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花とペン  作者: 井上マイ
50/68

50.

「お待たせしました」

 谷さんに言われるまま、会議室へと入った。

「ここは、俺が血だるまにされた思い出の会議室だ」

 資料から顔をあげ、サキさんが言った。

 数年前、サキさんは盗作事件を起こした。

 それが露呈し、方城社の編集長からゴルフクラブで滅多打ちにされたのだ。

「あっ、これはその時の血の跡じゃないですか?」

 たぶん、それはコーヒーのシミだ。

 分かっていながら指さして、ケラケラと谷さんは笑う。

「暴力は方城社のお家芸か……セイくん、お互い気を付けような」

「はい」

 ぼくも素直に頷いた。


 谷さんは、ぼくの分も企画書を束ねて用意していた。

 分厚い。

 仮表紙もつけられ、もくじはもちろん、細部まで詰められた見本ページもついている。

 その内容には驚いた。

 それは単なる小説の企画ではなかった。

 谷さんは、本気でこの本を作ろうと思っているのか?

「いやはや、これは……力作だねえ」

 頬杖を付き、企画書をパラパラとめくるニレイさんが呟く。感心と呆れが半々といった様子だ。

「…………」

 アリアは無言。

 その顔には困惑が浮かんでいた。

「飛び道具だな。そして大暴投だ」

 興味がないな。

 サキさんは、そう言って企画書をポンと机に投げ出した。

 三者三様の反応だ。

 会議室には、ホワイトボードが置いてあった。

 谷さんはマジックペンを手に取った。

 てっきり、この企画の売り込みの文句でも書くのかと思った。

『十日町条は生きている』

 谷さんはただ一言、ホワイトボードにそう大書きした。

 呪われた男の名前。

 一連の出来事の発端となった名前だ。

 冷水を浴びせられたようだ。皆が推し黙った。

 その名を口にするのすら、厭わしかったのだろう。

 谷さんは無言のまま、文字を消した。

「……笑えない冗談ですね」

 ぼくが沈黙を破る。

 だったらぼくが見た、死体写真は誰だというのだ?

「我々は手を尽くした。君たちのカミサマが教えてくれた名前。そして他の可能性も一から洗い直した。僅かな曇りさえ残さぬように草の根を分けて、地面を掘り返して、探し尽くした。それでも、その棘を見つけることができなかった」

