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花とペン  作者: 井上マイ
46/68

46.

「ただいまー。ふう、やっぱり我が家がいちばん落ち着くねえ」

「おいおい。いつからここは君の我が家になったんだ?」

 というわけで、今日もカナが遊びにやってきた。

 今日は土曜日。予備校の講習帰りということで、カナは制服姿だ。

「アリアちゃんは?」

「仕事中だよ」

 作業の進捗からして、もうしばらくは練習室から出てこないだろう。

「じゃあちょっと休ませて。一時間たったら起こしてちょ」

 いうやいなや、待合室のソファに膝を曲げて寝そべる。

 制服のスカートがめくれそうだ。

「サンキュ」

 仕方がないので、ケットをとってきてかけてやった。

 僕はキッチンに戻って、清書作業を再開した。

 カナは三十分もしないうちに、勝手に目を覚ました。

「喉乾いた…セイくん、麦茶もらうね」

 カナは勝手知ったる様子で、冷蔵庫を開けた。

 目がトロンとしていた。ひどく気だるげだった。

「お疲れだね」

 原稿から目を上げて、声をかけた。

「ちょっとねー」

 それでもカナは大したことじゃないと、軽く笑ってみせた。

「高二だもんな、受験勉強が大変なのか?」

「違う。あっち方面がゴタついてんの」

「あっち方面か」

 カナの家は、全国でも指折りの大社だ。

 そして大社には表には出ない影の面がある。それが、あっち方面というわけだ。

「そ。ここんところ急に、見ない顔が増えたし。みんなピリピリしてるし。家にいても、ちっとも気が休まらない」

 カナの周囲が慌ただしくなったのは、ぼくらのせいなのかもしれなかった。

 先日の巫舞。そこでミカさんは、谷さんにひとつの名を告げた。

 谷さんは、迅速に動いた。ひとり静かに。

 あれから一週間が過ぎた。彼の行動の影響が、そろそろ表に現れてきたのかもしれない。

 労りの意味を込めて、僕はカナにコーヒーを入れた。貰い物のバームクーヘンも出してやる。

「いただきますっ」

 カナはコーヒーにミルクをたっぷり、砂糖を山盛り三杯入れて飲んだ。

「兄さんは元気?」

 谷さんの様子を尋ねれば、ため息が返ってきた。

「周平さんの顔なんて、もう何日もみてない」

 一番近くにいたはずのカナも、彼の近況が分からない。

 彼の大願は、神を殺すことだ。そして、それは予言された言葉だ。

 いまその里程の、どの辺にいるのだろう?

