった。

 影が収斂していく。

 その傷を塞ごうとするように。

  ヴィァアアアーー

 そして魔眼は、咆哮を上げた。

 苦痛を訴える叫びではない。

 それは威嚇の声だ。

「!」

 草四郎の笛が、とうとう乱れた。

 ぼくの足も止まってしまった。


 反動がやってきた。

 深い闇が迫ってくる。

 そして闇の奥底で、魔眼が光る。

 次の瞬間だった。

「下がれ、ふたりとも!」

 ミカさんは叫ぶやいなや、己の形をかえた。

 サキさんの姿は保ったままだ。

 だが、その背中に異変がおきていた。

 ミカさんの背に出現したのは翼だった。

 ぼくの傍らにいつもいる、鳥のミカさん。

 その瑠璃色の羽だ。

 ぼくと草四郎を包み、守るように、大きく翼を広げる。

「ミカさん……っ」

 ぼくは叫んでいた。

 敵の攻撃が放たれた。それはもはや獣の形はしていない。

 黒い雷光が襲ってくる。

 ミカさんの羽が舞い散る。

 どんな異形と戦った時も、こんな事はなかった。

 ミカさんが傷つけられるのを見たのは、いまが初めてだった。

「………!?」

 ミカさんの羽の隙間から伺えば、そこには怖気のたつ光景が見える。

 魔眼を覆う闇は引き、その表面には白い花が咲いていた。

 違う。

 白く揺らめいているのは、広げた手のひらだ。

 影の奥から現れたのは、人の手だった。

 一、二、三……

 みるみるうちに数えられぬほどに増殖していく。

 マニュキアの塗られた女の手。毛深い男の手。柔らかな子供の手。しわだらけの老婆の手……

 ほの青い肌。それらは全て亡者のものだ。

 これも、この世界に巣食っていた異形共のかけらだ。

 手たちは影に溺れ、そこから逃れ出ようともがいていた。

「まったく鬱陶しい」

 ミカさんがため息と共に呟く。

 いま受けた僅かな傷など意に介していなかった。

 ミカさんは再び歌い始める。

 歌は尽きない。

 歌は光へと変わる。

 光の弾丸が、亡者たちの手を貫く。

 赤黒い血が、飛び散った。

 だがそれは芯までは届かない。

 魔眼は未だ無傷だ。

 立ちすくむしかないぼくらに、ミカさんは笑いかける。

「ここは狭すぎる」

 そう言うとミカさんは、指でピストルを作った。

「バキューン!」

 ミカさんは明るく口でピストルを鳴らした。

 そして天に向かって、引き金を引く。

 闇の天井は砂糖菓子のようにもろく崩れる。

 空が拓けた。

 赤い夕日だ。

 温かく眩しい光。

 安堵で涙が出そうになった。


 ミカさんは、地面を蹴り羽ばたいた。

 その双眸が翼と同じ、瑠璃色に輝いていた。

 翼を持つ天使。

 そう形容するには、あまりにも禍々しい姿だった。

「ぼくたちも連れて行ってください!」

 転がり出るように、ミカさんに必死で手を伸ばす。

「デカいのをふたりも抱えてられないよ。ほら、これを使え!」

 ミカさんは自分の羽を引き抜いた。

 そして一片ずつ僕らに渡す。

 瑠璃色の羽は、たちまち羽衣へと変化する。

 絹のように艶やかで、透けるほどに薄い。羽と変わらぬ重さだ。

 戸惑っている暇はない。

「………!」

 身にまとえば、間髪入れずぼくらの体も地面から離れる。

 ぼくらは飛ぶために、念じる必要さえない。

 だが制御も出来ない。

 まだ数十センチ浮かんだなのに、冷や汗が出る。

 水中へ投げ込まれたのと同じだ。もがいても無駄だ。身を任せる他はない。


 ヴィァアアアーーー

 ヴィァアアアーーー

 叫び声をあげて、魔眼を包む闇が動く。


 ぼくらは上昇していく。

「危ないところでしたね……」

 草四郎の言う通りだ。

 魔眼は食らうことで、回復を図ろうとしていた。

 大地は再び、闇に侵食されつつあった。

 影がアリアのいる家にかかる前に、決着をつけねばならない。

「来るぞ!」

 ぼくは叫んだ。

 魔眼は、執拗な空中に手を伸ばす。

 無防備な僕らを守り、ミカさんは羽を広げる。

 魔眼を包む闇が裂けた。

 そして、そこから無数とも思えるつぶてが飛んできた。

 それは鳥の群れだった。

 目のない、漆黒の鳥。

 黒い羽根を広げ、こちらに向けて一直線に突っ込んでくる。

「………!」

 数百もの鳥のたてる羽音。

 そして鳴き声。

「ーーーー!」

 何事かを叫ぶ、草四郎の声も聞こえない。

 鼓膜が破れそうだ。

 それは自然の生物ではない。

 群れに一切の乱れは無かった。

 魔眼の意思を帯びた、凶器だった。

 ーーバチン!

