51.
「ちゃんと立ってください!」
よく知った声で叱咤される。
よろめいたぼくを支えたのは、草四郎だった。
「待たせたな」
草四郎の肩に手をかけ、どうにか体勢を整える。
草四郎が先回りしていたとは驚いた。
この場所でひとりぼっちではないことに、心底ほっとする。
眠りという緩やかなトンネルをくぐらない、早急な移動だった。
本当に目を閉じるだけだった。
ぼくは夕闇の世界に、落ちた。
時代遅れのゲーム台が、鈍い光を放っている。
モーター音がうるさいガラス扉の冷蔵庫。中には瓶ジュースのおさめられている。
葉にほこりが薄く積もった観葉植物。
ヤニの臭いがこびりついたソファ。
そこは、無人の喫茶店だった。
エイの話に出てきた場所だ。
ここでエイとアリアは、初めて出会った店だ。
ぼくの本当の肉体は、今も現実世界に留まったままだろう。
あちらのぼくはキッチンで夕食の支度の続きをしているはずだ。
その隣にはきっとアリアもいる。
時間も、空間も、ここでは本来の形では存在しない。
螺旋の裏側の世界。ここはミカさんの領域だ。
気づけばぼくは、アガミの正装である紺の野袴姿だった。
草四郎も揃いの白い野袴だ。
“マ”の間をかいくぐり、アリアを探すための準備は万端だった。
「お前さんのところにも、エイから電話がかかってきたのか?」
「いえ、いまミカさんから直接聞きました」
すると間髪入れず声が飛んできた。
「遅いぞ、セイくん」
ミカさんはソファに座り、タバコをふかしていた。灰皿には数本の、吸殻が溜まっている。
この世界の時間の流れはわからないが、だいぶミカさんを待たせてしまったようだ。
今日のミカさんは、ニレイさんの姿をしていた。
いつかの芝居の衣装だろう。
タイトな紺地のスリーピース。やり手弁護士のようだ。銜えた両切りの煙草が様になっている。
”セイくん。”
ミカさんから初めて正しい名前で呼ばれた。
でもそれに感激している場合じゃない。
「アリアさんを探さないと……まずは、この世界にいるエイと合流だ」
「はい」
ぼくの言葉に草四郎も頷く。
店にはエイの痕跡が残されていた。
四人がけのテーブルに、使用済みのコップと代金280円が置かれている。
気を落ち着かせようとしたのか。エイは冷蔵庫から牛乳を取り出して飲んだようだ。
「ミカさん、エイはどこにいるのか。心当たりはありませんか?」
ぼくの問いに、ミカさんは素っ気なく答えた。
「家に帰った」
「アリアさんを置いて?ひとりで!?」
あいつの性格からして、あり得ない。
「言うことを聞かないから、つまみ出してやった」
エイは現実世界へと退場処分になった。ミカさんはそういった。
「このままじゃ、あの子は迷子になる。怪我もするかもしれない」
ミカさんに似合わず、良識的な判断だ。姿を借りているニレイさんの人格が、色濃く出た気がする。
「その方が良かったのかもしれない……嫌な予感がします」
草四郎の漏らした言葉に、ミカさんは頷く。
「ああ。前より瘴気が濃くなっているのを感じる。ここも危険な場所に変わってしまった」
現実世界に戻ったエイは、地団駄を踏んで悔しがっているに違いない。
でもこの世界は広く、道も込み入っている。無闇に駆けても、探し物は見つからない。
それにエイは術士としての修練を積んでいない。
“マ”と遭遇したとして、それに太刀打ちする術を持たないのだ。
「アリアさんも、ここにいる……エイはそう言っていました。本当ですか?」
否定の言葉が返ってくることを期待して聞いた。
「うん、そうだよ」
しかしミカさんは頷いた。
そしてさらに悪い知らせを告げる。
「でも女の子がどこにいるのかは、俺にも分からない」
「どうして!?ここは、あなたの庭なんでしょう」
草四郎が尖った声を出す。
「わずかな隙間をするりと抜けていった……不思議な女の子だよ」
こちらの気も知らず、ミカさんは嬉しそうに笑う。
サキさんとニレイさん、他のふたりの五島万とアリアは違う。
心を許していないせいなのか、アリアはミカさんと溶け合っていない。
自分本来の意識を保ったまま、アリアはこの世界に存在する。
そしていまミカさんから逃げるように、姿を隠してしまった。
「そう遠くに行ってないはずだが……」
ミカさんは大して慌てた様子もない。マイペースは相変わらずだ。
