50.
「お待たせしました」
谷さんに言われるまま、会議室へと入った。
「ここは、俺が血だるまにされた思い出の会議室だ」
資料から顔をあげ、サキさんが言った。
数年前、サキさんは盗作事件を起こした。
それが露呈し、方城社の編集長からゴルフクラブで滅多打ちにされたのだ。
「あっ、これはその時の血の跡じゃないですか?」
たぶん、それはコーヒーのシミだ。
分かっていながら指さして、ケラケラと谷さんは笑う。
「暴力は方城社のお家芸か……セイくん、お互い気を付けような」
「はい」
ぼくも素直に頷いた。
谷さんは、ぼくの分も企画書を束ねて用意していた。
分厚い。
仮表紙もつけられ、もくじはもちろん、細部まで詰められた見本ページもついている。
その内容には驚いた。
それは単なる小説の企画ではなかった。
谷さんは、本気でこの本を作ろうと思っているのか?
「いやはや、これは……力作だねえ」
頬杖を付き、企画書をパラパラとめくるニレイさんが呟く。感心と呆れが半々といった様子だ。
「…………」
アリアは無言。
その顔には困惑が浮かんでいた。
「飛び道具だな。そして大暴投だ」
興味がないな。
サキさんは、そう言って企画書をポンと机に投げ出した。
三者三様の反応だ。
会議室には、ホワイトボードが置いてあった。
谷さんはマジックペンを手に取った。
てっきり、この企画の売り込みの文句でも書くのかと思った。
『十日町条は生きている』
谷さんはただ一言、ホワイトボードにそう大書きした。
呪われた男の名前。
一連の出来事の発端となった名前だ。
冷水を浴びせられたようだ。皆が推し黙った。
その名を口にするのすら、厭わしかったのだろう。
谷さんは無言のまま、文字を消した。
「……笑えない冗談ですね」
ぼくが沈黙を破る。
だったらぼくが見た、死体写真は誰だというのだ?
「我々は手を尽くした。君たちのカミサマが教えてくれた名前。そして他の可能性も一から洗い直した。僅かな曇りさえ残さぬように草の根を分けて、地面を掘り返して、探し尽くした。それでも、その棘を見つけることができなかった」
棘。先日の襲撃者。
谷さんは言い訳をしている訳ではない。
コウガミは徹底的にやったのだ。
調査。説得。懐柔。恫喝。そして断絶と排除……
あらゆる手を尽くしたのだ。
それでも”マ”の出現を止めることはできなかった。
「我々は影を追いかけていたようだ。昨日ようやくそれが分かった」
先日、ぼくらはカナにこちらの事情をすべて話した。
そして谷さんは、カナから伝え聞いた。
ぼくらの守り神・ミカさんの領域である黄昏の世界のことを。
「この世界であの男は、死んだ。焼かれて灰になり、跡形もない。だがやつは存在し続けている。セイくんのカミサマの世界に」
昨日の襲撃者は、黄昏の世界から延びた十日町の影だ。
谷さんはいった。
影。いやそれは深い闇だった。
「奴の意思も、肉体とともに朽ち果てたはずだった」
コウガミという大社を討ち倒す。
十日町が、生涯抱いていた妄執だ。
それも彼の死により、四散したはずだった。
「夢からやってきたのは、奴自身ではない。奴の肉片、染み、爪あと……それを喰らった化生だ」
一かけらの邪念は、あの世界でより合わされ、死霊へと成った。
そして、あの世界は五島万の思念に満ちている。
死霊はそれすら飲み込んでいった。
アリアの弟を語ったわけがそれで分かった。
「今度こそ息の根を止める。そのために、これを用意してきたんです」
そして谷さんは会議室を出ると、時刻表ほどの暑さがある紙束を抱えて持ってきた。
「ここまで詰めたものではないが、二、三……第七弾までありますよ。怪作から、カチカチの正統派まで取り揃えてあります」
そして、谷さんは五島万の三人に頭を下げる。
「全部気に入らなかったら、また新しいのを書いてきます」
一晩でこれだけ用意したのか。谷さんは本気だった。
「企画書の束と十日町を殺すことが、どう繋がるんだ?」
ニレイさんが尋ねた。
「部外者があの世界に行くには、通行証が必要なんですよ。十日町は、まんまとそれを手に入れた」
「まさか、その通行証ってのは……?」
サキさんの、言葉に谷さんは頷く。
そして、企画書の束をポンと叩いた。
「はい。どれか一つでもいいから、買ってください。そしてこの俺を、五島万の一員に加えていただきたい」
谷さんの、試みは正しい。
直感がそう言っている。
五島万の三人も同じことを思ったようだ。
連載のストックは数か月分ある。
単発の仕事は断ることにした。
すべてに優先して、谷さんの企画に取り組むことを決めた。
十日町を殺す。
谷さんの力が必要だった。
