47.
「このぐらいの傷、唾つけとけば治るもん」
「アホ言うな」
ほどなく帰宅したぼくが、むずがるカナを病院へと連れて行った。
草四郎はホスピタルでアリアに付き添っていた。
診察中のカナを待つ間に、方城社に電話をかけた。
「もしもし」
不機嫌な声。
谷さんは社内にいた。
カナが怪我をしたことを伝えた。
「それで?」
しかし谷さんの反応は、驚くほど薄かった。
「死んだわけでも、腕が飛んだわけでもない。かすり傷なんだろ」
血の繋がりがないとはいえ、カナは妹だ。心配するそぶりくらいみせたらどうなんだ。
「ケーキを切っていて、手を滑らせた。そんな平和な怪我じゃないんです」
「……」
谷さんは受話器を置こうとする。
その気配を気配を察して、ぼくは声を強めた。
「詳しい経緯は、電話じゃ話せません。相談したいこともあります」
「俺が聞くべきことがあるなら、カナさんから直接聞く」
まるでぼくらを頼りにしない。
「分かりました」
強目に受話器を置く。ぼくの方から電話を切ってやった。
「お医者さんには、転んだ拍子に自分で刺しちゃった。そう言って無理やり誤魔化した」
無理にでも、気持ちを切り替えようとしているのだろう。カナは笑顔を作ってそう言った。
病院での手当を終えたカナは、ぼくに付いてホスピタルに戻ってきた。
「さっきのアリアちゃんは普通じゃなかった。そのときの記憶がないなら、それでいい。黙って私は帰る」
時計の針は七時を指していた。
とうに日は暮れている。
「でもアリアちゃんが覚えていたなら、言ってあげないと。こんな傷、大したことないって」
アリアが手にしたのが、華奢なペンナイフでなければ。カナが急所を庇わなければ、もっとひどいことになっていただろう。
そしてカナは最低限のガーゼとテープを残して、包帯を解いた。
そうして滲んでくる血が目立たないようにと、ヨードチンキをベタベタ塗る。
やせ我慢だ。
「これが、その手紙です」
草四郎に木偶人形が持っていたという封書を見せられた。
中身は白紙が一枚。
封筒にも宛名は書かれていない。
表に62円切手だけが貼られている。
封筒の真ん中には折り目がついていた。
ん、これは……?
「この封筒、見たことがある」
「どこでですか?」
草四郎が気色ばむ。
「アリアさんが使っているレターセットだ」
アリアが唯一手紙を書く相手。それは離れて暮らす母方の祖父母だ。
出不精のアリアために、手紙の投函はするのはぼくの役目だった。
白地に水色の縁取り。ごくシンプルなレターセット。
「どこでも売ってる、ありふれたもんだ。偶然の一致かもしれない」
祖父母に近況報告の手紙を書く。
それは東京で暮らすために果たさなければならない義務だ。そうアリアは言っていた。
しかし義務と言う割に、手紙を出す頻度は多かった。アリアは意外と祖父母思いだな……そう思っていたのだが。
本当に、アリアが書いた手紙を受け取っていたのは誰だったのだろう?
その疑問が頭を掠めたとたん、背筋が冷えた。
この切手が貼られ、折り目がついた封筒はアリアが準備したものだ。
相手から返事を受け取るために、自分の出す手紙に同封したのだ。
しかし、なぜこれを”マ”が持っていた?