「こんなところでグズグズしてられません。早くアリアさんを探しに行かないと!」
草四郎が必死に訴える。
「落ち着け、エイの二の舞になるぞ」
ミカさんの機嫌を損ねたら、ぼくらだってつまみ出されてしまう。
しかしぼくにも、策がある訳ではない。
「おや?あわてんぼうの彼が、いいものを見つけてくれたみたいだよ」
こっちに来てごらん、とミカさんが手招きした先は、店の片隅だった。
「これがなにか?」
ぼくと草四郎は、困惑した。
そこにあるのは公衆電話だった。
レトロなこの店にそぐわない、割と新しい型の電話だ。テレホンカードが使える。
「これがエイ君の見つけたものなんですか?」
草四郎が手に取ったのは、テレホンカードだ。それは電話機の上に置きっぱなしになっていた。
カードにはビールの広告が刷られている。水着の女性がジョッキを片手に、夏のビーチで微笑んでいた。
残り度数は0。しかし残量など関係ない。
そのカードに空いたパンチ穴には、縦長に薄い金属の板が貼られていた。
無限に使い続けることの出来る、変造カードだ。上野の公園辺りで、不良外人が商っているそれである。
エイは曲がったことが嫌いだ。
変造テレホンカードなど使うわけがない。
先程のホスピタルへの電話は、ちゃんと手持ちの小銭でかけてきたのだろう。
だがさすがのエイも、ホスピタルの電話番号は暗記していなかったはずだ。
エイからの電話の理由は、テレホンカードの裏側にあった。
そこにはサインペンでふたつの電話番号が書きつけられていた。
ひとつはホスピタルの番号。
そして06から始まる見知らぬ番号。
五島万の誰の字でもない。
誰が書いたのかは分からない。
「試してみるか?」
「ええ、やってみましょう」
草四郎も頷いた。
ミカさんは”いいもの”と言ったのだ。
この番号がアリアを探すための手がかりに繋がっているかもしれない。
だがホスピタルにかける案は却下だ。もう一人のぼくが出たらどうする。
「草四郎、財布持ってきてない?」
「あいにく」
仕方ない。
緊急事態だ。良心は痛むが、このテレホンカードを使わせてもらうか。
「……あっ、しまった」
カードを公衆電話に入れてしまえば、裏側に書かれた電話番号を読むことできなくなる。
いったん受話器をおいて、カードを取り出した。どこかにメモ帳とボールペンはないか?
「まったく、なにやってんですか」
草四郎に呆れられた。
と、僕らが電話の前でもたついていた、その時だった。
ドン!
店の入り口から音がした。
ドン!
何かがガラスを叩く音。
しかしノックというには、大きすぎる。
ドン!
間をおいて三回。
そもそもノックなど必要ない。この店のガラス扉は空いている。自由に入ってくればいい。
「”マ”か…?」
未知の電話番号を試すのは後だ。
ぼくらは扉の前へと駆け寄る。
「…………ん?」
ガラス扉越しに外をうかがった。
しかしそこには夕暮れの街並みが広がるばかりだ。
「誰もいませんね」
「まさか幽霊か?」
我ながら、つまらないことを言ったものだ。
やや緊迫感にかけるのは、”マ”が放つ臭いも瘴気も感じられないからだ。
ドン!
そして更にもう一度、ガラス戸に衝撃が走る。
「やっぱりなんかいる!」
「いますね!」
訪問者の姿を確認しようと、ぼくは外開きの扉を、ほんの僅かに押し開いた。
「あれ?やっぱり誰も……うわっ!」
ぼくの脇をすり抜けて、何かが店内に飛び込んできた。
小さい。
視線を下げなかったせいで、見逃していたのだ。
モコモコした小動物。
犬?
猫?
いや、それはウサギだった。
真っ白な毛並み。赤い目をしたウサギだ。
白ウサギは興奮状態だった。
ぼくら三人の周りをクルクルと、コマのように走り回る。
この黄昏の世界で、生気のある生き物を見るのは初めてのことだった。
「コラコラ、落ち着きなさい」
ミカさんが、ひょいと白ウサギの首根っこを捕まえ、持ち上げた。
白ウサギは鼻をフゴフゴと鳴らして抗議した。
「シューヘイくんは、ご機嫌斜めだなぁ」
よしよしとミカさんは、白ウサギの頭をなでる。
「もう名前を付けたんですか」
草四郎が呆れた声を出す。
しかしその名前。
記憶のどこかに引っかかる。
「……シューヘイ君……」
しゅーへい?しゅうへい?
