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花とペン  作者: 井上マイ
52/68

52.

 揺さぶられるな。

 下手な想像は、状況を悪化させる。

 それがこのアガミの鉄則だ。

 誰だ、落とし穴なんて想像した馬鹿は?

 ……うん。ぼくと草四郎だ。

 分かっていたのに、つい出てしまった。

 屁みたいなもんだ。

 その結果が、高度100メートル超からの垂直落下だ。

 風が全身を打つ。

 夕暮れに染まった雲を裂き、どこまでも落ちていく。

「ヒあああああ!」

 引き攣った悲鳴しか出てこない。

 そして、すぐに声も出なくなった。息を吸い込む間すら与えられない。

 まばたきも出来ない眼球が、痛いほどに乾く。

 もう間もなく、ぼくらは地面に叩きつけられてお陀仏だ。

「やれやれ。なんで君たちは、余計なことばかり考えるんだ?」

 ミカさんはいともたやすく、空中で静止した。

 夕暮れの空に優雅にたたずむ。

 見えない羽が生えているようだ。

「よっと」

 ミカさんが軽く手を動かせば、ぼくらの落下はピタリと止まる。

 そのまま襟首を乱暴に捕まれ、吊り下げられた。

 右手にぼく。左手に草四郎。

 ミカさんはまったく力持ちだ。

 ぼくらを両手に抱えて、ゆらぎもしない。

 直下行にスイスイ降りていく。

「ゆゆゆ揺れる!揺れてますってーー!グラグラするぅう!嫌だぁぁぁ!!」

「もっと、ゆっくり降ろしてくださいーーっ!!」

 わめく僕らにミカさんは、余裕の呆れ顔だ。

「泣くんじゃないよ。男だろう?」

 そう言われても、怖いものは怖い。

 シートベルトに守られたジェットコースターとはわけが違う。

 おまけにピョンと谷さんが、ぼくの頭部に爪を立てしがみついているのだから堪らない。

「痛、痛いって!血が出る!禿げる!谷さんやめて!!」

 永遠にも思えた十数秒間。

 地面に着くころには、ぼくらはすっかり消耗しきっていた。

「いつまで、しがみついるのさ」

 猫の子のようにポンと、ミカさんに投げ出される。

 ぼくらはそこで、やっと周囲を見渡した。

 先ほどまでいた商店街とは、ガラリと様子が変わっていた。

 地面は湿り気を帯びた、むき出しの土。

 地下足袋越しに、シンとした冷たさが伝わってくる。

 四方は石の壁だった。

「随分とまぁ……深くまで落ちてきたものですね」

 上を見上げて、草四郎が嘆息する。

 ぼくらが落ちてきた穴の入口は、はるか上方にあった。夕暮れの空が遠くに見える。

 

 ここは天然の洞窟ではないようだ。

 人の手が入った場所だ。

 岩壁には、崩落防止の金網が貼られている。

 そして天井には等間隔に、白熱灯が下げられていた。おかげで暗さに困ることもない。

 今はもう廃坑になった、採掘場のような場所だ。

 ぼく、草四郎、ニレイさん姿のミカさん。男三人が、悠々と立っていられる程には広い。

 通路が奥へと伸びている。曲がったその先にも、道は続いているのだろう。

 人の姿は見えない。

 この場所は、誰の記憶の一部なのだろう?

 それとも五島万の作品に出てきた、架空の場所なのか。

「どこかにトロッコなんて、置いてないかな」

 インディージョーンズみたいに。

 この洞窟の奥には、海賊の宝があるかもしれない。

 いや、あれは別の映画だっけ?

