49.
アリアは、頻繁に弟へ手紙を書いていた。
ポストに投函するのはぼくの役目だ。
しかしトウヤの存在をぼくに知らせるわけにはいかない。
だから宛名はトウヤではなく、祖父母にした。
しかしその祖父母にも、アリアは気づかれたくなかった。
『離れて暮らす姉を、必要以上に恋しがるといけないと思ったんでしょうね。田舎の人たちは、私がトウヤに連絡を取ることを喜ばないの』
だからアリアは、トウヤに送る封筒のはしに小さなバツ印を付けた。
毎日、玄関のポストに手紙を取りに行くのはトウヤの役目だ。トウヤはアリアからの印の付いていない手紙は祖父母に渡し、バツ印の付いた手紙は自分のために選り分けた。
そうやってアリアはトウヤに、連絡をとっていた。
一睡もできずに翌朝を迎えた。
「買い物に行ってきます」
何杯目になるのか、ポットにコーヒーを汲みにきたサキさんに声をかけた。
「スーパーの開店時間には、まだ早いんじゃないか?」
サキさんもまた一晩中、考え込んでいたのだろう。憔悴して見えた。
「たまには遠くの豆腐屋に行ってきます。朝の散歩も兼ねて」
サキさんの追求をかわして、ぼくは家を飛び出した。
トウヤは実在しない。
ならば、アリアの手紙を受け取っていたのは誰だ?
そこで浮かんでくるのは、谷さんだ。
谷さんが属するコウガミは、五島万の三人を組織的に監視し続けていた。十日町条の死後ずっと。
小娘の小細工が、彼らに通用したとは思えない。
当然谷さんたちは、アリアがトウヤという謎の人物と連絡を取っていたことを、知っていた。
そしてトウヤが存在しないことも、すぐに知れたろう。
だが彼らは黙認した。
アリアを敵の悪意に晒すがままに、囮に使う真似をした。
何度もポケベルを呼び出したが、応答はない。
谷さんの住むマンションは知っていた。
しかし彼は不在だった。カーテンは締め切られ、朝刊もポストにささったままだ。
昨日の晩も、ここに戻っていないのかもしれない。
ぼくは次に方城社へと向かった。
編集部の朝は遅い。
ふだん編集者たちが出社してくるのは、昼過ぎだ。
せめて伝言を残しておこうと思った。
「五島先生のところのアシじゃないか?朝早くから、何の用だ?」
だが、あっさりと谷さんはそこにいた。
うっすらと無精ひげが生え、ワイシャツの皴も少しばかり目立つ。徹夜作業をしていたんだろうか。
朝の編集部のデスクは半分も埋まっていない。しかしあたりを憚って小声で話した。
「……何度もベルを鳴らしたんですが」
「ああ、ごめん。気づいていたが、こちらも忙しくてね」
編集者としての谷さんの物腰は柔らかく、表情はにこやかだ。
しかし、目の奥でぼくを咎めていた。
裏の領域の話は、表に持ち込まない。
ぼくがしているのは、暗黙のルールを破ることだった。
「少し出れませんか?」
ぼくの頼みを、あくびを噛み殺しながら谷さんは跳ねのけた。
「昨日の件の報告なら無用だ。既にカナさんから話は聞いている」
二日前、ぼくはカナを家に送り届けた。
その後にすぐにカナは、谷さんに連絡を付けていたようだ。
「ならば、全部知っているってことですか。知っていて、連絡をくれなかったんですか」
谷さんは、怒りを滲ませたぼくに、顔を寄せた。
「間抜け面下げて、泣き付いてきたのか」
もはや、柔らかい編集者としての仮面は、脱ぎ捨てていた。挑発的で傲岸な谷さんだ。
「お前に構ってる暇はない。帰れ」
「助けを求めに来たんじゃない。あんたに文句を言いに来たんだ」
顔を寄せ合って、ガンをくれる。一昔前の不良漫画の喧嘩のように。
「巫舞の時に、あんたは言った。コウガミの不始末はこちらで処理すると」
自分の手落ちを棚に上げて、ぼくは谷さんを責めた。
「けれど、奴らは押しかけてきた。約束が違う」
みっともない。