 耳元で強烈な破裂音が響く。

 一羽のくちばしが、ぼくの首筋に届く寸前。その四体が弾けた。

「サンキュ」

 跳ね返った血しぶきを拭いながら、唇の動きで礼を言う。

 手のひらから放たれた、見えざる刃。

 ミカさんの守りをすり抜けた、一羽を落としたのは草四郎だ。

 笛の音に寄らず、術を発露させる。

 草四郎が、谷さんから教えられた技だ。

 鳥たちの個々の力は弱い。

 だが数は多く、切れ間というものがない。

 態勢を整える間さえも、与えてくれなかった。

 そしてまた、闇は次の一群を吐き出した。

 ギィギィと耳障りな鳴き声をたて、目のない鳥は不規則な軌道を描く。

 すべてを捉えるのは容易ではない。

 一羽、二羽……

 十羽までは、草四郎の見えない刃の餌食となった。

 やがて一羽が、ミカさんに掠めた。

 羽が散らされる。

「ミカさんっ!」

 ぼくは思わず、ミカさんへと手を伸ばした。

 ふわりーーー

 その手のひらに、一片の羽が落ちた。

 瑠璃色の羽は、扇へと変わる。

「セイ、それを持って踊れ。草四郎、笛だ」

「「はいっ!!」」

 必死に応えるぼくらを見やって、ミカさんは微笑んだ。

 ミカさんは人でもなく、獣でもない姿をしている。

 けれど、その表情は常になく優しかった。


 ミカさんは歌う。

 朗々と声が響く。

 ようやくぼくらはミカさんの歌と、共に舞うことができた。

 ーーri-ri-

 --ri-ri-

 囁くように始まって、幾重にも歌は重なっていく。

 慄いた鳥たちは羽ばたきをやめ、奈落へと落ちていった。

 世界が揺れている。

 満ちていた闇が、光へと塗り変わっていく。

 歌は魔眼の、邪悪な声を弱めていく。

 草四郎の笛の音が、歌を鮮やかに縁取る。

 陶然と、僕はその調べに聞き入っていた。

 踊れよ、セイくん。

 ふたりが言った。

 縦横無尽だ。

 ぼくは空を駆け巡る。

 舞台は果てなく広がっている。

 歌を翼に、僕はどこまでも高く飛ぶことができた。

 調べと共に、ぼくらはミカさんと一体になる。

 ミカさんから受け取った、瑠璃色の扇。

 ひとつ扇げば、青い炎が上がった。

 炎は火矢となり、闇を焼いた。

 闇の裂け目から、次々と内包物が零れ落ちていく。

 闇は先刻までの力を失っていた。

「出すもん出して、とっとと腹の底を見せやがれっ!」

 ミカさんが笑う。

 歌は止まらない。

 そして巫舞が最高潮に達した時、ミカさんは両手を掲げる。

 現れたのは、煌めく銀。

 それは西洋の死神が手にする、大鎌だった。

 ミカさんは上昇した。

 大きく鎌を振り上げ、魔眼を包む闇へ天頂へと突き立てる。

 ヴイイイイィァーーーーアアアゥゥウゥヴーーー

 断末魔の叫び。

 黒い球体が歪み、そして弾けた。

 闇に包まれていた全てのものが、一気に噴射される。

「………!!!」

 もう闇の一片たりとも、ぼくらに届くことは無い。

 ぼくらはミカさんに守られている。

 確信していても、恐怖をおぼえる光景だった。

 闇が飲み込んでいたものは膨大だ。

 それらが濁流となって押し寄せる。

 先ほどまでの、生物たちとは違う。

 光の元では形を持つことさえ出来ない、吐しゃ物だった。

 闇と交じり、癒着した獣たち。

 その有り様は酸鼻を極める。

 子牛の胴体に、犬の頭と鷲の頭が縫い付けられた化生がいた。赤黒くただれた女の化生の背には、数十匹もの魚が生えている。

  どの獣の目も白く濁り、口からは苦痛と怨嗟の声をあげる。

 歌と笛に導かれ、異形どもは黒い穴から次々と這い出して来る。

 そして為す術なく、奈落の底へと落ちていった。


 ミカさんの歌は続く。

 歌は光の矢となった。弧を描いて飛び、異形どもを打ち抜いていく。

 異形たちは血を流すこともなく、黒い塵となってかき消えていった。

 彼らの苦しみは終わった。

 ぼくたちも舞を続ける。

 扇からほとばしる青い炎は清めとなる。

 草四郎の笛は、その追い風となった。

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