「これ以上変な想像をするのは、やめてください!」

 草四郎に怒られた。

「行こう。ここで立ち止まっていても仕方ない」

 ミカさんの言う通りだ。

 通路の先には、何があるのだろうか。

 湿り気を帯びた冷たい空気が、行く手から流れてきていた。

 この先には水の溜まった場所があるのかもしれない。

 息苦しい場所だった。

 広いところに出たかった。

「ミカさん、ぼくらを抱えて、上まで飛んでくれませんか」

「阿呆。他力本願もいい加減にしろ」

 ぼくの願いは一蹴された。

 目の前にある一本道を進むしかない。


「ぷぅ、ぷぅ」 

 歩き出そうとしたその時だった。

 谷さんが足元で鳴き始めた。

 ぼくは谷さんを抱き上げる。

 なにか言いたそうな顔をしている。

「この先に例の目があるんですか?」

「ぷぅ」

 尋ねると、ウサギは短く鳴いた。

 肯定の返事のようだ。

 谷さんには、魔眼の気配を感じることができるらしい。

 そして魔眼の傍には、アリアがいるはずだ。

「ちょっと!谷さん、どこに行くんですか!?」

 谷さんはするりとぼくの腕から逃れ出た。

 そしてぼくらを置いて走り出す。

 前にじゃない。上に向かってだ。

 白ウサギは鳥のように身軽だった。

 ゴツゴツとした岩壁、僅かな足場を頼りに駆け上がっていく。

「あっ、あんなところに」

 落ちてきた時は、気付かなかった。岩壁の上部にはポッカリとした横穴が空いていた。

 谷さんは頭からその横穴に突っ込んで行った。

 白いモコモコとした尻と、丸い尻尾は、すぐに見えなくなってしまった。

「俺もあちらの道をいくかな」

 ミカさんが、軽い調子でそう言った。

「どうやってですか?」

 当然ぼくはそう訊ねた。

 ミカさんは自由に飛べる。だが谷さんが通っていった穴は、とても狭い。ウサギの体で、やっと通り抜けられる程度の大きさしかない。

「こうするに決まっている」

 ニレイさんの服を着て、ニレイさんの声で話しているから錯覚してしまう。

 しかし、その正体はミカさんなのだ。

 絹のように滑らかに、そして静かに。ミカさんは姿を変えた。

 馴染み深い、鳥のミカさんが現れた。この姿なら、穴を通ることもできる。

 ミカさんは羽ばたき、谷さんの後を追っていった。

 ぼくと草四郎は取り残された。


「これから、どうする?」

 ふたりが戻るのを待つか。目の前の道を進むか。

「……」

 返事が返ってこない。

 草四郎も迷っているようだ。

 焦る気持ちはぼくも同じだ。

 アリアはどこにいるのか。

 今すぐ駆け出したい。しかしこの道が正しいのかは分からない。

「待とう」

 ぼくは地面に腰をおろした。

 草四郎もそれにならう。

 この世界では時間の経過も、座標も、なにもかもが曖昧だ。目に見えるものも、手に掴んだものも、次の瞬間には消えてしまうかもしれない。

 焦っても意味はない。

 疲労と焦燥、喉の乾きだけがリアルだった。

「少し話そう。黙っていると、余計なことばかり考えちまう」

「はい」

 ぼくの提案に、草四郎も頷く。

 しかしすぐに言葉は途切れた。

 目の前のことを話せば、不安が増すだけだ。

 かといって、茶飲み話をする余裕はない。

「一緒に歌でも歌うか?」

「……」

 草四郎は無言。つれない返事をする気力もないらしい。

「よっと」

 ぼくは立ち上がった。

 このほら穴は簡単に崩れることはなさそうだ。

 けれども僕は慎重に足を運ぶ。音をたてないように、丁寧に。

「なんで踊るんです?いまはミカさんもいないのに…」

 草四郎はそう言いながらも、立ち上がった。

 そして篠笛を構える。

 ぼくらは静かに舞いを続けた。

 考えがあって動いたわけではない。けれど踊り始めてから気づいた。

 ミカさんは僕らを見つめている。

 この世界の隅から隅まで、ミカさんの意思は通っている。

 草四郎も同じことを感じたようだ。

 次第に笛の音に熱がこもる。

 ここは不思議な場所だった。

 反響することもなく、笛の音は岩肌に染み渡り消えていく。

 電灯に照らされ引き伸ばされた自分の影が、別の生き物のように見えた。

 影と一緒にぼくは踊る。


 どのくらい時間が経った頃だろう。

「……!!」

 足もとから、突き上げるような振動に襲われる。

 地震だ。

 これは、ぼくらの余計な想像のせいではない。

 この洞穴のどこかで何かが動き出した。

 連鎖して、頭上からも不穏な音が聞こえてきた。

 細かい岩の欠片が、パラパラと足元に落ちてくる。

「………」

 大声を出せば、落石を加速させかねない。

