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花とペン  作者: 井上マイ
48/68

48.

 

 ニレイさんは、ボンヤリと雑誌を広げて眺めている。

 サキさんはカメラのレンズを持ち出してきて熱心に磨いていた。

 草四郎は笛を吹き終えたあとも、アリアの傍らにいた。

 膝まづいたまま、石像になってしまいそうだ。

 ぼくは清書を終えた原稿を、また一から見直していた。

 朝が来るまで、みんなこの場を離れなかった。

 朝日が日が窓から差し込むと、静かにアリアは起き出した。

「風呂を沸かしますか?」

「いい。シャワーで済ませる」

 ぼくが尋ねると、アリアはしっかりとした声で答えた。

 泣き腫らした目をしていた。しかし混乱からは立ち直ったようだった。


 午前の授業をサボった草四郎は、昼飯を食べてようやく帰っていった。

 午後になって、電話が鳴った。

「ヤッホー、セイくん」

「カナちゃんか。傷はどうだ?」

「元気元気!平気のへっちゃら。あんなの怪我のうちに入らないよ……アリアちゃん、どうしている?」

「すぐそばにいるよ。仕事中だ」

「電話出れるかな?」

「聞いてみる」

 アリアはキッチンテーブルで、原稿と向き合っていた。

 いつも通りに筆は進まない。けれど精一杯いつも通りでいようとしていた。

「アリアさん、カナさんからです」

「うん」

 アリアはためらわなかった。

 すぐに立ち上がり、電話に出る。

 昨日の今日だ。

 自分が傷つけてしまった相手だ。逃げ出してもおかしくない。

 でもアリアは負けなかった。

「…うん……うん……大丈夫……分かった」

 カナが一方的にしゃべっているのだろう。

 アリアは短い相槌を打つだけった。

「……セイくん、代わって欲しいって」

 アリアに受話器を渡された。

「ごめん!今日そっちにいけなくなった」

 急用ができた、とカナは言った。

 背後で、人のさざめきがする。彼女は今、どこにいるんだろう?