「誤解をしていたようです。すいませんでした」
帰り際、ぼくは谷さんに誤った。
谷さんはトウヤの存在など掴んでいなかった。先程、谷さんはそう明言した。
つまり彼はアリアを故意に危険に晒す真似などしていない。
ぼくは彼の申告を信じることにした。そうでなければ、この先谷さんと協力などできない。
「……」
ぼくの謝意は通じたのだろうか。谷さんは無言で眉をしかめただけだ。
しかし先に手を出したことについては、謝る気はない。
この人はぼくをワザと怒らせようと、あんなことを言ったのだ。
次こそは一発いれてやる。
ぼくは密かにそう誓った。
アリアの弟の記憶はまやかしだ。
しかし、その記憶には血が通っていた。
アリアはいままで通りであろうと努めている。
だが実際は、立ち直れていない。
練習室の割れた窓ガラスの入れ替えが済んでも、アリアは母屋で寝起きしていた。
ぼくら三人が引き止めたのだ。アリアは非常に危うく見えた。見えるところにいて欲しかった。
あまり眠らず、食べず。勿論書くこともできない。
その目には生気がなかった。
これまで、彼女は無我夢中で書いてきた。その疲労がここに来て、一気に噴き出してきたかのかもしれない。
原稿を前に、アリアはもがき続けていた。
そばで見ているぼくも苦しかった。
「アリアさん、ここちょっと教えてもらえませんか?」
「ん」
テーブルには、少々ヨレの目立つ原稿用紙が広げられている。
腑分け。ぼくが自主的に行っている、五島万の過去原稿の整理だ。
手伝いのぼくが、アリアに手助けを頼む。主客転倒だ。しかもこれは仕事では無い。ぼくが勝手にやっている遊びのようなものだ。
余計なお節介には違いない。でもアリアに、少しでも自信を取り戻して欲しかった。
これまで自分がどんな仕事を、やり遂げてきたのかを思い出して欲しかった。
「ペン貸して……ここはこういう風にまとめてるの?」
「はい。ありがとうございます」
アリアがぼくのノートの書き込みに、補足をする。
彼女は思いのほか、熱心に手伝ってくれた。
文字に触れているだけで、安心するようだ。
草四郎はカナが負傷した日以来、ホスピタルに日参していた。
アリアさんに余計な気を使わせたくない。と勝手口からコソコソ来て、コソコソ帰っていく
ミカさんは祈っても、願っても聞いてくれる相手じゃない。
「なぁ草四郎くん。ミカさんはなんて言ってる?」
「セイさんも、ミカさんの声が聞こえるようになったんでしょう?手助けはもういらないはずだ」
そうかもしれない。
でも、草四郎に確かめておきたかった。
ミカさんの声は常に揺らいでいる。
近づいたと思えば、また遠ざかる。
人の言葉よりも、波音や風のざわめきに近い。
聞き取るのは骨なのだ。
「こっちは初心者なんだ。優しくしろ」
草四郎に文句をぶつける。
「ミカさんは、ハジメ兄さんの名前を繰り返し呼んでいます……悲しそうな声で」
やはりそうか。
草四郎にもぼくと同じ言葉が聞こえていたようだ。
悲しみ。
ミカさんが人めいた感情を表した。
今までにないことだ。
例えば、エイに寄り添う童女のミカさんが笑顔を見せることはある。しかしそれは、ほんの飾りだ。心の発露などというものではない。
「父さんの名前か……」
ミカさんもようやく分かったんですよ、と草四郎は言った。
「ハジメ兄さんは、もうこの世にいない。そして孝三叔父が、ミカさんのために笛を奏でることはもうない」
笛と踊りはミカさんの慰めだ。
ぼくらは祈り願う代わりに、笛を奏で、舞を舞った。
五島万の三人には、もはや隠す必要はなかった。
昼日中の庭先だ。
太陽の下で踊るぼくらを、ニレイさんとサキさんは静かに見ていた。
そして、とうとう夕闇の世界への扉が開いた。
それを知らせにきたのは、弟のエイだった。
土曜日の午後だった。
アリアが書けるようになるまで、ぼくの清書作業はストップしている。
今日は空いた時間を使って、じっくりビーフシチューを煮込むつもりだった。
タコ糸でブーケガル二もどきをまとめようと四苦八苦しているところに、電話がかかってきた。
「はい」
勧誘の電話も多い。受話器をとっても、自分からは名乗らないようにしている。
「セイくん、俺だ。エイだ」
聞き覚えのある声だった。よく知った弟の声だ。
「……どちら様ですか?」
それでもぼくはそう返した。
キッチンに置かれたラジオからは、野球中継が流れている。
生放送だ。
ここから遠く離れた沖縄でのオープン戦。
二回の裏。スコアは0-0。
今まさにマウンド上にいるのは、エースのシブサワ・エイ……ぼくの弟だ。
この受話器の向こう側にいる、エイを名乗る相手は誰だ?