 ぼくらは舞をやめ、上方をみた。

 ミカさんと谷さんが進んで行った横穴が、暗い口を開けている。

 ふたりはまだ戻って来ない。

 まさかこの揺れは、ふたりが”マ”と遭遇したせいなのか。

 ウサギの姿をしていても、谷さんは谷さんだ。ましてや一方はミカさんだ。こちらが心配するなど、おこがましい。

 しかしだからといって、この動悸は収まらない。

「変な想像をしてないでしょうね?」

「草四郎こそ」

 小声でやいやい言いながらも、ぼくらは速やかに構えを取った。

 そして十分が経過した。

 先程以来、地震も落石も起こっていない。

 マの放つの臭気もなかった。

 辺りにはただ静寂が広がる。

「………来ませんね」

「だな」

 さらに時間が経った。

 前触れもなく、ミカさんたちが戻ってきた。

「アハハ、何やってんの?二人とも」

 上を見上げ、ジッと固まっているぼくらを見て呆れた顔をする。

 ミカさんは鳥からニレイさんの姿に戻っていた。腕にはしっかりウサギの谷さんを抱えている。

 ミカさんは上の横穴から戻ってきたのではない。目の前に開けた一本道からやってきた。

「奥で繋がっていたんですか……」

 草四郎が尋ねた。

 だとすれば、この先を行っても出口はない。

「しけた顔をするな。抜け道を見つけてきたから」

 目の前の道を指差して、ミカさんが言う。

「地上に出られるんですね?」

「いいや」

 ミカさんは首を横に振る。

「女の子を探しに行くんだろう?ここで引き返してどうする」

 アリアがこの先にいる。

 ため息なんか付いている場合じゃない。

 表情を引き締めたぼくらをみて、ミカさんが笑った。

「その意気だ。この先は、ちょっと込み入っている。慎重に進もう」

 ミカさんの言う通り、まもなく道は二手に分かれた。

 ミカさんは迷わず右に折れた。

 水の匂いが強くなる。

 それから何度か、別れ道が続く。

「乙女心は迷路だね」

 ミカさんが歌うように言った。

「この洞穴はアリアさんが作ったものなんですか?」

  草四郎がミカさんに聞き返す。

 やはり、この場所は異質だ。この世界の景色は、五島万たちの記憶の延長だった。

 しかし、この洞穴は現実の風景のどこにも、そして誰にも結び付いてないように思える。

「ここは確かに、あの子から出たものだよ」

 ミカさんは言った。しかしその根拠は教えてくれない。

 また分かれ道。

 ミカさんに続く。

 緩やかな下り坂。

 ぼくらは、さらに地下へ降りていく。

 天井が段階的に低くなった。息苦しさが増す。

「やれやれ、ずいぶん歩かせてくれる。アリアさんも困った人だ」

「ぷ」

 ぼくの愚痴に同意して、谷さんも鳴いた。

「違いますよ。アリアさんはぼくらを困らせるために、ここを作った訳じゃないはずだ」

 草四郎が言った。

「あの人は、無意識にだって人を試すような真似なんてしない」

 迷路のような道。

 でもこの迷路には、煌々と明かりがともっている。ぼくらを迷わせたいなら、そんなもの消してしまえばいいだけの話だ。

 そうか。ここは、トウヤと落ち合う為に作られた通路だ。

 そう考えればしっくりくる。

 アリアはトウヤと会うためにミカさんの目から逃れる必要があった。

 だからこんなに深い穴を掘った。

 道に明かりを灯しているのも、弟のためだ。

 急がねば。

 ぼくは一番初めに現れた、ナース姿のアリアを思い出した。

 あの時のキス。

 黄昏の世界の彼女は、覚醒と夢の狭間にいる。

 彼女はとても危うい場所に立っている。

 これ以上、アリアの心が蝕ませてはならない。

 彼女を見つけ出す。

 そしてここから、連れ出さなければ。


「ほらほら、走らない。走らない。転んじゃうぜ」

 ミカさんに、たしなめられた。

 気づかないうちに、ぼくと草四郎は歩調を早めていた。

「……!」

 半歩先を歩く草四郎が、驚きの声をもらした。

 長い通路の果ては、大きく開けていた。

 道の縁には鉄柵が巡らされている。その下には、水面があった。

 天然の造形を利用して作られた溜池だ。

 先ほどから感じていた水の匂いはここから来たものだったのだ。

 水は淀むことなく透き通っていた。豊富に地下水が湧き出しているようだ。

 水面はキラキラと揺らめいている。生き物の影はない。

「なんとか歩いて行けそうだね」

 ミカさんは、もう飛ぶ気はないようだ。

 池沿いをぐるりと回る。横歩きがやっとの狭い道だ。

 五分もしないうちに、半周し池の向こう側に着いた。

 池の向こう側は、行き止まりだった。

 道はない。

