54.
ここはどこだ?
見渡しても、答えは出ない。
ぼくらがくぐったのは、母屋の玄関ドアのはずだ。
現実では、毎日出入りする扉。
しかしその向こう側には、見慣れぬ景色が広がっていた。
いままで通ってきた場所は、アリアの過去と現在の記憶だ。
ならば、ここは?
「ここが、アリアさんの思い描いた未来……?」
草四郎が戸惑いの声をあげる。
「そういうことになるのか?」
ぼくも困惑していた。
夢の景色が広がっている。
いい夢ではない。
不条理な悪夢だ。
常にこの世界を照らしていた、夕日は消えていた。
代わりに、雲一つない青空が広がっている。
しかしぼくらは真冬の寒さを覚えた。
吐く息は白く変わり、手指がかじかむ。
この明るさは、太陽がもたらすものでは無い。
この熱のない明るさは、虚構のものだ。
目の前には、一本道が伸びている。
石灰質の白い石畳の道だ。
道の両側には、青々と草が茂っている。
そして枝がしなるほどに実をつけた、野生のりんごの木があった。
ニレイさんの姿をしたミカさんが、無遠慮にりんごをもぎ取った。そして一口かじる。
「うん、まずい。スカスカだ」
「拾い食いは、やめてください」
草四郎がたしなめた。
まったく、うちの守り神ときたら……ここまできても緊張感がない。
道の先には白い家がみえた。
砂糖菓子のような家だ。
「なんともメルヘンチックだ。あの子も案外、可愛いものが好きなんだよね」
カラカラとミカさんが笑う。
しかし、ぼくと草四郎の顔は強ばっていた。
目的地はあの家だ。
きっとそこにアリアがいる。
しかし足はすくんでいた。
道、草地、りんごの木、白い家、そして青空……
目に映る景色は、驚くほどに鮮やかだった。
外国の絵葉書に描かれるような風景だ。
しかし、形あるものはそれだけだ。
家を中心に半径200M。
その外側には、何もなかった。
地面すらもない。
あとはただ、黒い闇が広がっている。
ここは異界の黒い海に浮かぶ、浮島だった。
ぽつんと立つ白い家は、黒い海に浮かぶ墓標のように見える。
「なんだ怖いのかい?弱虫だな」
ミカさんに煽られても、なにも言い返せない。
そうだ、怖い。
先程の大落下も、二度と味わいたくない体験だった。
しかしこの奈落を覗き込めば、また別種の恐怖に襲れる。
この絶壁の下は、アリアの本当の無意識下だ。
ただの闇ではない。
深い海の水面だ。
濃淡のあるきらめきをたたえ、こちらを手招きするように揺らめく。
ここに落ち込んだら、二度と戻れない。
そんな気がする。
「でもグズグズしている場合じゃないぜ。霧が出てきた」
ミカさんの言う通りだった。
外側の黒い海から、黒い靄が押し寄せてきていた。
やがて、この場所も外側の黒い海と同化してしまうだろう。
記憶という背骨がある今までの場所とは違う。
この空間は、いつ消えてもおかしくない不安定なもののようだった。
覚悟を決めるしかない。
「行きましょう」
草四郎は、そう言うなり駆け出した。
「ああ」
ぼくもそれに続く。
白い道を走り、白い家の前庭へと入る。
クレマチスにチューリップ、マリーゴールドにパンジー……
花壇には、色とりどりの春の花が揺れていた。
バルコニーにも鉢植えが見える。
しかしこの寒さだ。
霧に飲まれなくても、一晩とたたないうちに花たちは凍てついてしまうだろう。
庭にはペンキを塗ったばかりの、真新しい犬小屋もあった。
しかし犬は繋がれていなかった。
その事に安堵する。ここは生き物が暮らせる場所ではない。
屋根には風見鶏がまわる。
煙突もあった。
「花に子犬。そして煙突があるってことは暖炉もある。一昔前の流行歌の通りだね」
ミカさんが、その歌をハミングしてみせる。
白く小さな家を建てて、犬を飼い……アリアは静かに、弟と暮らすことを夢見ていたんだろう。
それを陳腐な夢だと笑うことは、出来なかった。
アリアはなぜ、こんな小さな家を作ったのだろう?
