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花とペン  作者: 井上マイ
47/68

47.

「このぐらいの傷、唾つけとけば治るもん」

「アホ言うな」

 ほどなく帰宅したぼくが、むずがるカナを病院へと連れて行った。

 草四郎はホスピタルでアリアに付き添っていた。

 診察中のカナを待つ間に、方城社に電話をかけた。

「もしもし」

 不機嫌な声。

 谷さんは社内にいた。

 カナが怪我をしたことを伝えた。

「それで?」

 しかし谷さんの反応は、驚くほど薄かった。

「死んだわけでも、腕が飛んだわけでもない。かすり傷なんだろ」

 血の繋がりがないとはいえ、カナは妹だ。心配するそぶりくらいみせたらどうなんだ。

「ケーキを切っていて、手を滑らせた。そんな平和な怪我じゃないんです」

「……」

 谷さんは受話器を置こうとする。

 その気配を気配を察して、ぼくは声を強めた。

「詳しい経緯は、電話じゃ話せません。相談したいこともあります」

「俺が聞くべきことがあるなら、カナさんから直接聞く」

 まるでぼくらを頼りにしない。

「分かりました」

 強目に受話器を置く。ぼくの方から電話を切ってやった。


「お医者さんには、転んだ拍子に自分で刺しちゃった。そう言って無理やり誤魔化した」

 無理にでも、気持ちを切り替えようとしているのだろう。カナは笑顔を作ってそう言った。

 病院での手当を終えたカナは、ぼくに付いてホスピタルに戻ってきた。

「さっきのアリアちゃんは普通じゃなかった。そのときの記憶がないなら、それでいい。黙って私は帰る」

 時計の針は七時を指していた。

 とうに日は暮れている。

「でもアリアちゃんが覚えていたなら、言ってあげないと。こんな傷、大したことないって」

 アリアが手にしたのが、華奢なペンナイフでなければ。カナが急所を庇わなければ、もっとひどいことになっていただろう。

 そしてカナは最低限のガーゼとテープを残して、包帯を解いた。

 そうして滲んでくる血が目立たないようにと、ヨードチンキをベタベタ塗る。

 やせ我慢だ。

「これが、その手紙です」

 草四郎に木偶人形が持っていたという封書を見せられた。

 中身は白紙が一枚。

 封筒にも宛名は書かれていない。

 表に62円切手だけが貼られている。

 封筒の真ん中には折り目がついていた。

 ん、これは……?

「この封筒、見たことがある」

「どこでですか?」

 草四郎が気色ばむ。

「アリアさんが使っているレターセットだ」

 アリアが唯一手紙を書く相手。それは離れて暮らす母方の祖父母だ。

 出不精のアリアために、手紙の投函はするのはぼくの役目だった。

 白地に水色の縁取り。ごくシンプルなレターセット。

「どこでも売ってる、ありふれたもんだ。偶然の一致かもしれない」

 祖父母に近況報告の手紙を書く。

 それは東京で暮らすために果たさなければならない義務だ。そうアリアは言っていた。

 しかし義務と言う割に、手紙を出す頻度は多かった。アリアは意外と祖父母思いだな……そう思っていたのだが。

 本当に、アリアが書いた手紙を受け取っていたのは誰だったのだろう?

 その疑問が頭を掠めたとたん、背筋が冷えた。

 この切手が貼られ、折り目がついた封筒はアリアが準備したものだ。

 相手から返事を受け取るために、自分の出す手紙に同封したのだ。

 しかし、なぜこれを”マ”が持っていた?