言いがかりだとは分かっていた。
だがカナは負傷し、アリアも傷付いた。それでも取り乱した様子ひとつ見せない谷さんに、腹が立った。
「あんたは知っていたんじゃないか?アリアさんが妙なものに憑りつかれていたことを」
「なんの話だ?」
トウヤの件を問い詰めたいが、ここで話すには込入りすぎている。
そして谷さんは、ぼくが思ってもみなかったことを口にした。
「それに昨日、五島先生の家に押しかけたのは、うちの身内じゃない。君たちの領域から、やってきたものだ」
「……どういう意味だ?」
「さてね」
谷さんは鼻をフンと鳴した。
そろそろ人目がこちらに集まってきた。
谷さんはぼくから体を離した。
「時間の無駄だ。帰れよ、負け犬」
そこで終われば良かった。
谷さんの言う通り、ぼくはおめおめと立ち去っていただろう。
「五島万が三人いてくれて良かったよ……編集担当としてはね」
引き下がったぼくを、爪でひっかくように、谷さんは嘲笑を浮かべる。
「え?」
「カナさんの傷はかすり傷だ。だが日比野アリアの受けた傷は深い」
元々、不安定な子だった。
これまでよく保っていたもんだ。と谷さんはいった。
「彼女はもう終わりだ。今までよく働いてくれた。感謝しないとな」
プッツン切れたわけではない。
ぼくはそうすべきだと思ったことを、やっただけだ。
「ふざけるな」
そう言ってから一拍おいたのは、相手に構える暇を与えるためだ。
至近距離。
小さなモーションで、ぼくは拳を突き出した。
加減はしない。
余計なことをベラベラまくし立てた口に、一発叩き込んでやるつもりだった。
「ーーー!!」
だが、驚かされたのはぼくの方だった。
突然の浮遊感。
衝撃と音は遅れてやってきた。
受け身をとる暇などない。
床に打ち付けられた頭に痺れと痛みが走る。
目からは火花が散った。
スチールのデスクが倒れ、机上のものが床にばらまかれた。
ぼくの体は軽く一回転していた。
気づけば、天井を見ている。
腕を取られて投げ飛ばされた。
自分の置かれた状況に気づいたのは、更に数瞬遅れてからだった。
周囲からは、悲鳴とも歓声ともつかない叫びが上がった。
身長で10センチ。体重は15キロ。
ぼくが谷さんに勝るだろう。
しかし体格差をものともせずに、谷さんはぼくを軽々とぶん投げてみせた。
さぞかし見ものだったろう。
谷さんの攻撃は、それで終わらなかった。
「ーーげふっ」
身を起しかけたぼくのみぞおちに、谷さんの踵がめり込んだ。
「汚ねえな」
谷さんが吐き捨てる。
先程飲んだコーヒーが逆流し、ぼくのシャツを汚した。
そして谷さんは、仰向けになったままむせ返るぼくに覆いかぶさった。
肩をがっちりと組まれ、腕を極められた。
「---!!---!!」
腕の付け根が、あらぬ方向にネジ曲げられた。
あと少し力を籠めれば、ポキンといく。絶妙の匙加減だ。
余りの痛みに、待ったの声のひとつ出す余裕もない。
やせ我慢をしている場合じゃない。
ぼくは谷さんの肩を夢中でタップした。
だが、谷さんは力を緩めなかった。
「向かってきたのが、ニレイ・サキの両先生なら、俺はどちらの頬でも差し出してやったさ。だが、お前に殴られてやる義理はない」
編集部は水を打ったように静まり返っていた。
「ーーーーー」
誰も間に入って止めようとしなかったのは、ねじ伏せられているぼくが静かだったせいもあるだろう。
ぼくは悲鳴を押し殺していた。
ギブアップを受け付けてくれる気はないらしい。
ならば、せめてみっともなく泣きわめくことだけは避けたい。
少しでももがけば、肩がもげんばかりの激痛が走る。脂汗が出てきた。
いっそのこと気を失うことが出来たら、楽になるのに。
その時だった。
ぼくの視界の片隅に、ふわりとしたものが映った。
蝶?