「セイ君、しっかりしてよ。アリアちゃんのこと、ちゃんと見ててあげて!」

 カナは激をとばす。

 そして、ぼくがあれこれ尋ねる前に電話を切ってしまった。


「カナちゃんに怒られた」

 温かい紅茶をゆっくり飲みながら、アリアは話し始めた。

「怪我させたことを、責められた訳じゃない。セイさんたちに、隠しごとをするのは良くないって」

 そしてアリアは、ひとつ息を吐き出した。

 瞳は、まだ迷いに揺れている。

「無理に打ち明ける必要はありません。アリアさんが、楽に話せるようになるまで待ちます」 

 しかし、アリアは首を横に振った。

「いま聞いての。そして昨日私が見たものは、全部嘘だって言って欲しい」


 アリアは、昨日起こったことをゆっくり語り始めた。

「誰かが庭に入ってきた。わたしはカナちゃんに急き立てられて、練習室に入った……覚えているのは、そこまで」

 しかしそこからアリアの記憶は、歪んでいく。

  いつの間にか、カナの姿は消えていた。

 アリアはひとり、あの夕闇の世界に佇んでいた。

 いつもはそこで会えるはずの、エイの姿もなかった。

「わたしは必死で、元いた場所に戻ろうとした」

 画一的な建売住宅がたち並んでいた。

 しかしひとつ角を曲がると、そこには古い墓地が広がっている。

 商店街。建設現場。油の浮く都会の海……

 モザイクのように景色は変わった。

 カナちゃん。エイくん。セイさん。おっちゃん。サキくん。草四郎先生。谷さん。

 思いつく限りの名前をアリアは叫んだ。

 でも答えてくれる者はいない。

 アリアはめまいをおぼえた。

「お母さん……」

 最後に力のない呟きが漏れた。

  踏みしめている地面も、時間の流れさえも、歪んでいた。

 ここで待っていても、きっと目覚めは訪れない。

 黄昏の空の下、街路樹の影が長く伸びていた。

 自分の足音。そして時折吹く風の他は何も聞こえない。

 出口を探して歩いている。そのはずだった。

 けれどいつの間にか、アリアは何かに追われているような焦燥感に支配されていた。

「……っ」

 足をもつれさせながらもアリアは必死で走った。

 最後にたどり着いたのは、一見よく知った場所だった。アリアが暮らしているホスピタルの中庭だ。

 ここは現実の中庭とそこは違う場所だ。一歩中に入るとそれがハッキリとした。

 季節外れの桜が咲いている。 現実のホスピタルにはないはずの木だ。

 花は盛りをすぎて、散り始めていた。

 夏の風。桜の花びら。

 ふたつの季節が同居している。

 ここは夢の中だ。


 桜の木の下には、草四郎がいた。

 草四郎は術士の装束である、野袴姿だった。

 桜も庭も、全て幻だ。

 しかし草四郎だけは本物だ。彼のの奏でる篠笛の柔らかな音色。アリアにはそれで分かった。

 すぐにでも草四郎に駆け寄り、助けを求めたかった。

 でもアリアは足を止めた。

 草四郎もアリアが来たことに、気づく余裕が無さそうだ。

 彼は、抜き差しならぬ状況だった。

「草四郎先生は、ひとりじゃなかった。”トウヤ”と向き合っていた」


 その後の展開は、現実世界の引き写しだ。

 しかしその鏡像は、大きくひずんでいる。

 現実の中庭で、草四郎が立ち会ったのは術士の繰る人形だ。

 しかしアリアには目にはそうは映らない。

 ”トウヤ”という、命のある人間に見えていた。

「トウヤが先生に手を伸ばした」

 トウヤが草四郎に襲いかかった訳ではない。

 トウヤは苦しさを訴え、草四郎にすがろうとしていた。アリアにはそう見えた。

 しかし非情にも、草四郎はトウヤを撥ね退けた。

 篠笛の音が響き渡る。

 ーーー。

 草四郎の笛の音は風を巻き起こした。

 桜の花びらが狂ったように舞う。

 柔らかな薄紅色の花びらが、煌めく刃へと変わる。

 刃はトウヤに向かって殺到した。

 頬、額、首筋から、腕。

 花びらが触れたすべての部分から、トウヤは血を流した。

 一方的な攻撃だった。草四郎の頬に返り血が飛んだ。桜の花、鮮やかな血の色。

 幻想的な、そして残酷な光景だった。

 ”やめて、痛い、痛い”

 トウヤが、泣き叫けぶ。

 しかし草四郎は笛を止めることがない。

 その時、トウヤが振り向いた。

 やっとアリアが、そこにいることに気づいた。


「トウヤはわたしを見て、叫んだ」

 "助けて。お姉ちゃん"