 悶々と黙りこむぼくらに、カナが新たな質問を投げかけた。

「ねえ、トウヤって誰?」

 またその名前か。

「五島万の小説に出てくる、脇役の名前だよ」

 だが、カナはぼくのその答えに納得しなかった。

「違う。想像上の人間じゃない。トウヤって人は、別にちゃんといるはず」

「どういうことですか?」

 草四郎の問に答える前に、カナは深いため息をひとつついた。

「あの時、アリアちゃんは叫んだの『やめて、トウヤを傷つけないで』…って」

  アリアにはその時、”トウヤ”が見えていた。

「敵の幻術?それとも催眠術?いつの間にアリアちゃんに仕掛けたの?それは分からなかったけど」

  カナは悔しそうに唇を噛む。

 沈黙を割って草四郎がつぶやく。

「ぼくのせいです」

「バカぬかせ」

 馬鹿馬鹿しい。

 草四郎のせいでも、もちろんカナのせいでもない。

 だが草四郎はまだ、グズグズ言った。

「ぼくは、またアリアさんを傷つけた」

「このホスピタルを守るのは、ぼくの役目だ。失策をしたのはぼくだ」

 草四郎が、そう言ったぼくを睨みつける。

 本当に融通の利かない男だ。 

 ぼくはひとつ大きく息を吐いた。

 そして努めて冷静に言った。

「ミカさんは、アリアさんとカナちゃんを、傷つけるような真似をすると思うのか?」

  草四郎の力はミカさんの力だ。

 アリアの錯乱が草四郎のせいだというなら、それはミカさんのせいということだ。

 一度、アリアを階段から転げ落としたのは過失だ。

 そこに悪意はない。

 ミカさんは人を祟るような神様じゃない。

 今日起こったことには、 明確に負の意思が込められていた。

「だったら、どうしてこんな事が起こったんです?侵入してきた敵は、アリアさんに指一本触れていないのに」

 草四郎の言う通り、アリアはその侵入者の姿さえ見ていない。

 それでも唯一、練習室の中にいたアリアに届いたものがある。

「引き金になったのは、たぶん”マ”の臭いだ」

  先ほどホースで水をまき、汚水を流した。

 しかし今も、庭にはその悪臭が濃く残っていた。

 その悪臭には、呪いに使われる香が紛れているはずだ。

「これは、今日仕掛けられたことじゃない」

「どういう意味?」

 もったいぶるな、とカナがせかす。

 ぼくは推測をまとめながら、言葉を続けた。

「敵はすぐ側にいた。誰も気付かぬうちに、ずっと前から……」

 アリアがニレイさんを訪ね、ホスピタルを訪れたその時から。いや十日町条の死の前から、それは密やかに準備されていた…

 仮定してみれば、腑に落ちることがある。

 家中に隠されていた札、柿の木の異変、射殺されたカラス……すべては、この家に暮らすアリアの手の届く範囲で起こったことだ。

 アリアは術士ではない。彼女の主導的に動いたわけがない。

 だが敵の術士を助け、呪いかけられた札を持ち込む程度の役割なら。アリアにも十分果たすことができた。

「そんな馬鹿な…」 

「……信じられない」

 ぼくの推測を聞いた二人は、そう言った。だが強い否定の言葉は出てこない。

 アリアが理解して、敵のために働いたとは思わない。

「アリアさんは、継続的に敵からのメッセージを受け取っていた…」

 ぼくはアリアを監視していたわけではない。

 ファンレター、ダイレクトメール、出版社から送られてくる事務的な手紙や見本誌……

 ホスピタルにくる郵便物は大量だ。

 その中に悪意を込めた一葉が紛れ込んでいたとしても、気づけなかっただろう。

 あるいは裏の路地から、練習室への軒下に投げ込まれた書き置きに。セールスを装ってかけられた電話に。

 アリアが、敵と接触する機会はいくらでもあった。

「奴らの狙いは何?アリアちゃんを使って私をちょっぴり刺して、これで終わり?」

 カナが怒りを滲ませる。

「それに、あの化生が持っていた手紙には何が書いてあったっていうの?」

「ぼくらは怪物の目を探している……君の兄さんが殺そうとしている神の目だ」

 不意に草四郎が告白した。

「どこで?」

 当然カナはそう聞いた。だがその質問には答えられない。

「その目がある場所、その扉の鍵を持っているのは五島万……アリアさんたちだ」

「つまり?」

 カナの疑問はぼくが引き取った。

「そいつらはアリアさんを取り込んで、その目を奪おうとしているのかもしれない」

 なんのために?

 谷さんの神殺しを妨害するためか?