「アリアがいないんだ!」
ぼくの戸惑いなどお構いなしに、受話器の向こうで相手は叫んだ。
アリアのことを知っている。
間違いない。
エイだった。
「いま、どこにいる?どこからかけてる?」
「向こう側から」
簡潔にエイが答えた。
「冗談だろ……なんでもありだな」
あの世界は時間も空間も、すべてが真っすぐではない。
不条理だ。しかし受け入れるしかない。
「緊急事態だ。アリアがいない」
先日、ホスピタルで起こった襲撃はエイにも伝えてあった。
エイはその時、アリアの助けになれなかったことを酷く悔しがっていた。
エイは今ひとり、どんな風景の中にいるのだろう。
電話越しの声は、ひどく遠くに聞こえる。
「エイ、落ち着け。アリアさんならぼくの隣にいる」
こちらの電話は待合室に置かれていた。
アリアはすぐそばのキッチンで、野球中継を聴きながら英単語の書き取りをしていた。
「わたしのの名前が聞こえたけど……呼んだ?」
ぼく声が尖っているのを聞きつけたのだろう。
アリアが立ち上がり、ぼくの横に来た。
「エイからです」
「えっ?だって今、エイくんは試合中で……どういうこと?」
声を聞かせた方が早い。
ぼくはアリアに、受話器を押し付けた。
「はい……もしもし……うん、うん」
アリアの顔つきが、険しくなる。
これは本当にエイに繋がっている。アリアにもすぐ分かったようだ。
「わたしは大丈夫。だからエイくん、こっちに戻ってきて」
泣きそうになりながら、アリアが言う。
でもアリアには分かっているはずだ。
エイは自分の意思で、現実と向こうの世界を行き来することなんてできない。
アリアに電話をかわってもらった。
「うん、そっちのアリアが元気で良かった」
さすがエイだ。もう冷静さを取り戻している。
「アリアは無事だ。お前はじっとそこで待ってろ。時間が来れば目が覚めて、こっちに戻って来れるはず……」
言いかけた言葉を遮られた。
「ダメだ!こちらの世界にも今、アリアがいる。俺には分かる」
「もう一人のアリアさんが?」
「そうだ」
得体のしれないものたちが、はびこる黄昏の世界。
ひとりで怯えているかもしれない。
ひどい目に遭っているかもしれない。
「探しに行く」
エイは今にも走り出さんばかりだ。
「いいか、エイ。ぼくもすぐに、そちらに向かう。そこを一歩も動くんじゃない」
だがぼくが言い終わる前に、エイは電話を切ってしまった。
まったく。兄のいうことを、ちょっとは聞いてくれ。
草四郎の下宿に電話をかけたが、不在だった。
この時間だと、大学にいるのかもしれない。
しかし、押しかけて迎えに行く時間も惜しい。
「んんー!」
目をぎゅっとつぶって、アリアは唸り始めた。
「……いきんだって、向こうの世界飛べませんよ」
「でも、早くエイくんを助けに行かなくちゃ」
アリアの言葉に苦笑する。
立場が逆だ。
「ぼくに任せてください。あの世界はミカさん、ぼくらの守り神の庭なんです」
エイは無事だろう。きっとミカさんか守ってくれる。
ぼくの傍らにいる鳥のミカさんは、パタパタのんびり旋回していた。
都合のいい解釈だが、焦るなと言われてる気がした。
「エイくんが探している、わたしって何?本当にあの世界のどこかに、もうひとりわたしがいるの?」
ラジオから流れる野球中継は、まだ続いていた。
攻守が交代して、三回の表ツーアウト。いまだ両チーム得点なし。
次の回も引き続き、エイが投げるのだろう。
ぼくはラジオを消した。
「分かりません。でも今野球をしているエイも、電話をかけてきたエイも本物です。あちら世界では、そんな事が起こりうる」
「……怖い。私はなにも出来ない……何も分からないのに」
知らぬうちに、アリアはあの世界に囚われているのかもしれない。
「向こうの世界でアリアさんが困っていたなら、必ず助けます」
「お願い……危ないことはしないで。すぐに戻ってきて」
アリアは母親を見送る、小さな子供の顔をしていた。
そうだ。
ぼくがうろたえている場合じゃない。
精いっぱい、きりりとした顔を作ってみせた。
「はい。やる事をやって、すぐに帰ってきます」
もうすでに、扉は開かれている。
瞼の裏の影がひとかけあればいい。目をつぶれば、すぐにでもあの世界に渡ることができる。
草四郎とも、きっとそこで落ち合うことができるだろう。
ぼくは右手をアリアの前に差し出した。
少しだけ、勇気を分けてほしかった。
アリアはぼくの手をきゅっと握ってくれた。
その手は小さくひんやりとしていた。
中指には固いペンだこがある。
この小さな手の感触を、ぼくは忘れることはないだろう。