どうせ夢なんだ。
城を建ててもいい。遊園地を付けたっていい。
しかしアリアは、トウヤと二人きりで過ごす場所があれば、あとは何もいらないと考えたようだ。
正面玄関から中に入った。
ノッカーを使う必要はない。
扉に鍵はかけられていなかった。
土足のままズカズカと、奥へと入り込む。
窓にはレースのカーテンがかけられている。
鮮やかな花柄の壁紙で部屋は彩られていた。
よく磨かれた板張りの床。
オークの木で作られた家具たち。
暖炉の前には、揺り椅子が置かれている、
居間の飾り棚には、色とりどりのカップとソーサーが並べられている。
アリアはひとつひとつ吟味して、これらの小物を配置していったのだろう。
普段は自分の身の回りに構わないくせに。
居間、浴室、キッチン……
片っ端からドアを開け、ぼくと草四郎は大声で呼んだ。
「アリアさん!そこにいるんですか」
「返事をしてください!」
しかし、ふたりで暮らすための家だ。
そう広いものではない。
まもなくアリアが見つかった。
二階の子供部屋に彼女はいた。
出窓の前に立ち、静かに外を見ていた。
長い髪をすっきりと束ねていた。
アリアは黒いワンピースを着ている。それが喪服のように見えた。
ぼくらが来ても、身動ぎひとつしない。
まばたきすら控えて、窓の外をジッと見ていた。
弟のトウヤが来るのを、待っていた。
「アリアさん、無事で良かった」
ぼくが声をかけると、やっとアリアは振り向いた。
アガミの装束を着て、緊迫した表情のぼくらを見ても驚きもしなかった。
「わたしを探しにきてくれたの?こん遠くまで」
アリアの目に錯乱の色はない。
「ええ、心配しましたよ」
大丈夫だ。怪我などした様子はない。ぼくはホッと息をつく。
「エイくんにも謝らないと。わたしが黙って行っちゃったから、きっと心配している」
どこか他人事のようにアリアは言った。
少し寄り道をして、みんなに心配をかけてしまった。
それだけのこと。
そんな口ぶりだ。
何かが噛み合わなかった。
「あの子はどこ?一緒じゃないの?」
そしてアリアは尋ねた。
あの子。
弟のトウヤのことだ。
「さあ帰りましょう」
草四郎は答えずに、アリアの手を引く。
「……」
アリアは無言でその手を振り払った。
沈黙が尾を引く。
それを破ったのはミカさんだった。
「君の弟、トウヤは来ない。いくら待っても。そんな人間は元々いないんだから」
ミカさんに躊躇はない。
叩きつけるように、ただ真実を述べる。
「……」
苦痛をこらえるように、アリアの顔が歪んだ。
「ミカさんっ!」
「草四郎、君まで感傷的になるなよ。彼女だって本当は分かっているんだ」
ここは他の部屋とは違い、子供部屋らしく程よく雑然としていた。
学習机の背には、黒いランドセルがかけられている。
テレビにファミコン、ミニ四駆に野球道具といった遊び道具もあった。
壁には、世界地図とことわざの書かれたカレンダーが貼られている。
どれもアリアが弟のために選んだものだ。
男子小学生に必要なものなら、何でもそろっている。
いないのは、トウヤ本人だけだ。
「ケンカはあとです」
睨み合うミカさんと、草四郎の間に割って入る。
窓の外に見える霧が、いっそう濃さを増していた。
「アリアさん、ここは危険だ。外に出ましょう」
谷さんに義理立てして、魔眼を探すどころではない。
早くこの場から離れなければ。この家はやがて霧に飲まれてしまう。
しかし、返ってきたのは拒絶の言葉だった。
「ごめん。わたしは帰れない」
いつになく、彼女が遠く感じる。
「もうすぐ弟が帰ってくるの。そろそろ、夕飯の準備をしないと」
「何を言っているんですか……?」
草四郎の言葉に、アリアは首をかしげる。
「どうしたの?先生、怖い顔してる」
しっかりと目は開いている。
だが目の前のアリアは、自分が作り上げた夢に囚われていた。
黒い海に浮かぶ小さな家。
しかし、アリアはこれを日常だと言い張る。
「今日のメニューは何にしようかな。ハンバーグ、それともカレー………セイさんみたいに上手には出来ないけど、頑張らないと」
アリアは微笑んでさえみせる。
ガシャン。
背後で大きな音がした。
「……!」
驚いて振り向けば、学習机に置かれていた地球儀がなぎ倒されていた。
ミカさんがやったのだ。
「駄々をこねるんじゃない」
大声を出したわけではない。
しかし目には殺気といっていい程の、怒りが浮かんでいる。
ミカさんが借りたのは、ニレイさんの姿だけのはずだ。
だがこの瞬間は、心まで乗り移ったようだった。
「やめて!なにをするの!?」
アリアがミカさんの腕に取りすがる。