 それとも目そのものが目的なのか。

 ミカさんの世界の奥底にしまわれた魔眼。それは強大な力を持つ。呪われた宝具だ。

 敵の手にそれが渡れば、コウガミにとってさらなる脅威になるだろう。

「……」

 でも考えても、現時点では分からないことだらけだ。

 カナがぼくらの沈黙を破った。

「アリアちゃんを傷付ける奴は、わたしの敵。それだけは確実。次は絶対にぶち殺す!」

 カナは高らかに宣言した。そしてぼくらを睨む。

「あとで知っていることを洗いざらい喋って貰うからね」


 黄昏の世界で、ぼくはアリアを見失った。

 ぼくらはミカさんの力で、五島万と繋がっている。

 あの世界の情景は、五島万の記憶と情念で作られている。

 しかしその中で、アリアの存在は淡い。

 でも彼女は消えた訳じゃない。あの世界に必ずいるはずだ。ぼくらが到達していない、奥深い場所に。

 そこはきっとぼくらの探す、”マ”の目の近くだ。

 早く、あの世界のアリアを見つけ出さないといけない。

 敵がアリアに手渡したメッセージは、不明。

 しかし目覚めているアリアを問い詰めたところで、聞き出すことはできないだろう。

 それは、アリアの無意識に忍ばせた毒だ。強引に掻き出す事は出来ない。彼女を損なうことになりかねない。

 アリアはいま非常に危うい状態である。それには間違いなかった。


 アリアは寝込み、練習室のガラス窓は割れている。

  ニレイさんとサキさんに、今日のことを隠すことはできない。

 もう結論は出ていた。

 そうとなれば、いち早く知らせるべきだろう。

 出版社で打ち合わせ中だったサキさんは、すぐに捕まった。

「……分かった。すぐ戻る」

 こういう時サキさんは、クドクド質問をしない。

 ニレイさんを探すのには、少し手間取った。

 ウナギの寝床の仕事場にはいない。

 ぼくは家の電話を使い、草四郎は表通りの公衆電話まで走らせた。

 馴染みの店に、友人宅……

 ニレイさんが立ち寄りそうな場所に、ふたり手分けして片っ端から電話をかけた。

 ぼくが八件目にかけたカフェバー。そこでようやく、さっきまでニレイさんと会っていた人を捕まえた。

「ニレイ君なら帰ったよ。仕事があるからって。そろそろ、そっちに着くころだと思うけど」

 礼を言って、電話を切ったとたんだった。

 玄関の扉が開く音がした。

「ただいま。カナちゃん来てるのか?ちょうどいい。クッキーを貰って来たんだ」

 ニレイさんだった。

 玄関に迎え出たぼくの顔を見たとたん、ニレイさんは何かが気づいたようだった。

「どうした?」

 いつもと同じのんびりした口調で、そう尋ねる。

 不覚にも泣きそうになった。


 そして間もなく、サキさんも戻ってきた。

 何が起こったのか。すべてを聞いた後も、ふたりはぼくらを責めなかった。

 ただ怪我をしたカナを気づかうだけだ。

「信じられない」という言葉は、出てこない。

 ミカさんを通して、夕闇の世界に入り込み、”マ”と対峙してきた。明確な記憶として残っていなくても、ふたりの半身はあの世界にいた。

  しばしの沈黙のあと、ニレイさんが切り出した。

「五島万は解散だ。やりかけの仕事の始末は、俺一人で何とかつける」

「俺の意思は無視ですか?」

 静かな声。しかしニレイさんの発言に、サキさんは本気で怒っている。

「すまないサキくん。だが引いてくれ。緊急事態なんだ」

「五島万は、俺とあなたで始めたことです。終わるときも一緒だ」

「分かったよ……じゃあ今日でスッパリ店じまいだ。方々に迷惑かける。だが命には替えられん。散り散りに逃げるんだ。それでも呪いだか、怪物だかが追いかけてきたら、俺たちが盾になる」