ぼくはミカさんの手から、白ウサギをひったくった。
生意気そうな面構え……。
「痛っ!!」
思いっきり親指を噛まれた。
「まさか……このウサギが、谷さんだって言うんですか!?」
「シューヘイ君といえば、他に誰がいる?」
ミカさんが肯定し、ぼくらは腰を抜かした。
谷周平。26歳。敏腕編集者にして、凄腕の術士。
なんと変わり果てた姿に。
「随分と可愛くなっちゃいましたね」
草四郎が慨嘆する。
可愛いというより、うまそうだ。
腿のあたりの肉付きがいい。
「あ痛っ!」
草四郎は谷さんの耳を触ろうとして、前足パンチを喰らっていた。
ミカさんに対しては、少々遠慮していたらしい。ぼくらに対しては容赦なしだ。
「谷くんの企みは、半分成功したってことだ」
ミカさんが雑に、この現象をまとめた。
この夕闇の世界に入るため、谷さんは五島万のメンバーに志願した。
だが、まだ仮免なのか?
人の姿で、この世界に降り立つことが出来なかったのだ。
だが獣の姿をしていても、知性と傍若無人な性格は健在のようである。
「ようこそ、シューヘイくん。一緒に頑張っていこうな」
ミカさんが再び、谷さんを抱き上げる。
さすがに谷さんも、神様であるミカさんを噛んだりはしない。
だがこれでもかというくらいに、身をこわばらせていた。
そして間もなく、白うさぎはプープーと鳴き始めた。
「ん?なになに?」
ミカさんは谷さんに耳を寄せた。
「ぷぅ、ぷぅ」
「ごめんごめん、のんびり話なんぞしている場合じゃないか」
ミカさんと谷さんは、意思の疎通ができるらしい。
「さあ、いくよ。おふたりさん」
ミカさんに促されて、ぼくらは喫茶店をあとにした。
「あっ!」
外に出ると谷さんは、ミカさんの腕の中から逃れ出た。
文字通り、脱兎の勢いだ。
夕日に影の伸びる、人気のない商店街の道を走る走る。
長い耳を立て、鼻と髭を動かして、全身を使って。
谷さんは何かを探していた。
早くついてこい!というように、時折こちらを振り返る。
先頭を走る草四郎。
ぼくも必死で食らいつく。
地下足袋でアスファルトを蹴って、ひた走る。
ミカさんは涼しい顔で、しんがりをいく。
「このまま谷さんに、ついて行っていいんでしょうか?」
息を弾ませながら草四郎が言った。
「谷さんが、アリアさんを探すために駆け回るなんて……信じられません」
ひどい言いようだ。
しかしぼくも同意見だ。
方城社でのアリアに対する暴言は、ぼくを怒らせるためのブラフだ。だからといって、彼は人情第一で動いたりしない。
しかし思いがけずミカさんが反論した。
「シューヘイくんが探しているのは、例の目だ。でも同じことだよ」
「その目のそばにアリアさんはいる……そういうことですか?」
草四郎の問いに、ミカさんは頷いた。
「あの目も、あの子も、俺たちも……みんな、大きな渦の中にいる。道なりに行けば、辿りつく」
この夕暮れの世界は、ミカさんが作り上げた世界だ。
しかし五島万の三人、ぼくと草四郎、そして”マ”。様々なものたちが入り込むことによって変化していった。
迷宮は当初より深く、暗くなっている。
いままではミカさんは、エイを使ってアリアを守ってきた。
しかし今、アリアはひとりぼっち。まったく無防備な状態だ。
「女の子は無事だよ。きっとね」
ミカさんの言葉を信じるしかない。
早くアリアを見つけ出さねば。
谷さんの勢いは止まらなかった。
ウサギ追いし、かの山だ。
「そういえば、あったよな。ウサギを追いかけて走る小説」
ぼくは呟いた。
草四郎がすぐに答える。
「アリスですか?」
「それだな」
不思議の国のアリス。
イギリスの児童小説。
「それで、アリスはウサギを追いかけてどうなるんだっけ?」
「穴に落ちます」
草四郎が答えた次の瞬間。
我々の足もとから、地面というものが消失した。