悶々と黙りこむぼくらに、カナが新たな質問を投げかけた。
「ねえ、トウヤって誰?」
またその名前か。
「五島万の小説に出てくる、脇役の名前だよ」
だが、カナはぼくのその答えに納得しなかった。
「違う。想像上の人間じゃない。トウヤって人は、別にちゃんといるはず」
「どういうことですか?」
草四郎の問に答える前に、カナは深いため息をひとつついた。
「あの時、アリアちゃんは叫んだの『やめて、トウヤを傷つけないで』…って」
アリアにはその時、”トウヤ”が見えていた。
「敵の幻術?それとも催眠術?いつの間にアリアちゃんに仕掛けたの?それは分からなかったけど」
カナは悔しそうに唇を噛む。
沈黙を割って草四郎がつぶやく。
「ぼくのせいです」
「バカぬかせ」
馬鹿馬鹿しい。
草四郎のせいでも、もちろんカナのせいでもない。
だが草四郎はまだ、グズグズ言った。
「ぼくは、またアリアさんを傷つけた」
「このホスピタルを守るのは、ぼくの役目だ。失策をしたのはぼくだ」
草四郎が、そう言ったぼくを睨みつける。
本当に融通の利かない男だ。
ぼくはひとつ大きく息を吐いた。
そして努めて冷静に言った。
「ミカさんは、アリアさんとカナちゃんを、傷つけるような真似をすると思うのか?」
草四郎の力はミカさんの力だ。
アリアの錯乱が草四郎のせいだというなら、それはミカさんのせいということだ。
一度、アリアを階段から転げ落としたのは過失だ。
そこに悪意はない。
ミカさんは人を祟るような神様じゃない。
今日起こったことには、 明確に負の意思が込められていた。
「だったら、どうしてこんな事が起こったんです?侵入してきた敵は、アリアさんに指一本触れていないのに」
草四郎の言う通り、アリアはその侵入者の姿さえ見ていない。
それでも唯一、練習室の中にいたアリアに届いたものがある。
「引き金になったのは、たぶん”マ”の臭いだ」
先ほどホースで水をまき、汚水を流した。
しかし今も、庭にはその悪臭が濃く残っていた。
その悪臭には、呪いに使われる香が紛れているはずだ。
「これは、今日仕掛けられたことじゃない」
「どういう意味?」
もったいぶるな、とカナがせかす。
ぼくは推測をまとめながら、言葉を続けた。
「敵はすぐ側にいた。誰も気付かぬうちに、ずっと前から……」
アリアがニレイさんを訪ね、ホスピタルを訪れたその時から。いや十日町条の死の前から、それは密やかに準備されていた…
仮定してみれば、腑に落ちることがある。
家中に隠されていた札、柿の木の異変、射殺されたカラス……すべては、この家に暮らすアリアの手の届く範囲で起こったことだ。
アリアは術士ではない。彼女の主導的に動いたわけがない。
だが敵の術士を助け、呪いかけられた札を持ち込む程度の役割なら。アリアにも十分果たすことができた。
「そんな馬鹿な…」
「……信じられない」
ぼくの推測を聞いた二人は、そう言った。だが強い否定の言葉は出てこない。
アリアが理解して、敵のために働いたとは思わない。
「アリアさんは、継続的に敵からのメッセージを受け取っていた…」
ぼくはアリアを監視していたわけではない。
ファンレター、ダイレクトメール、出版社から送られてくる事務的な手紙や見本誌……
ホスピタルにくる郵便物は大量だ。
その中に悪意を込めた一葉が紛れ込んでいたとしても、気づけなかっただろう。
あるいは裏の路地から、練習室への軒下に投げ込まれた書き置きに。セールスを装ってかけられた電話に。
アリアが、敵と接触する機会はいくらでもあった。
「奴らの狙いは何?アリアちゃんを使って私をちょっぴり刺して、これで終わり?」
カナが怒りを滲ませる。
「それに、あの化生が持っていた手紙には何が書いてあったっていうの?」
「ぼくらは怪物の目を探している……君の兄さんが殺そうとしている神の目だ」
不意に草四郎が告白した。
「どこで?」
当然カナはそう聞いた。だがその質問には答えられない。
「その目がある場所、その扉の鍵を持っているのは五島万……アリアさんたちだ」
「つまり?」
カナの疑問はぼくが引き取った。
「そいつらはアリアさんを取り込んで、その目を奪おうとしているのかもしれない」
なんのために?
谷さんの神殺しを妨害するためか?