 怒りと恐怖。アリアの目の前が真っ赤にそまった。

 「やめて!トウヤを傷つけないで!」

 アリアは叫んでいた。

 草四郎をトウヤから引き離そうと、アリアは無我夢中で行動した。

 いつのまにか、彼女の手にはペンナイフが握られていた。

 アリアは夢中で、それを草四郎に突き立てた。

 「アリアちゃん……どうして?」

 カナの声で、アリアは一気に現実世界に引き戻された。

 見慣れた練習室の風景。その手から血を流すカナ……。

 一変した風景の中。自分の手に握られたナイフだけが変わらない。

 カナを刺したのは、自分だ。

 それを認識したとたん、アリアは意識を失った。


「気絶?そのあとアリアさんは庭に降りて、手紙を拾った……そう聞きましたが」

 ぼくは尋ねた。

「……手紙?何のこと?分からない」

 人形の携えていた手紙を拾い上げたことも。そこに何が書かれていたのかも。

 アリアは覚えていなかった。

「アリアさん、トウヤというのは誰なんですか?」

  核心に触れる質問をした。

  ぼくら全員が、抱いていた疑問だった。

 長い沈黙のあと、アリアは口を開いた。

「……黙っていて、ごめん」

 罪の告白のようだった。その目に、怯えとあきらめが入り混じっている。

 「おっちゃんとサキくんにも、話さないと…」

 「分かりました。夕飯の後、みんな揃ってお茶にしましょう」

 アリアを励ますために、ぼくは笑顔でそう言った。


 待合室に座卓を広げる。

 ニレイさんとサキさんには、貰い物のブランデーケーキを出した。甘いものの嫌いなアリアには堅焼きせんべいだ。

 そして紅茶を濃くいれた。

「トウヤ……日比野十矢は、私の弟。小学四年生。いまは田舎のおじいちゃん家で暮らしている」

 覚悟を決めたのか。俯きながらも、アリアはしっかり話した。

 何も聞き漏らすまいと構えれば、自然と表情が固くなる。

 隣のサキさんに腿をはたかれた。

「弟か。なんで言わなかった?」

 責めるわけではない。ニレイさんが静かに問いかけた。

「おっちゃんとサキ君は、わたしをここにいてもいいって言ってくれた。物を書く仕事を教えてくれた。任せてくれた……それだけで、十分すぎるから」

 だからもうこれ以上、ふたりの負担になるようなこと言いたくなかった。

 アリアはそう言った。

「変に気を回すな。勝手に思い詰めるな。もう少し俺たちを頼りにしてくれ」

 ニレイさんは、軽く眉をひそめて見せた。

 この人は元々役者なのだ。

 さりげなく娘を思いやる父親。その役を、見事演じてみせた。

 内心の動揺をおくびにも出さない。

 それに引き替え、サキさんの反応はぎこちない。

「もうすぐ小学校は春休みだ。アリアくんもトウヤくんと、ゆっくり過ごしたいだろう。ここに連れてきな。部屋はいくらでもあるんだ。ゆっくり泊まっていって貰えばい」

 話が走り過ぎだ。

 しかしアリアは、このワザとらしさに気づかなかった。

「うん」

 小さくうなずいて、目を伏せた。

 涙が出そうになるのを堪えているのかもしれない。

 ふたりが自分の弟を受け入れようとしてくれた。

 嬉しかったんだろう。

 堰を切ったかのように、アリアはトウヤのことを話し出した。


 好物はオムライス。犬が好き。オバケが苦手。

 私と違って丸顔で、目がぱっちりで可愛いの。本当に母さんにそっくり。

 内弁慶で甘えっ子。

 田舎ではたくさんお友達作って、毎日わぁわぁやっているみたい。

 ゲーム小僧。お年玉は全部、TVゲームに使ったって言ってた。私はゲームに疎いから、馬鹿にされる。

 将来の夢は野球選手。エイくんの大ファン。

 でも私がエイ君と友達になったって言っても、信じてくれないの。だから、今度サインを送ってあげようと思っている……

 

 アリアはいきいきと弟のことを語った。

 彼女は遠く離れて暮らす弟を、心の支えにしていた。 

 それで分かった。

 アリアは仕事を休もうとしない。遊ばない。

 脇目も振らず書き、コツコツ貯金をする。

 それはきっと弟のためだ。いつか彼を呼び寄せ一緒に暮らそう……そうアリアは夢見ているのだろう。 

 恋人のひとりも作らないのも、ニレイさんとサキさんに必要以上に寄りかかろうとしないのも、自分の隣に弟のいる場所を残しておきたかったからなのかもしれない。

「あの時見たことが、本当のことじゃなくて良かった……」

 アリアはぎゅっと目をつぶった。

「そうだ。弟の写真を見せてあげる!」

「あ……待って、アリアさん」

 止めたのだが間に合わなかった。

 アリアは練習室に駆けていってしまった。

 写真?

 そんなものが存在するわけもない。

 アリアに一体何を見せられるのだろう?