 そこでニレイさんは、ぼくをまっすぐ見つめた。真剣な顔だった。

「せめてアリア君ひとりだけでも、逃がせないだろうか」

 必死で娘を守ろうとする父親の顔だ。

「残念ながら……」

 草四郎が目を伏せて答えた。

 ここを離れることに、意味はない。影はどこまでも伸びてくる。

 五島万の名前は、すでに”マ”の呪いの渦に捕らわれている。名前は存在そのものだ。

 そして夜に目を閉じるたび、我々はあの世界に引き込まれてしまう。

 トウヤとは誰なのか。

 そしてアリアへの手紙には何が書かれていたのか。

 その答えもまた、あの世界にあるはずだ。


 母屋の衣裳部屋に布団を敷いて、そこにアリアを寝かせていた。

 落ち着かないカナは、十分おきにアリアの様子を見に行った。

「すごい寝汗。呼吸も苦しそう。必死で悪い夢の中から、逃げようとしているみたい」

 安眠の助けにと、草四郎が枕元で焚いた香の効果もないようだった。

 カナは衣裳部屋と待合室、何度往復しただろう。

 アリアは、夜半まで目を覚まさなかった。


  パタパタと廊下を走って、カナが知らせに来た。

「アリアちゃんが起きた」

 四人の男が揃いも揃って、狭い衣裳部屋へと殺到した。

 アリアは布団に入ったまま身を起こし、ただ床の一点を見つめていた。

「ほらー、どいてどいて」

 男連中をかき分けて、カナがアリアの横につく。

「ほら、アリアちゃん。喉乾いたでしょ?」

 カナがコップに水をくんできた。

 カナはコップをアリアに握らせ、今度は手拭いで額の汗を拭ってやろうとハンカチを手にする。

 そうして、カナが優しくアリアに触れたとたんだった。

 抑え込んでいた、アリアの感情が爆発した。

 ガタガタとアリアは震え始めた。手に持ったコップの水がほとんど零れてしまうほどに。

「…………」

 続いて、言葉が出ないほどの激しい嗚咽。

 喉の奥から、荒い呼吸がヒュウヒュウと漏れる。

 涙はいちばん遅れてやってきた。

「アリアちゃん、アリアちゃん……」

 カナがぎゅっとアリアの肩を抱いた。

「怖かったね……でも、もう大丈夫。怖いオバケは、もういないよ。草四郎くんがやっつけた」

「かっ、カナちゃん……わたし、わたしが……」

 アリアはカナを刺したことを覚えていた。

 アリアは、あとはただごめんなさい。ごめんなさいと繰り返す。

「こんな傷、大したことなんてない」

 カナは何度も、アリアに言い聞かせていた。

 寄り添う二人を残して、ぼくらは衣裳部屋を出た。


 アリアが今度こそ、静かに寝入ったのを見届けてカナは帰宅した。

「は?送ってくれなくていいよ。大したケガじゃないって、何度も言ってるでしょ」

「まったく、今何時だと思っているんだ。大人しく乗っていけ」

 ぼくが車を出した。

 アリアに向けた優しい態度など吹っ飛んだ。カナは終始不機嫌だった。

「ああ、もう。自分の迂闊さに腹立つ!アリアちゃんを泣かせるなんて!!」

 カナは後部座席に置かれていたクッションを、腹立ちまぎれに殴った。

「うっ、痛たたた……」

 右手にケガをしていたことを、すっかり忘れていたようだ。

「おいおい、大丈夫か?」

「ちっ、うっさい」

 心配して言ったのだが。飛んできたのは舌打ちだった。

「ご両親はご在宅かい?娘さんにご迷惑をかけた。お詫びがしたい」

 ぼくらはみんな気が動転してた。谷家に電話も入れず、こんな時間になってしまった。黙ってカナを置いて帰るだけでは、済まない。

「こら」

 後部座席から、頭をコツンとされた。

「何をするんだよ」

 信号待ちのタイミングで良かった。

「わたしは自分の裁量で動くことを許されてる。なにがあっても自分の責任。親や周平さんの出る幕じゃない」

 都内の高級住宅街。

 意外にも宗主の邸宅は洋風の造りをしていた。

 高くそびえる門扉の前にカナを降ろした。

「明日また、アリアちゃんに会いにいくから」

 ぼくの返事は待たなかった。カナは肩をいからせ、振り向きもせず行ってしまった。


 サキさんとニレイさんは、キッチンテーブルに向き合っていた。ぼくが出ていく前と同じ姿勢のままだ。会話はない。ふたりともただじっと黙っていた。

 吸殻は灰皿に山盛りになっていた。ぼくはまた濃いコーヒーをいれた。

 草四郎も帰らずに残っていた。キッチンと続き間の待合室のソファにこしかけ、ひとり思索にふけっている。

 空が白む頃になって、アリアが起き出してきた。

「……」

 無言のまま、冷蔵庫を開け麦茶のボトルを取り出す。

 ぼくらの視線を避けるように、俯いていた。

「昼飯を食ったきりだろう。腹減ってないか?」

 サキさんが声をかけた。

 目を合わせずに、アリアは答える。