 これだけ歩いて成果なしか。

 ため息をつきかけた時だった。

 ぼくらから見て死角になる位置だった。なだらかな勾配の下、岩肌を背にしてぽつんと小屋が立っているのに気づく。

 いや小屋と呼ぶには小さすぎる。

 それは標準的な一戸建ての庭にある、物置だった。

 この物置には見覚えがある。

 ホスピタルの駐車場の片すみに置かれている物置。それと瓜二つだった。

 庭掃除の道具や、滅多に出番のない園芸用のホースなどをまとめて押し込んであるスペースだ。

「わっ、こら!シューヘイくんってば」

 物置をみとめた途端、谷さんは身をよじってミカさんの腕の中から逃れ出た。

 まるで猫の爪研ぎのように、ガシガシと前足で物置の扉を引っ掻く。

 早く開けろと、せっついているのだ。

 スチール扉は、軋みもせず軽々と開いた。

「明かりをつけよう」

 ミカさんがいつの間にか懐中電灯を手にしていた。


「わっ……!」

 しかし急いで前に踏み出さないでよかった。

 物置の床には、ぽっかりと穴があいている。

 暗い穴だ。懐中電灯の光も底までは届かない。

 穴の縁には、ハシゴがかけられている。

 物置の中には、他になにもない。空っぽだ。

 この穴に入るしかないようだ。

 アルミ製のハシゴに手をかけてみる。しっかり固定されていて、グラつくことはなかった。

「ぼくが先にいきましょう」

 ぼくは相変わらず落ち着きのない、谷さんの首根っこを掴んで持ち上げた。

「じっとしててくださいよ」

 そして、そのまま胸元に押し込める。

 ずっしりと重い。だが、先ほどのように頭を掴まれるよりはマシだ。


           XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX


 30、31……32段。

 長いハシゴだった。ゆうに一階分は降りただろう。

 ハシゴを降りた先は、コンクリート敷の狭い部屋だ。

 窓はない。

 手探りして、ひとつのドアを探し当てる。

 ドアをくぐると、空気のにおいが変わった。

 人の生活の匂いだ。

 大きな窓からさす夕焼けが、室内を照らしてくれた。

「どういうことだ……?」

 草四郎が呆然とつぶやく。

 ここが何なのか、ぼくにも検討がつかない。

 足元には、フカフカのカーペットが敷かれている。

 目の前には大型テレビと、ゆったりとした革張りのソファがあった。

 先ほどまでの、穴ぐらと落差がありすぎる。

 そこは現実的な場所だった。

 ここは、誰かの家の居間のようだった。

「ぷ」

 胸元に押し込めていた谷さんを解放してやる。ここなら走り回っても危険はないだろう。

 つい先刻まで、ここには誰かがいた。

 部屋のあちこちに、その痕跡があった。

 ローテーブルに置かれた灰皿には、吸い殻が溜まっていた。

 ソファの上には広げられたままの新聞がある。

「……ここも、アリアさんが作った場所なんですか?」

 油断なく室内を見渡しながら、草四郎が尋ねる。

「そうだよ」

 あくび交じりにミカさんが答える。

 ソファに腰掛け、すっかりくつろぐ姿勢だ。

 洞窟の底にある物置に隠された通路。

 やっとたどり着いたここは、多分特別な場所だ。

 ぼくは試しにテレビを付けてみた。

 何も映らない。どのチャンネルも砂嵐だ。

「東京都港区ですね」

 草四郎は、窓の外を指す。

 ビル群と夕日に染まった東京タワーが見えた。

 しかし眼下の道には、人や車の影はない。

 この部屋は、15階程度にあるようだ。


 地下足袋を履いたまま失礼する。

 ぼくらはリビングを出て、家中を探索した。

 キッチン、トイレ、バス。主寝室に、客間に、子供部屋もある。

 寝室には、大きなクローゼットが併設されている。

 そこには男女おとな二人分の洋服と、山ほどの靴が収納されていた。

 豪華なマンションだ。

 ここに暮らしているのは、若い夫婦と小さな子供ひとり。

 フリルのスカート。たくさんのぬいぐるみ。子供は女の子だ。

 家探しをするうちに、その程度のことは分かった。

 高価な家具調度類。 

 だが、台所のシンクには洗われていない食器がたまっていた。

 畳まれていない洋服が、居間の片隅に投げ出されている。

 この家には荒んだ雰囲気が漂っていた。


 どの部屋にも、アリアの姿はない。

「ダメだよ、不用意に開けたら。どこに繋がっているか分からないんだから」

 玄関の扉に手をかけたぼくを、ミカさんが止めた。

「……ミカさん?」

 ぼくらは目を見張った。

 ミカさんの姿が変化していた。