 棘。先日の襲撃者。

 谷さんは言い訳をしている訳ではない。

 コウガミは徹底的にやったのだ。

 調査。説得。懐柔。恫喝。そして断絶と排除……

 あらゆる手を尽くしたのだ。

 それでも”マ”の出現を止めることはできなかった。

「我々は影を追いかけていたようだ。昨日ようやくそれが分かった」

 先日、ぼくらはカナにこちらの事情をすべて話した。

 そして谷さんは、カナから伝え聞いた。

 ぼくらの守り神・ミカさんの領域である黄昏の世界のことを。

「この世界であの男は、死んだ。焼かれて灰になり、跡形もない。だがやつは存在し続けている。セイくんのカミサマの世界に」

 昨日の襲撃者は、黄昏の世界から延びた十日町の影だ。

 谷さんはいった。

 影。いやそれは深い闇だった。

「奴の意思も、肉体とともに朽ち果てたはずだった」

 コウガミという大社を討ち倒す。

 十日町が、生涯抱いていた妄執だ。

 それも彼の死により、四散したはずだった。

「夢からやってきたのは、奴自身ではない。奴の肉片、染み、爪あと……それを喰らった化生だ」

 一かけらの邪念は、あの世界でより合わされ、死霊へと成った。

 そして、あの世界は五島万の思念に満ちている。

 死霊はそれすら飲み込んでいった。

 アリアの弟を語ったわけがそれで分かった。

「今度こそ息の根を止める。そのために、これを用意してきたんです」

 そして谷さんは会議室を出ると、時刻表ほどの暑さがある紙束を抱えて持ってきた。

「ここまで詰めたものではないが、二、三……第七弾までありますよ。怪作から、カチカチの正統派まで取り揃えてあります」

 そして、谷さんは五島万の三人に頭を下げる。

「全部気に入らなかったら、また新しいのを書いてきます」

 一晩でこれだけ用意したのか。谷さんは本気だった。

「企画書の束と十日町を殺すことが、どう繋がるんだ?」

 ニレイさんが尋ねた。

「部外者があの世界に行くには、通行証が必要なんですよ。十日町は、まんまとそれを手に入れた」

「まさか、その通行証ってのは……?」

 サキさんの、言葉に谷さんは頷く。

 そして、企画書の束をポンと叩いた。

「はい。どれか一つでもいいから、買ってください。そしてこの俺を、五島万の一員に加えていただきたい」


 谷さんの、試みは正しい。

  直感がそう言っている。

 五島万の三人も同じことを思ったようだ。

 連載のストックは数か月分ある。

 単発の仕事は断ることにした。

 すべてに優先して、谷さんの企画に取り組むことを決めた。

 十日町を殺す。

 谷さんの力が必要だった。


「誤解をしていたようです。すいませんでした」

 帰り際、ぼくは谷さんに誤った。

 谷さんはトウヤの存在など掴んでいなかった。先程、谷さんはそう明言した。

 つまり彼はアリアを故意に危険に晒す真似などしていない。

 ぼくは彼の申告を信じることにした。そうでなければ、この先谷さんと協力などできない。

「……」

 ぼくの謝意は通じたのだろうか。谷さんは無言で眉をしかめただけだ。

 しかし先に手を出したことについては、謝る気はない。

 この人はぼくをワザと怒らせようと、あんなことを言ったのだ。

 次こそは一発いれてやる。

 ぼくは密かにそう誓った。



 アリアの弟の記憶はまやかしだ。

 しかし、その記憶には血が通っていた。

 アリアはいままで通りであろうと努めている。

 だが実際は、立ち直れていない。

 練習室の割れた窓ガラスの入れ替えが済んでも、アリアは母屋で寝起きしていた。

 ぼくら三人が引き止めたのだ。アリアは非常に危うく見えた。見えるところにいて欲しかった。

 あまり眠らず、食べず。勿論書くこともできない。

 その目には生気がなかった。

  これまで、彼女は無我夢中で書いてきた。その疲労がここに来て、一気に噴き出してきたかのかもしれない。

 原稿を前に、アリアはもがき続けていた。

 そばで見ているぼくも苦しかった。

「アリアさん、ここちょっと教えてもらえませんか?」

「ん」

 テーブルには、少々ヨレの目立つ原稿用紙が広げられている。

 腑分け。ぼくが自主的に行っている、五島万の過去原稿の整理だ。

 手伝いのぼくが、アリアに手助けを頼む。主客転倒だ。しかもこれは仕事では無い。ぼくが勝手にやっている遊びのようなものだ。

 余計なお節介には違いない。でもアリアに、少しでも自信を取り戻して欲しかった。

 これまで自分がどんな仕事を、やり遂げてきたのかを思い出して欲しかった。

「ペン貸して……ここはこういう風にまとめてるの?」

「はい。ありがとうございます」

 アリアがぼくのノートの書き込みに、補足をする。

 彼女は思いのほか、熱心に手伝ってくれた。

 文字に触れているだけで、安心するようだ。


 草四郎はカナが負傷した日以来、ホスピタルに日参していた。

 アリアさんに余計な気を使わせたくない。と勝手口からコソコソ来て、コソコソ帰っていく

 ミカさんは祈っても、願っても聞いてくれる相手じゃない。

「なぁ草四郎くん。ミカさんはなんて言ってる?」

「セイさんも、ミカさんの声が聞こえるようになったんでしょう?手助けはもういらないはずだ」

 そうかもしれない。

 でも、草四郎に確かめておきたかった。

 ミカさんの声は常に揺らいでいる。

 近づいたと思えば、また遠ざかる。

 人の言葉よりも、波音や風のざわめきに近い。

 聞き取るのは骨なのだ。

「こっちは初心者なんだ。優しくしろ」

 草四郎に文句をぶつける。

「ミカさんは、ハジメ兄さんの名前を繰り返し呼んでいます……悲しそうな声で」

 やはりそうか。

 草四郎にもぼくと同じ言葉が聞こえていたようだ。

 悲しみ。

 ミカさんが人めいた感情を表した。

 今までにないことだ。

 例えば、エイに寄り添う童女のミカさんが笑顔を見せることはある。しかしそれは、ほんの飾りだ。心の発露などというものではない。

「父さんの名前か……」

 ミカさんもようやく分かったんですよ、と草四郎は言った。

「ハジメ兄さんは、もうこの世にいない。そして孝三叔父が、ミカさんのために笛を奏でることはもうない」


  笛と踊りはミカさんの慰めだ。

 ぼくらは祈り願う代わりに、笛を奏で、舞を舞った。

 五島万の三人には、もはや隠す必要はなかった。

 昼日中の庭先だ。

 太陽の下で踊るぼくらを、ニレイさんとサキさんは静かに見ていた。


 そして、とうとう夕闇の世界への扉が開いた。

 それを知らせにきたのは、弟のエイだった。


 土曜日の午後だった。

 アリアが書けるようになるまで、ぼくの清書作業はストップしている。

 今日は空いた時間を使って、じっくりビーフシチューを煮込むつもりだった。

 タコ糸でブーケガル二もどきをまとめようと四苦八苦しているところに、電話がかかってきた。

「はい」

 勧誘の電話も多い。受話器をとっても、自分からは名乗らないようにしている。

「セイくん、俺だ。エイだ」

 聞き覚えのある声だった。よく知った弟の声だ。

「……どちら様ですか?」

 それでもぼくはそう返した。

 キッチンに置かれたラジオからは、野球中継が流れている。

 生放送だ。

 ここから遠く離れた沖縄でのオープン戦。

 二回の裏。スコアは0-0。

 今まさにマウンド上にいるのは、エースのシブサワ・エイ……ぼくの弟だ。

 この受話器の向こう側にいる、エイを名乗る相手は誰だ?