「平気……みんなごめん」

 流した涙で腫れたまぶた。

 唇が青い。

 本人はそういうが、大丈夫だとはとても思えない。

「すきっ腹はよくない。セイくん、リンゴでもむいておあげ」

 ニレイさんが、やや強引にアリアを椅子に座らせた。

「…………」

 ぼくらを安心させるために、アリアはリンゴを一口二口、食べてみせた。しかしすぐにフォークを持つ手は止まってしまう。

「房総にな、いいホテルがある」

 唐突に、ニレイさんが切り出した。

「人も少ない穴場だ。飯がうまいし、空気も良い。もちろん海は目の前だ」

「……どういうこと?」

 アリアが眉をひそめた。

「たまには、のんびり旅行でもどうだ。仕事を忘れてさ。俺とサキくん、セイくんも連れてさ」

 ニレイさんも分かっている。さきほど話した通りだ。

 アリアの錯乱は、仕事の疲れのせいでは無い。この家を離れても何も解決しない。

 気休めでも、アリアの気を晴らすことができれば。そう思っての提案だった。

「嫌だ……どこにも行きたくない……ここにいさせて」

 アリアの手から、フォークが落ちた。

 見開いた目には涙が浮かび、言葉には悲鳴にも似た嗚咽が混じる。

「ごめんなさい……ごめんなさい……もう絶対にしないから……ここに、ここにここに、いたいの」

 アリアの反応の激しさに、ぼくらは唖然とする。

 ニレイさんの言葉は、死の宣告だったかのようだ。アリアは打ちのめされていた。

「おい、どうしたんだ!落ち着けって」

 震えるアリアの肩を、サキさんが掴んだ。

「馬鹿、アホ、間抜け。誰がお前を追い出そうなんて言った?」

 乱暴な言いようとは裏腹に、その声はいたく優しい。

「ニレイのオッちゃんはな、お前に少しは休めと言っているんだ」

 噛んで含むように言い聞かせる。 

「安心しろ。しばらく休んだら、また馬車馬のように働かせる」

  冗談めかせて、サキさんは笑ってみせた。

 しかしアリアはブルブルと首を横に振る。

「休み…なんて…い、いらない」

 アリアは立ち上がると、キッチンテーブルの隅に置かれていた原稿用紙を手に取った。ニレイさんがプロットを書き付け、これからアリアにまわそうとしていた原稿だ。

「仕事……できる……できるから」

 ペン立てから、ボールペンを抜き出しアリアは原稿に向かう。

 だが、アリアの動揺は収まったわけではなかった。

 彼女の視線が紙の上を、滑っていくのが分かった。

 そこに何が書かれているのか読むことさえもできないのだ。

 どうして……どうして……

 たすけて……

 奥歯を噛みしめて、アリアはその言葉を零すことを堪えていた。

 ぼくはただ見ていることしかできなかった。

 待合室の草四郎も、固唾を飲んでいるのが分かる。

 ニレイさんもサキさんも、アリアを止めはしなかった。

「…………」

 長い時間をかけて、どうにか書きつけた一文を、アリアはグシャグシャと塗りつぶしてしまった。

 いっそのこと原稿を置いて、ひっくり返って寝てしまえばいい。

 けれど、アリアはそうしようとしない。

 どうして、こんなに苦しみながらもしがみつく?

 小説を書くことに。この場所にいることに。

 アリアは、ペンを離さなかった。

 しかし、限界だったのだろう。

 その体が悲鳴を上げた。

 ボタボタと原稿に血が落ちる。

 鼻血だ。

 アリアの首元に血の川が出来た。白いシャツに真っ赤な地図を書く。

「うわっ、原稿どかせ!セイくん、ティッシュ、ティッシュだ」

 サキさんがアリアの首根っこを捕まえて、上を向かせる。

「ははは、人はのぼせると本当に鼻血を出すんだな」

 ニレイさんが、ため息混じりの笑いを漏らす。

「着替えは後にしましょう。今は横になってください」

 草四郎が肩を貸して、布団が敷いてある衣装部屋までアリアを連れていこうとした。

「…ここでいい。暗い場所にひとりでいたくない」

 アリアは待合室の床に、寝そべった。

 ぼくが毛布を持ってきて、かけてやった。アリアは頭まですっぽりと、くるまった。

「先生、お願いがあるの」

 顔を見せず、丸まったままアリアが草四郎に呼びかけた。

「なんですか?」

 草四郎がアリアの傍らにひざまずく。例えアリアに、月を取ってこいと言われたとしても、草四郎はひた向きに叶えようとするだろう。

「笛を聞かせて。草四郎先生の笛、すごく落ち着く…から」

「はい」

『楽に寄す』

 草四郎が選んだのは、シューベルトの歌曲だ。アリアの好きな曲だ。

 篠笛で奏でると、不思議と哀愁をおびる。

 やがて笛の音に紛れて、アリアの押し殺した嗚咽が漏れ聞こえてきた。

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