 また鳥になった訳ではない。

 ニレイさんのままだ。

 しかし、まず服装が変わった。先ほどまでのスーツから、ラフなスラックスとポロシャツに着替えている。

「その顔……傷が消えた?」

 そして草四郎が指摘した通り、容貌も変化している。

 一年前の交通事故で、ニレイさんは負傷した。その右頬ついた赤黒い痣。それが綺麗に無くなっていた。

 目尻のシワもなくなり、髭も心持ち薄くなっている。顎のラインが少し柔らかくなった。髪が短くなった。

「失礼します」

 ぼくはミカさんの左手を手に取った。

 事故でなくしたはずの、指がすべて揃っている。

「ずいぶん若返りましたね」

 現実のニレイさんは四十代だ。

 いまは三十そこそこにしか見えない。

 二枚目俳優として、活躍していた頃のニレイさんだ。

「そうかい?」

 ミカさんは、首をかしげた。ミカさんにとってはこの程度の変化など、どうでもいいらしい。


 ぼくらはリビングルームへと引き返した。

 もう一度、じっくり調べてみることに決めた。

 寝室に置かれた旅行鞄。そして灰皿にあった吸殻の銘柄。

 どちらもニレイさんが、いまも現実で愛用しているものだ。

 テーブルに投げ出してあったテレビドラマの脚本には、アリアの母の名がクレジットされている。

 部屋にあった新聞の日付は、十年前。

 電化製品はすべて一昔前のものばかりだ。

 ここはアリアの記憶。

 ニレイさんと幼いアリア、そしてアリアの母が、三人で暮らした部屋だ。

 テーブルの上の広げられたままの絵本。封の切られていない手紙の山。

 終焉に向かいつつある結婚生活。

 時は止まり、空気は淀んでいる。

 場に共鳴したということなのか。このミカさんの姿は、十年前のその時を写したのだろう。

 この家で暮らしていた時のニレイさんの姿だ。


「さきほどの洞窟で、別の道を選べばトウヤのための部屋にたどり着いたかもしれない」

 草四郎が言った。

「でも正しい道はこちらです。ここは、トウヤの偽物の記憶に侵されていない」

 アリアは、完全に”マ”に飲まれた訳じゃない。

 ぼくらは確実にアリアのいる場所に近づいている。

「急ぎましょう」

 外に出て、先に進もう。草四郎はもちろんそう主張する。

 しかしミカさんは、賛成しなかった。

「目に見える道だけが、道じゃないんだよ」

 そしてミカさんはキッチンに立った。そして瓶ビール二本とグラスを四つ、盆にのせて持ってくる。

 記憶の中の、夢のビール。

「ツマミはこれしかないな」

 卓上の味付け海苔の缶。それを開けて、ささやかな宴会が始まった。

 こんなこと、やっている場合じゃない。

 十中八九、ミカさんの気まぐれだ。

 しかしぼくらは、ミカさんに逆らうことはできない。

「いただきます」

 ぼくはまっさきにグラスを取って、一気にビールを飲み干した。

「……いただきます」

 草四郎が続く。

「じゃあ、シューヘイ君。君も乾杯だ」

 ウサギになっても、谷さんの負けず嫌いは変わらない。

 ミカさんの無茶にしっかり応える。

 谷さんは器用に前足を使ってグラスを傾け、ビールを飲んでみせた。

 ビールを飲むウサギ。

「見世物小屋に売り飛ばせば、大評判だな」

 呟いたら、また指をガブっとやられた。

 まったく、姿以外はまったく可愛くない。

 ゴクゴクとビールを飲み干して、ニレイさんの姿をしたミカさんが話始める。

「あの子の幸せな記憶はね。お父さんが、このソファで寛いで、ビールを飲んでいた光景だ」

 ニレイさんは、アリアにおつまみのスモークチーズを分け与えて。そして、ニッコリと笑って頭を撫でた。

 アリアは10年たった今でも、その時のニレイさんの手の優しさを覚えていた。


「ああ、出てきた。これだ」

 空になったビール瓶を、ミカさんが振ってみせた。

 カンカンと音がする。何かが瓶の底に沈んでいた。

「えい」

 遠慮会釈なしに草四郎は、瓶をテーブルの角に打ち付けた。

 ビール瓶は、上半分で綺麗に割れた。

 出てきたのは、鍵だった。

「これが、正しい道に進むための鍵なんですね?」

「うん」

 そしてミカさんは、ニ本目のビールを開けた。

 今度のビール瓶には何も入ってなかった。ただ飲みたかっただけらしい。

「随分と小さな鍵ですね」

 草四郎の言う通り、これは玄関ドアの鍵ではなさそうだ。

 引き出し?それとも自転車?小さなものだ。

 探せ!探せ!

 ぼくらを急かす様に、谷さんがピョンピョンと跳ねまわる。

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