53.
「開いた!」
小さくガッツポーズする。
その鍵は、子供部屋の学習机のものだった。
鍵を開け、中を覗く。
「うーん……?」
引き出しには教科書も、ノートも、オモチャも詰まっていなかった。
入っていたのは、一冊の絵本だ。
へりがボロボロに擦り切れるまで、読み込まれた『白雪姫』。
幼いアリアのお気に入りだったんだろう。
きっと両親にせがみ、何度も読み聞かせてもらった絵本だ。
「で、また鍵か」
毒リンゴを食べて、眠り続けるお姫様。
そのページに、小さな鍵が挟まっていた。
次の鍵穴はすぐに見つかった。
夫婦の寝室に置かれた、ジュエリーケース箱の鍵だ。
ガラス製のアンティークの箱。アリアの母のものだろう。
イヤリング、ネックレス、指輪……どんな装身具が収められていたんだろう。
この部屋で美しく装う母の姿を、幼いアリアは憧れの眼差しで眺めていたはずだ。
それも彼女の大切な思い出だ。
さて、箱の中にはまた鍵があった。
この家には、もう開いていない扉や引き出しはなかった。
ミカさんが言うには、窓から見える風景はまやかしだ。
玄関の外には、出ない方がいい。
「仕方ない。来た道を戻るか」
先ほどの白い回廊を進むと、木製のドアがあった。
手持ちの鍵で扉が空いた。
空っぽの部屋だ。
床にはぽっかりと、黒くて深い穴がひとつ空いている。
穴には、スチールの梯子がかけられていた。
「やれやれ、また潜るのか」
「行くしかないでしょう」
その穴は、やっとぼくの肩が通るほどの狭さだ。
「ミカさん、ライトをお願いします」
「はいよ」
草四郎は、篠笛の袋の紐を解いた。
その紐を使って、どうにか懐中電灯を頭に括り付ける。
草四郎が先頭になって梯子を下りる。
たどり着いた先は小部屋だった。
硬いタイル張りの床。
窓はない。ここが地下なのか地上なのかすら分からない。
白白と蛍光灯が点っている。草四郎は懐中電灯を消した。
「この先にも、アリアさんの過去があるんでしょうか……?」
草四郎は浮かない顔をしていた。
草四郎は潔癖だ。
想い人の心の中に、踏み込むことに強い抵抗を覚えている。
しかし過去といっても、アリアは15歳。
自伝を書くほど、長くもない人生だ。
時間だけを考えれば、この先の部屋は少ないはずだ。
しかしアリアの人生を深さで考えるとまた違う。
彼女の生い立ちは少し複雑だ。
生まれた時から父はおらず、心を許した継父のニレイさんとも離れることになった。
その後は女優の母の手ひとつで育てられ、その母も亡くした。
内気で不器用な子どもだった。
学校に馴染めず、転校を繰り返した……
しかしぼくも草四郎も知っていた。
アリアはただの、繊細な少女じゃない。
余人にはない強さも持っている。
その心の奥は、どこまで深いのか。
なにが隠れているのか。
想像もつかなかった。
突き当たりに、ドアがみえる。
スチールのドアだ。
「見覚えのあるドアですね」
「ああ」
草四郎に言われるまでもない。毎日のようにくぐるドアだ。
ノブを少し回してみる。
鍵はかかっていなかった。
「失礼します」
ノックをしたが、応答はない。
予想は当たった。そこはいま現在、現実のアリアが暮らす部屋だった。
ホスピタルの離れ、練習室と呼ばれる場所だ。
床に広げられた辞書。筆圧の強い走り書き。
床に広げられたままの布団。
紅茶のポットとカップまであった。ぼくが今朝、アリアのために淹れた紅茶だ。
殺風景な、四方の壁が鏡張りの部屋。
現実世界の練習室そのままだ。
まさかこの瞬間、ぼくは目覚めてしまったのか?
そして現実へ戻ってきたのか?
「なんだい、狐につままれたような顔をして?」
呆然と立ち尽くすぼくに、ミカさんが笑いかける。
草四郎に抱えられた、ウサギの谷さんはピクピク鼻を動かしている。
ふたりを見れば分かる。
ここはまだ黄昏の夢の中だ。
「アリアさんの匂いがする」
初めてこの部屋に入った草四郎が、頓珍漢な感想を漏らす。
「気持ち悪いこと言うな」
まったくもう。
しかしアリアの姿は、ここにもない。
ここが行き止まりのはずだ。
彼女は、どこに行ったんだ?