それとも目そのものが目的なのか。
ミカさんの世界の奥底にしまわれた魔眼。それは強大な力を持つ。呪われた宝具だ。
敵の手にそれが渡れば、コウガミにとってさらなる脅威になるだろう。
「……」
でも考えても、現時点では分からないことだらけだ。
カナがぼくらの沈黙を破った。
「アリアちゃんを傷付ける奴は、わたしの敵。それだけは確実。次は絶対にぶち殺す!」
カナは高らかに宣言した。そしてぼくらを睨む。
「あとで知っていることを洗いざらい喋って貰うからね」
黄昏の世界で、ぼくはアリアを見失った。
ぼくらはミカさんの力で、五島万と繋がっている。
あの世界の情景は、五島万の記憶と情念で作られている。
しかしその中で、アリアの存在は淡い。
でも彼女は消えた訳じゃない。あの世界に必ずいるはずだ。ぼくらが到達していない、奥深い場所に。
そこはきっとぼくらの探す、”マ”の目の近くだ。
早く、あの世界のアリアを見つけ出さないといけない。
敵がアリアに手渡したメッセージは、不明。
しかし目覚めているアリアを問い詰めたところで、聞き出すことはできないだろう。
それは、アリアの無意識に忍ばせた毒だ。強引に掻き出す事は出来ない。彼女を損なうことになりかねない。
アリアはいま非常に危うい状態である。それには間違いなかった。
アリアは寝込み、練習室のガラス窓は割れている。
ニレイさんとサキさんに、今日のことを隠すことはできない。
もう結論は出ていた。
そうとなれば、いち早く知らせるべきだろう。
出版社で打ち合わせ中だったサキさんは、すぐに捕まった。
「……分かった。すぐ戻る」
こういう時サキさんは、クドクド質問をしない。
ニレイさんを探すのには、少し手間取った。
ウナギの寝床の仕事場にはいない。
ぼくは家の電話を使い、草四郎は表通りの公衆電話まで走らせた。
馴染みの店に、友人宅……
ニレイさんが立ち寄りそうな場所に、ふたり手分けして片っ端から電話をかけた。
ぼくが八件目にかけたカフェバー。そこでようやく、さっきまでニレイさんと会っていた人を捕まえた。
「ニレイ君なら帰ったよ。仕事があるからって。そろそろ、そっちに着くころだと思うけど」
礼を言って、電話を切ったとたんだった。
玄関の扉が開く音がした。
「ただいま。カナちゃん来てるのか?ちょうどいい。クッキーを貰って来たんだ」
ニレイさんだった。
玄関に迎え出たぼくの顔を見たとたん、ニレイさんは何かが気づいたようだった。
「どうした?」
いつもと同じのんびりした口調で、そう尋ねる。
不覚にも泣きそうになった。
そして間もなく、サキさんも戻ってきた。
何が起こったのか。すべてを聞いた後も、ふたりはぼくらを責めなかった。
ただ怪我をしたカナを気づかうだけだ。
「信じられない」という言葉は、出てこない。
ミカさんを通して、夕闇の世界に入り込み、”マ”と対峙してきた。明確な記憶として残っていなくても、ふたりの半身はあの世界にいた。
しばしの沈黙のあと、ニレイさんが切り出した。
「五島万は解散だ。やりかけの仕事の始末は、俺一人で何とかつける」
「俺の意思は無視ですか?」
静かな声。しかしニレイさんの発言に、サキさんは本気で怒っている。
「すまないサキくん。だが引いてくれ。緊急事態なんだ」
「五島万は、俺とあなたで始めたことです。終わるときも一緒だ」
「分かったよ……じゃあ今日でスッパリ店じまいだ。方々に迷惑かける。だが命には替えられん。散り散りに逃げるんだ。それでも呪いだか、怪物だかが追いかけてきたら、俺たちが盾になる」
そこでニレイさんは、ぼくをまっすぐ見つめた。真剣な顔だった。
「せめてアリア君ひとりだけでも、逃がせないだろうか」
必死で娘を守ろうとする父親の顔だ。
「残念ながら……」
草四郎が目を伏せて答えた。
ここを離れることに、意味はない。影はどこまでも伸びてくる。
五島万の名前は、すでに”マ”の呪いの渦に捕らわれている。名前は存在そのものだ。
そして夜に目を閉じるたび、我々はあの世界に引き込まれてしまう。
トウヤとは誰なのか。
そしてアリアへの手紙には何が書かれていたのか。
その答えもまた、あの世界にあるはずだ。
母屋の衣裳部屋に布団を敷いて、そこにアリアを寝かせていた。