「アリアがいないんだ!」

 ぼくの戸惑いなどお構いなしに、受話器の向こうで相手は叫んだ。

 アリアのことを知っている。

 間違いない。

 エイだった。

「いま、どこにいる?どこからかけてる?」

「向こう側から」

 簡潔にエイが答えた。

「冗談だろ……なんでもありだな」

 あの世界は時間も空間も、すべてが真っすぐではない。

 不条理だ。しかし受け入れるしかない。

「緊急事態だ。アリアがいない」

 先日、ホスピタルで起こった襲撃はエイにも伝えてあった。

 エイはその時、アリアの助けになれなかったことを酷く悔しがっていた。

 エイは今ひとり、どんな風景の中にいるのだろう。

 電話越しの声は、ひどく遠くに聞こえる。

「エイ、落ち着け。アリアさんならぼくの隣にいる」

 こちらの電話は待合室に置かれていた。

 アリアはすぐそばのキッチンで、野球中継を聴きながら英単語の書き取りをしていた。

「わたしのの名前が聞こえたけど……呼んだ?」

 ぼく声が尖っているのを聞きつけたのだろう。

 アリアが立ち上がり、ぼくの横に来た。

「エイからです」

「えっ?だって今、エイくんは試合中で……どういうこと?」

 声を聞かせた方が早い。

 ぼくはアリアに、受話器を押し付けた。

「はい……もしもし……うん、うん」

 アリアの顔つきが、険しくなる。

 これは本当にエイに繋がっている。アリアにもすぐ分かったようだ。

「わたしは大丈夫。だからエイくん、こっちに戻ってきて」

 泣きそうになりながら、アリアが言う。

 でもアリアには分かっているはずだ。

 エイは自分の意思で、現実と向こうの世界を行き来することなんてできない。

 アリアに電話をかわってもらった。

「うん、そっちのアリアが元気で良かった」 

 さすがエイだ。もう冷静さを取り戻している。

「アリアは無事だ。お前はじっとそこで待ってろ。時間が来れば目が覚めて、こっちに戻って来れるはず……」

 言いかけた言葉を遮られた。

「ダメだ!こちらの世界にも今、アリアがいる。俺には分かる」

「もう一人のアリアさんが?」

「そうだ」

 得体のしれないものたちが、はびこる黄昏の世界。

 ひとりで怯えているかもしれない。

 ひどい目に遭っているかもしれない。

「探しに行く」

 エイは今にも走り出さんばかりだ。

「いいか、エイ。ぼくもすぐに、そちらに向かう。そこを一歩も動くんじゃない」

 だがぼくが言い終わる前に、エイは電話を切ってしまった。

 まったく。兄のいうことを、ちょっとは聞いてくれ。


 草四郎の下宿に電話をかけたが、不在だった。

 この時間だと、大学にいるのかもしれない。

 しかし、押しかけて迎えに行く時間も惜しい。

「んんー!」

 目をぎゅっとつぶって、アリアは唸り始めた。

「……いきんだって、向こうの世界飛べませんよ」

「でも、早くエイくんを助けに行かなくちゃ」

 アリアの言葉に苦笑する。

 立場が逆だ。

「ぼくに任せてください。あの世界はミカさん、ぼくらの守り神の庭なんです」

 エイは無事だろう。きっとミカさんか守ってくれる。

 ぼくの傍らにいる鳥のミカさんは、パタパタのんびり旋回していた。

 都合のいい解釈だが、焦るなと言われてる気がした。

「エイくんが探している、わたしって何?本当にあの世界のどこかに、もうひとりわたしがいるの?」

 ラジオから流れる野球中継は、まだ続いていた。

 攻守が交代して、三回の表ツーアウト。いまだ両チーム得点なし。

 次の回も引き続き、エイが投げるのだろう。

 ぼくはラジオを消した。

「分かりません。でも今野球をしているエイも、電話をかけてきたエイも本物です。あちら世界では、そんな事が起こりうる」

「……怖い。私はなにも出来ない……何も分からないのに」

 知らぬうちに、アリアはあの世界に囚われているのかもしれない。

「向こうの世界でアリアさんが困っていたなら、必ず助けます」

「お願い……危ないことはしないで。すぐに戻ってきて」

 アリアは母親を見送る、小さな子供の顔をしていた。

 そうだ。

 ぼくがうろたえている場合じゃない。

 精いっぱい、きりりとした顔を作ってみせた。

「はい。やる事をやって、すぐに帰ってきます」

 もうすでに、扉は開かれている。

 瞼の裏の影がひとかけあればいい。目をつぶれば、すぐにでもあの世界に渡ることができる。

 草四郎とも、きっとそこで落ち合うことができるだろう。

 ぼくは右手をアリアの前に差し出した。

 少しだけ、勇気を分けてほしかった。

 アリアはぼくの手をきゅっと握ってくれた。

 その手は小さくひんやりとしていた。

 中指には固いペンだこがある。

 この小さな手の感触を、ぼくは忘れることはないだろう。

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