「外はどうなっているんでしょうか?」
草四郎がカーテンを開いた。
窓の外は見慣れた庭だった。
ホスピタルの庭だ。
空は黄昏。
日は既に落ちつつある。
星がまたたき、群青と橙が層をなしている。夕暮れから夜への境目の時刻だ。
現実世界では枯れてしまったはずの柿の木が、眼前にあった。
この世界の季節はいつも夏だ。
風にそよぐ青々とした葉が、いまは不吉な印に思えた。
「どうにか母屋に渡れませんかね。そこにアリアさんがいるかもしれない……」
窓の外に目をやり、草四郎が思案する。
現実世界では、庭に繋がっている入口のドアは使えない。先ほどの小部屋に出てしまう。
ならば窓から飛び降り、庭から母屋に行くか。
ニ階程度の高さだ。できないこともない。
「あっ、痛っ!」
不意打ちだった。
「ちょっと谷さん、なんで噛むんですか!?」
谷さんがぼくの足の親指を、ガブリとやった。
足袋越しでも、その攻撃は中々効いた。
このウサ公。
もう少し穏やかに意思表示はできないのか?
ぼくらの注意をひくことに成功した谷さんは、ピョンと作業机に飛び乗った。
雑多な仕事道具が広げられた机。
その片隅には、息抜き用のラジオも置かれている。
谷さんはラジオの前で、タンタンと前足を踏み鳴らした。
「スイッチを入れろ、そう言ってるんですか?」
草四郎が尋ねるとウサギは、フンフンと肯定の声を出した。
この世界にラジオ放送局があるとも思えない。
期待はしないで、ラジオのスイッチを入れた。
果たして、聞こえてきたのはザーザーというノイズばかりだった。
「フンフン」
谷さんは、あきらめるなと言っているらしい。
小刻みに、選局ダイヤルを回していく。
するとようやく、クリアな音声が聞こえてきた。
『あー、テステス。本日は晴天なり』
ホワンと膜を一枚隔てたようなくぐもった声。
『セイくん、草四郎くん、そしてアガミの神様、聞こえますかー?』
「「谷さん⁉」」
草四郎とふたり、ラジオを引っ掴んで叫ぶ。
『コホン、返事はそこにいる可愛いのに、お願いする。俺はただ一方的に話すしかない』
ラジオの谷さんが、咳払いをする。
こちらの声は、人間の谷さんには届かないらしい。
だから返事はウサギにしろと。中々ややこしい。
『日比野アリアは、次の部屋にいるだろう』
谷さんは断言した。
『しかし彼女を連れ出すことは、おすすめしない』
「どういう意味ですか……?」
草四郎がウサギを睨みつける。
『君たちは、あの目を見つけることだけを考えればいい。あの子のことは放っておけ』
「聞けませんね」
草四郎は、窓枠に手をかけた。柿の木に飛び移るつもりらしい。
『なぜ怒るんだ?』
谷さんはそう尋ねると、ぼくらの反応を待つように一拍おいた。
『落ち着けよ。彼女はちゃんと現実でにいる。朝が来て目覚めれば、また会える』
「しかし……!」
草四郎が抗議をするが、また谷さんが遮った。
『先日の件は、俺の手落ちだ。謝罪するよ。もう二度と奴らを、彼女に近付けたりしない』
強気な態度に変わりない。
だがいまの谷さんの声にはかすかに焦りが伺える。
「なぜ、ぼくらをアリアさんのところに行かせたくないんですか?」
当然、草四郎が問いただした。
しかし、谷さんは答えなかった。
『時間がない。敵より先に目を探し出さねば……』
「この世界では、時間は理由にならない。あなたも分かっているはずだ」
全ては刹那であり、永遠でもある。ここはそういう場所だ。
ぼくはウサギに手を伸ばし、腕の中に抱きとめた。
「他の理由があるんですか?」
谷さんの物言いは、いささか不自然だ。
『…………』
沈黙が返ってきた。
「目覚めればまた、アリアさんに会える。そうあなたは言うが。でもこの世界に確実なことは、なにもないんだ」
草四郎が言い募る。
「この手で、彼女の手を掴む。そして一緒に現実世界に戻る。それが絶対だ」
『……』
ラジオからため息が聞こえた。
しかしそれは、ぼくらの気を逆撫でするためワザと出したものではない。この男には珍しい、弱気が漏れたものだった。
『ナイト気取りも大概にしろよ。まるで、あの子のことが見えてない』
「どういう意味ですか?」
草四郎は苛立ち、尋ねる。
『無理やり彼女の手を引いて、どこに連れていく?現実はあの子が生きやすい場所じゃない。せめて夢の中では、好きな場所にいさせてやれ』
「冗談はやめてください!こんな場所にアリアさんを置き去りにしていいはずがない」
『こんな場所ね……ここは君たちのカミサマの世界だろう?』