落ち着かないカナは、十分おきにアリアの様子を見に行った。
「すごい寝汗。呼吸も苦しそう。必死で悪い夢の中から、逃げようとしているみたい」
安眠の助けにと、草四郎が枕元で焚いた香の効果もないようだった。
カナは衣裳部屋と待合室、何度往復しただろう。
アリアは、夜半まで目を覚まさなかった。
パタパタと廊下を走って、カナが知らせに来た。
「アリアちゃんが起きた」
四人の男が揃いも揃って、狭い衣裳部屋へと殺到した。
アリアは布団に入ったまま身を起こし、ただ床の一点を見つめていた。
「ほらー、どいてどいて」
男連中をかき分けて、カナがアリアの横につく。
「ほら、アリアちゃん。喉乾いたでしょ?」
カナがコップに水をくんできた。
カナはコップをアリアに握らせ、今度は手拭いで額の汗を拭ってやろうとハンカチを手にする。
そうして、カナが優しくアリアに触れたとたんだった。
抑え込んでいた、アリアの感情が爆発した。
ガタガタとアリアは震え始めた。手に持ったコップの水がほとんど零れてしまうほどに。
「…………」
続いて、言葉が出ないほどの激しい嗚咽。
喉の奥から、荒い呼吸がヒュウヒュウと漏れる。
涙はいちばん遅れてやってきた。
「アリアちゃん、アリアちゃん……」
カナがぎゅっとアリアの肩を抱いた。
「怖かったね……でも、もう大丈夫。怖いオバケは、もういないよ。草四郎くんがやっつけた」
「かっ、カナちゃん……わたし、わたしが……」
アリアはカナを刺したことを覚えていた。
アリアは、あとはただごめんなさい。ごめんなさいと繰り返す。
「こんな傷、大したことなんてない」
カナは何度も、アリアに言い聞かせていた。
寄り添う二人を残して、ぼくらは衣裳部屋を出た。
アリアが今度こそ、静かに寝入ったのを見届けてカナは帰宅した。
「は?送ってくれなくていいよ。大したケガじゃないって、何度も言ってるでしょ」
「まったく、今何時だと思っているんだ。大人しく乗っていけ」
ぼくが車を出した。
アリアに向けた優しい態度など吹っ飛んだ。カナは終始不機嫌だった。
「ああ、もう。自分の迂闊さに腹立つ!アリアちゃんを泣かせるなんて!!」
カナは後部座席に置かれていたクッションを、腹立ちまぎれに殴った。
「うっ、痛たたた……」
右手にケガをしていたことを、すっかり忘れていたようだ。
「おいおい、大丈夫か?」
「ちっ、うっさい」
心配して言ったのだが。飛んできたのは舌打ちだった。
「ご両親はご在宅かい?娘さんにご迷惑をかけた。お詫びがしたい」
ぼくらはみんな気が動転してた。谷家に電話も入れず、こんな時間になってしまった。黙ってカナを置いて帰るだけでは、済まない。
「こら」
後部座席から、頭をコツンとされた。
「何をするんだよ」
信号待ちのタイミングで良かった。
「わたしは自分の裁量で動くことを許されてる。なにがあっても自分の責任。親や周平さんの出る幕じゃない」
都内の高級住宅街。
意外にも宗主の邸宅は洋風の造りをしていた。
高くそびえる門扉の前にカナを降ろした。
「明日また、アリアちゃんに会いにいくから」
ぼくの返事は待たなかった。カナは肩をいからせ、振り向きもせず行ってしまった。
サキさんとニレイさんは、キッチンテーブルに向き合っていた。ぼくが出ていく前と同じ姿勢のままだ。会話はない。ふたりともただじっと黙っていた。
吸殻は灰皿に山盛りになっていた。ぼくはまた濃いコーヒーをいれた。
草四郎も帰らずに残っていた。キッチンと続き間の待合室のソファにこしかけ、ひとり思索にふけっている。
空が白む頃になって、アリアが起き出してきた。
「……」
無言のまま、冷蔵庫を開け麦茶のボトルを取り出す。
ぼくらの視線を避けるように、俯いていた。
「昼飯を食ったきりだろう。腹減ってないか?」
サキさんが声をかけた。
目を合わせずに、アリアは答える。
「平気……みんなごめん」
流した涙で腫れたまぶた。
唇が青い。
本人はそういうが、大丈夫だとはとても思えない。
「すきっ腹はよくない。セイくん、リンゴでもむいておあげ」
ニレイさんが、やや強引にアリアを椅子に座らせた。
「…………」