 でもそこから目をそらすわけにはいかない。

 それがアリアを捕らえる悪夢なのだから。

「どこにしまったんだろう。見つからなかった」

 だから十分後、戻ってきたアリアがそう言ったとき、ぼくらはホッとした。

「また今度、出てきたらでいいよ」

 サキさんが優しく言った。

 アリアの目は不安に揺れている。現実と悪夢が彼女の中でせめぎ合っている。

「代わりにこれ」

 アリアが見せたのは、ボール紙で作られたしおりだった。

 しおりには押し花が貼られている。四つ葉のクローバーだ。

 アリアが自分で工作したものなのか。

 それともファンレターの中に入っていたものなのか。

「弟がくれたの」

 でもアリアはそう信じていた。

「わたしの宝物」

 アリアは自分に言い聞かせるように言った。


 練習室の割れた窓ガラスは、明日の交換予定だ。

 今日も母屋で眠ることになったアリアは、練習室に身の回りのものを取りに戻った。

「なぁおっちゃん、アリア君の弟のことだが……」

 アリアが席を立つと、サキさんが切り出した。

「その話は後に。今はよそうや」

 ニレイさんが首を横に振る。

 あくまでも柔らかい口調だったが、明確な拒絶だった。


 アリアは寝床代わりの衣装部屋に引っ込んだ。ニレイさんは書斎に戻った。

  ぼくとサキさんの二人きりになった。

「ニレイのおっちゃんは分かっている。俺も分かっている」

 サキさんが言った。怒りを懸命に抑えているのが分かる。

 物を数えるように、淡々とした口調を意識し言葉を続ける。

「君も分かっているんだろう?日比野十矢なんて少年は存在しない。アリア君の作り上げたまやかしだ」

「ええ」

 ぼくはそれ以上、何も言うことができなかった。

 息をつめて、彼の言葉を肯定する。

 そして、サキさんは待合室の片隅に置かれたボール箱に視線を移した。

  そこにはぼくが空いた時間に行っている、腑分けが入っている。

 腑分けはぼくの勝手な呼称で、五島万の完成作品をバラバラに戻す作業のことだ。

 ひとまとまりの作品を、工程と時系にそって分解していく。

 三人の五島万がどのように協力して作品を制作したのか。それを追っていく。

 アリアの口からトウヤの名を聞いて以降、ぼくは最優先で無蓋シリーズの腑分けを行っていた。無蓋シリーズは、トウヤの名を持つわき役が出演する作品だった。

 だから確信できる。

 小説のトウヤは、アリアの弟をモデルに創られたのではない。

 その逆だ。

 アリアの弟・日比野十矢は、小説のトウヤから生まれた。


 ニレイさんが発想し、サキさんが肉を付け、アリアがやすりをかけ仕上げた。

 そして小説の登場人物の、トウヤは生まれた。

 アリアの母、日比野みちるが産んだ子供はアリアだけだ。

 日比野十矢などという人間は、現実には存在しない。

 無蓋シリーズのトウヤは、利発な少年探偵だ。

  創作物のトウヤを材料に、アリアは調味料を加え、理想の弟を作り上げた。

 アリアとは違う明るい少年。

 でも彼は甘えんぼの、お姉ちゃん子だ。

 トウヤという弟は、アリアの願望のかたまりだ。

「アリア君だって、本当は分かっているんだ。心の底で」

 サキさんのいう通りだ。

 呪いが彼女の理性に霞をかけている。

 会うこともできない。

 電話をかけて声を聴くこともできない。

 写真もない。

 だがいくら物的な証拠を突きつけて見せても、アリアは認めようとはしないだろう。

 心の支えである弟を、守ろうとする。

 幻想を積み上げ、虚像をより強固なものにしていくだけだ。

 やがて、アリアは自分の生み出した矛盾に、押しつぶされてしまうだろう。

 怒りが込み上げてきた。

 アリアの孤独に付け入り、利用しようとした者を許すわけにはいかない。

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