「そうだ。人が長くいて良い場所じゃない」
草四郎の言う通りだ。ミカさんと同化したふたりの五島万とアリアは違う。
彼女は無防備だ。有象無象の影が蠢く、危険な場所に生身を晒している。
しかし谷さんは譲らなかった。
『どこまでが健全な夢で、どこからが病いなんだ?盲腸を切るようにはいかないんだ。あの子をバラバラにするつもりか?』
「トウヤはアリアさんの家族なんかじゃない。彼女の心を絡め取り、枯らしてしまう……悪霊も同じだ」
絶対に打ち砕かねばいけない。草四郎は言った。
『トウヤはあの子にとって、100%の悪か?君はそう言い切れるのか』
「……そうだ」
草四郎の声が揺らいだ。
トウヤ。存在しないはずのアリアの弟。
彼はアリアの心に住んでいる。
血の通った人間として、そこにいる。
嬉しそうに、トウヤとの思い出を話したアリア。
大切そうにトウヤからもらった栞を見せてくれたアリア。
思い返せば、胸が締め付けられた。
弟のトウヤは彼女の心の支えだった。
『彼女は強くない』
草四郎が僅かにみせた迷いを、谷さんは逃さなかった。
『幻想を揺らされた程度で、彼女は人を刺した。ペンを持てなくなった。喪ったらどうなる?完全に壊れてしまうだろう』
そして谷さんは、偽悪者の面子を保つために余計な一言を加えた。
『ま、俺にとってどうでもいいことだがな』
「アリアさんは……彼女は孤独じゃない。ニレイさんとサキさん、ふたりがついている。ぼくたちだっている。だから乗り越えることができる」
それは期待の押し付けだ。
言った草四郎も分かっていた。
『甘ちゃんのお前らが、あの子のために出来ることなど何もない』
谷さんは断言する。
『彼女を捉える幻想を壊す。結構なことだ。でも代わりに何を与えてやれる?』
妄執という足枷から解放されたとしても、穏やかな日々はアリアに訪れない。
『なまじっか君らの目論み通りにいったとしてもだ。弟という幻想を奪った君たちを、日比野アリアは激しく憎むようになる』
そしてアリアは粗悪なもので、心に空いた穴を埋めようとするだろう。
『情緒大いに不安定な美少女。おまけに自分で稼いで小金も持っている。これ以上のカモもない。悪い友達。ゴミみたいな男。すぐにできるさ』
ペラペラと、ラジオの声は語り続ける。
『ヒモ男に殴られて、金をとられて、うわべだけの友達には利用され、骨の髄までしゃぶられて、ぼろ屑にされて、捨てられて……次に、彼女の心の隙間を埋めるのはなんだ?酒か?男漁りか?ギャンブルか?どちらにせよ、辿り着くのはゴミだめだ』
草四郎はウサギを睨みつけた。
しかし動じる気配もない。ラジオから流れる自分の声に合いの手を入れるように、生意気に鼻をならす。
『ああ、彼女は内弁慶だからな。違う方面で活躍するかもしれない。手首を切って、睡眠薬を山盛り飲んで、バケツ一杯の飯を食っては吐くことを繰り返す……』
谷さんの言葉を笑い飛ばすことが出来ないのは、それが荒唐無稽な未来予想ではないからだ。
母が亡くなった時に、ニレイさんとサキさんが助けの手を差し伸べなければ。アリアが、転んでいたかもしれない道だ。
『君たちに、彼女にとどめを刺す権利があるのか?』
「はは……」
笑い声をあげたのは、ぼくだ。
『なにが、おかしい?』
「嬉しいから笑ったんです。谷さんだって、アリアさんのことを大切に思ってる」
そして、こんなに感情的になる谷さんを初めて見た。
「彼女を見つけ出し、連れて帰る。どうしてもです。後のことは、それが済んだらまた考えますよ」
ぼくは言った。そして横に目をやる。
草四郎もまたうなずく。
「アリアさんのことは絶対に守る」
絶対なんてことは、世の中にはない。
でも草四郎は誓った。
「こんな姿になっても、あんたは強いんでしょう?力を貸してください」
ぼくの言葉に、谷さんは舌打ちをぶつける。
『小僧どもが…知った口を叩くんじゃねえ』
勝手にしやがれ。と、最後にまた大きな舌打ち。
そして谷さんは会話を打ち切った。
ラジオからはもう、ザーザーという音しか聞こえてこない。
「気は済みましたか?行きますよ。谷さん」
草四郎が、ウサギを抱き上げる。
草四郎はスッキリとした顔をしていた。こわばりも気負いも、僅かにあった迷いも、吹っ切れたようだ。
「よしよし」
僕は横から手を伸ばした。
草四郎の腕の中にいる谷さんを、うりうりと撫でてやる。
「あ、痛っ!」
そして、また指をかまれた。
まったく、このウサ公は素直じゃない。