ぼくらを安心させるために、アリアはリンゴを一口二口、食べてみせた。しかしすぐにフォークを持つ手は止まってしまう。
「房総にな、いいホテルがある」
唐突に、ニレイさんが切り出した。
「人も少ない穴場だ。飯がうまいし、空気も良い。もちろん海は目の前だ」
「……どういうこと?」
アリアが眉をひそめた。
「たまには、のんびり旅行でもどうだ。仕事を忘れてさ。俺とサキくん、セイくんも連れてさ」
ニレイさんも分かっている。さきほど話した通りだ。
アリアの錯乱は、仕事の疲れのせいでは無い。この家を離れても何も解決しない。
気休めでも、アリアの気を晴らすことができれば。そう思っての提案だった。
「嫌だ……どこにも行きたくない……ここにいさせて」
アリアの手から、フォークが落ちた。
見開いた目には涙が浮かび、言葉には悲鳴にも似た嗚咽が混じる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……もう絶対にしないから……ここに、ここにここに、いたいの」
アリアの反応の激しさに、ぼくらは唖然とする。
ニレイさんの言葉は、死の宣告だったかのようだ。アリアは打ちのめされていた。
「おい、どうしたんだ!落ち着けって」
震えるアリアの肩を、サキさんが掴んだ。
「馬鹿、アホ、間抜け。誰がお前を追い出そうなんて言った?」
乱暴な言いようとは裏腹に、その声はいたく優しい。
「ニレイのオッちゃんはな、お前に少しは休めと言っているんだ」
噛んで含むように言い聞かせる。
「安心しろ。しばらく休んだら、また馬車馬のように働かせる」
冗談めかせて、サキさんは笑ってみせた。
しかしアリアはブルブルと首を横に振る。
「休み…なんて…い、いらない」
アリアは立ち上がると、キッチンテーブルの隅に置かれていた原稿用紙を手に取った。ニレイさんがプロットを書き付け、これからアリアにまわそうとしていた原稿だ。
「仕事……できる……できるから」
ペン立てから、ボールペンを抜き出しアリアは原稿に向かう。
だが、アリアの動揺は収まったわけではなかった。
彼女の視線が紙の上を、滑っていくのが分かった。
そこに何が書かれているのか読むことさえもできないのだ。
どうして……どうして……
たすけて……
奥歯を噛みしめて、アリアはその言葉を零すことを堪えていた。
ぼくはただ見ていることしかできなかった。
待合室の草四郎も、固唾を飲んでいるのが分かる。
ニレイさんもサキさんも、アリアを止めはしなかった。
「…………」
長い時間をかけて、どうにか書きつけた一文を、アリアはグシャグシャと塗りつぶしてしまった。
いっそのこと原稿を置いて、ひっくり返って寝てしまえばいい。
けれど、アリアはそうしようとしない。
どうして、こんなに苦しみながらもしがみつく?
小説を書くことに。この場所にいることに。
アリアは、ペンを離さなかった。
しかし、限界だったのだろう。
その体が悲鳴を上げた。
ボタボタと原稿に血が落ちる。
鼻血だ。
アリアの首元に血の川が出来た。白いシャツに真っ赤な地図を書く。
「うわっ、原稿どかせ!セイくん、ティッシュ、ティッシュだ」
サキさんがアリアの首根っこを捕まえて、上を向かせる。
「ははは、人はのぼせると本当に鼻血を出すんだな」
ニレイさんが、ため息混じりの笑いを漏らす。
「着替えは後にしましょう。今は横になってください」
草四郎が肩を貸して、布団が敷いてある衣装部屋までアリアを連れていこうとした。
「…ここでいい。暗い場所にひとりでいたくない」
アリアは待合室の床に、寝そべった。
ぼくが毛布を持ってきて、かけてやった。アリアは頭まですっぽりと、くるまった。
「先生、お願いがあるの」
顔を見せず、丸まったままアリアが草四郎に呼びかけた。
「なんですか?」
草四郎がアリアの傍らにひざまずく。例えアリアに、月を取ってこいと言われたとしても、草四郎はひた向きに叶えようとするだろう。
「笛を聞かせて。草四郎先生の笛、すごく落ち着く…から」
「はい」
『楽に寄す』
草四郎が選んだのは、シューベルトの歌曲だ。アリアの好きな曲だ。
篠笛で奏でると、不思議と哀愁をおびる。
やがて笛の音に紛れて、アリアの押し殺した嗚咽が漏れ聞こえてきた。