いや違う。
それは白いハンカチだった。
「ストーップ!ストップだ!!」
大声をあげ割って入ってきたのは、サキさんだった。
「やいやい!暴力編集!うちの備品を壊すんじゃない!」
ふざけた文句だ。
しかし存外慌てた様子で、サキさんは谷さんの肩を掴んだ。
投げてよこしたハンカチは、ぼくのTKO負けを知らせるタオルの代わりらしい。
「お見苦しいところをお見せしました」
ぼくの腕を極めていた、谷さんの力が緩んだ。
解放されても、ぼくはすぐに起き上がることができなかった。
髪は乱れ、着ていたセーターは肩口から裂けていた。
一方の谷さんは、涼しい顔だ。呼吸ひとつ乱すこともない。
「大丈夫か?」
ニレイさんも来ていた。
ぼくの手を取って、起こしてくれる。
「ありがとうございます……」
でも、なぜここに?
みっともないところを見られてしまったものだ。
もう谷さんはぼくに構う気はないようだった。
睨みつけるぼくの視線を、完璧に無視だ。
「おや?こりゃ珍客だ」
谷さんの口の端が上がる。
「…………」
ニレイさんの影に、隠れるようにして立っていたのはアリアだった。
黒のピーコート、外出着である女子事務員服に、ひっつめに結った髪というスタイル。
表面上は落ち着いているようにみえる。
しかし、ぼくには彼女が極度の緊張状態にあることが分かる。
口を一文字に結んで、視線はやぶにらみで動かない。
こんな見知らぬ人たちのいる場所に、一秒たりとも存在したくない。そう思っているに違いない。
「アリアさん!?どうしてここに!」
谷さんへの怒りなど吹っ飛んでしまった。
取っ組み合いの続きどころではない。
「打ち合わせ。谷さんに呼び出された」
ぼくが谷さんを探しているまさにその時、谷さんはニレイさんの元へ連絡を入れていたらしい。結果的にすれ違いになった。
しかし筋金入りの人見知りであるアリアが、打ち合わせのために出版社まで出向くなど。前代未聞だ。
谷さんだって、彼女が本当に来るとは思ってなかったようだ。
「大丈夫?これで拭いて」
アリアからハンカチを差し出される。
口の端が切れていた様だ。
投げ飛ばされたときに、ぶつけたのだろう。
「ふたりとも、喧嘩はダメだよ」
しょんぼりと眉をさげ、まっすぐにアリアは訴える。真剣にぼくらのことを気遣っている。
「はい、ごめんなさい」
「もうしません」
谷さんとぼくは並んで、彼女に頭を下げた。
「はい、仲直り仲直り」
サキさんがぼくらの手を強引にとった。
そして仲直りの握手をさせられた。
思いっきり握る手に力を入れてやろうかと思ったけど、やめておいた。
「やれやれ、散らかっちまった。セイくん、片づけを手伝ってくれ」
谷さんが、ポンとぼくの肩を叩く。
なぎ倒されたデスク。山積みの紙が落ち、灰皿も割れ吸い殻が辺りに散らばっている。編集部の片隅は、台風が通り抜けたような有様だった。
「お三方は、奥の会議室でお待ちください。資料が置いてありますので、それをお読みになっていてください」
谷さんが、事務員さんにコーヒー出すように言いつけた。
編集部のひとたちは、何も声をかけてこなかった。
谷さんの無言の圧力に負けたのだろう。先ほどの乱闘は、見なかったことに決めたようだ。
「なんで今、打ち合わせなんか……そんなこと」
思わず声に出していた。
昨日血なまぐさい事件が起こった。 そんなことをやっている場合じゃない気がした。
ポカンと軽く頭を叩かれた。叩いたのは谷さんではない。サキさんだった。
「そんなことだと?小説を書くこと以上に、大切なことがどこにある?」
そこでぼくはやっと気づいた。
サキさんだけではない。ニレイさんもアリアも同じ気持ちだ。
だから三人でここに来た。
「じゃあぼくはこれで……」
黙々と片づけを終え、ぼくは谷さんに一礼した。
打ち合わせが済むまで、下のロビー辺りで待たせてもらうつもりだった。
「何言ってんの?参加するんだ」
「は?」
「俺の書いた企画書を読めばわかるさ」
意味深に谷さんが微笑んだ。