ミカさんはアリアを振り払った。
「壊さないで!」
床に倒れながらも、アリアは叫んだ。
「こんなものに意味なんてない。全部夢なんだ」
ミカさんは止まらない。
カーテンを引きちぎり、手当り次第のものを投げる。
ぼくと草四郎は、ただ呆然と見ていた。
「やめて!」
アリアはミカさんの足首を掴んだ。
構わず、ミカさんは壁のポスターを破こうと手を伸ばす。
アリアはよろめきつつも、立ち上がった。
「あんたはニレイのおっちゃんじゃない。おっちゃんのふりをしたオバケじゃない!」
アリアが目覚まし時計を手に取り、ミカさんめがけて投げつけた。
「偉そうに言わないで!!」
ミカさんは瞬時に鳥の姿に変わって、空中に逃れた。
「……っ!!」
アリアは、床に落ちた目覚まし時計を大事そうに拾い上げた。
そして、また元の場所に戻す。
「わたしは帰らない!ここにいる!」
アリアはぼくたちから背を向ける。
「それは聞けません」
草四郎がまたアリアの手を引いた。今度は強く。
「アリアさん、一緒に帰ろう。ミカさんの、その神様の言う通りだ。弟さんは来ない。ここにいたらアリアさん、独りぼっちだ……」
草四郎はもどかしそうに、愚直に言葉を重ねる。
アリアは床に座り込むと、耳を抑えてうずくまった。
怖い話を嫌がる、小さな子供の様だった。
「分かってるよ……」
アリアは震えていた。
「でもね、捨てられないの。諦められないの。大切なの!」
全身を振り絞るように、アリアは叫んだ。
このままでは、彼女の心が壊れてしまう。
「ミカさん、ぼくらをここから連れ出してくれ。早く!」
ぼくはパタパタと飛ぶ、ミカさんに助けを求めた。
この場所は凍てつくように寒かった。
一刻も早く、明るい陽の元に帰らなければ。
ミカさんはひらりと舞い降りて、また姿を変える。
今度は着流し姿のサキさんだ。
「無理だ。抱えて飛ぼうとしても、この子は俺の手を拒む。それに厄介な客が来た」
ミカさんが言い終わるのと、同時だった。
玄関から扉を叩く音が、響いてきた。
ノック……いや扉を破りそうなくらい、強く、重い打撃。
何かがやって来た。
「セイさん、見てくれ。外が……!」
草四郎が窓の外を指さした。
偽りの青空は消失していた。
景色は黒一色に変わっていた。
この世界に、訪れるはずのない夜が来た。
「違う、これは闇じゃない……」
ぼくはうめいた。
闇が動いている。
黒く伸びた帯は、こちらに手を伸ばすように蠢めく。
来訪者は巨大な”マ”だ。
闇はその異形から、立ち上るものだ。
その者がまとう瘴気が、この闇を作り出している。
ドン!ドン!ドン!
階下からは、激しい衝突音が響き続ける。
間もなく玄関のドアが砕け、倒れる音が響く。
来訪者の標的は、間違いなくぼくたちだ。
家の外はすでに闇に飲まれている。
逃れられる場所はない。
ここで迎え撃つしかなかった。
道も庭も草木も、窓から見える景色は闇に飲まれていた。
“マ”自体の姿も、闇に阻まれうかがえない。
しかし、伝わってくる衝撃が敵の巨大さを示していた。
「このまま押し潰すつもりかよ!?」
扉を壊しても敵は、侵入してこなかった。
来訪者は、さらに激しい体当たりを繰り返す。
グラグラと家全体が揺れる。
窓ガラスは軋み、天井の照明は振り子のように振れた。
「少しでも安全な場所は……」
この子ども部屋にはクローゼットがあった。
収められている子供服や替えの寝具を引っ張り出す。
「アリアさん、少しの間我慢してください」
ぼくと草四郎は、立ち尽くすアリアを、半ば抱えるように運ぶ。そしてクローゼットの中に押し込める。
ぴょん。
扉を閉める寸前、ウサギの谷さんがクローゼットの中に飛び込んだ。
「ウサギ……?なんで、ここに?」
アリアが谷さんを抱き上げる。強張っていた、表情が動いた。
これが谷さんの成れの果てだとは、アリアはまったく気づいていない。
「このお兄さんたちが、怖いお化けを追っ払って来るから。ウサちゃん、その間お姉さんを頼んだぞ」
谷さんに目配せをする。ウサギの姿でもいい。
谷さんがアリアについていてくれれば、安心だ。
「………」
聞いているのだか、いないのだか。
谷さんはピクピクと鼻を動かしているだけだ。
「アリアさん、ウサギを頼みます」
草四郎の言葉に、アリアはしっかりとうなずく。
「分かった」
自分より小さな生き物を守らなければ。
アリアはそう決意したのだろう。彼女はギュッと、谷さんを抱え込んだ。
ウサギのくせに、猫をかぶった谷さんは、大人しく抱かれていた。
「すぐ戻ります」
草四郎がアリアの隠れたクローゼットのドアを閉めた。