「わたしに何かできることはない?」

 カナの目線は、僕の肩に止まる鳥のミカさんに向けられていた。

「わたしは、あなたたちと近いんでしょ?」

 ミカさんが見えるということは、ぼくらの一族と縁があるということだ。

「セイくんたちが、何かをしているのは知ってる。わたしも混ぜてよ」

 カナは切羽詰まった表情をしていた。

「ぼくらは、谷さんの後ろで右往左往してるだけだ。何も分かってないよ」

 ぼくらに頼むだけ無駄だ、と断った。

「もう!しっかりしてよね……まぁ仕方ないけど」

 そして、またカナはため息をつく。

 しかしそれが出来たとしても、彼女に手助けを求める気はない。

 ぼくらが掛かり合っていることといえば、夕暮れの世界の探索だ。

 カナは僕や草四郎より優秀な術士だ。

 でもあの場所に彼女を、近づけたくはない。

 あの場所は人の理が通じない魔境だ。

「アリアさんとは、そっち方面の話はするの?」

 カナに尋ねてみた。

「しない。アリアちゃんは、そういう話が嫌いなの」

 そういう話。ミカさんや”マ”たち。形のない、得体のしれないもの。そういう話だ。

「聞かれたら、なんでも答えちゃうんだけどな、わたし」

 そうカナはからりと言った。

 カナは兄の谷さんとは違う。

 衣装として仮面をつけることはあっても、自分を押し殺したりはしない。

彼女は自分が術士だということを、アリアに隠してなかった。

「もちろん、学校の友達にはウチの仕事のことは話さないよ。でもアリアちゃんは特別。別にわたし悪いことしてるわけじゃないし?隠す必要ないじゃん」

 実にあっけらかんとしている。

「それを聞いたアリアさんの反応は?」

「聞こえないふりをされた」

 そしてカナはまたため息をつく。

「でもわたしだってアリアちゃんとは、もっと楽しい話がしたい。好きな男の子の話とかねー」

 カナはそんな軽口をたたいた。

 彼女は幼いころから、宗主の娘として色々ものを見てきた。

 だからだろうかカナは術士としての自分と、女子高生としての自分の間に線引きをしない。

 異形と戦うことも、学校生活も、好きなバンドのライブに出かける時間も、彼女の中ではどこまでも地続きの日常だ。

「カナちゃんは、変わっているな」

「ん?どういう意味?失礼しちゃう」

「貶してる訳じゃない。褒めてるんだ」

 変人という意味で言ったんじゃない。カナは類まれなる女の子だ。

「わたしは凡人。普通の女の子。アリアちゃんこそ不思議のかたまり。ミステリアスガール」

 カナは歌うように言った。

「仲良くはなったつもり。でも頼りにしてくれない」

 今回のこともそうだ。とカナは言う。

「アリアちゃんは、話したくないっていうけど。でもアリアちゃんはもう、その中に入ってる。腰までずっぽり」

 怖いから、目をつぶってうずくまる。それでやり過ごせる段階はすぎている。

「わたしにも相談して欲しい。アリアちゃんを守るのはセイくんたちの役目。それは分かっている。でも私はアリアちゃんの友だちなのに」

 不満げに、カナはくちびるをとがらせる。

 友だちというのは、カナの本心から出た言葉だ。アリアと付き合うのは、兄に指示されたからではない。

「アリアさんは甘え下手なだけだ。カナちゃんが思う以上に、きみのことを大事に思っているはずだ」

「ふん」

 ぼくの言葉はカナに響かなかったようだ。

「セイくんたちがやっていること、うまくいかないといいなー」

 二切れ目のバームクーヘンをまた一口。そしてカナはサラリとそんなことを言った。

「なんでさ?」

「セイくんたちがきっかけを作ったら、いろんなことが変わってしまいそうで」

 そういうカナの表情は寂しげだった。

 先ほどは、ぼくらを手伝いたいと言ったのに。なかなか乙女心は複雑なようだ。

「ぼくらが失敗しようが、成功しようが関係ない。谷さんは自分で決めたことは、必ずやる人だ」

 遅いか早いかの違いだろう。

 そもそも、ぼくらの探し物が彼の目指すものと重なるのかも分からない。

「そんなこと分かってるよ。私はただもうちょっと、諦めるための時間が欲しいだけ」

 小柄な彼女が大人びて見える。

 谷さんとの別れは、カナにとって確定事項だった。 

「あまり思い詰めるなよ」

 カナのカップにおかわりのコーヒーを注ぐ。それ以上、下手な気休めは言えなかった。


「カナちゃん、来てたの」

 その時、やっとアリアがやってきた。手には、彼女が朱を入れ終えた原稿用紙が握られている。

 カナがいるのを見て、慌てて手ぐしで髪を整える。

「声をかけてくれれば、良かったのに」

 不満気な声を漏らす。

「お仕事一段落ついた?」

「うん」

 はにかみつつアリアが答える。

「じゃあわたしに付き合って。一緒に図書館に行こう。いっぱい寄り道しながらね」


 それでもぼくらは、いまは待つことしかできなかった。

 ミカさんは沈黙を続けている。

 ぼくらはもう半月も、あの夕闇の世界に降りていない。

 ぼくらは魔眼を見つけられていない。

 その目はまるで生き物だ。

 その目が放つ瘴気を辿り、ぼくらは道を進んでいく。

 しかし気配を捉えたかと思えば、また遠ざかっていく。

 そして行く手を阻む者の存在もある。

 夕闇の世界に入り込んできた蝶の”マ”。その背後には、現実世界の術士がいた。異形をミカさんの領域まで、送りこめるほどに強力な使い手だ。

 巫舞の時に、ミカさんが告げた名前。それが敵の全てなのだろうか。谷さんが決着をつけたいま、ぼくらは脅かされることなく、進むことができるのだろうか。 

 庭に植えられた柿の木の季節が、一夜にして一巡りし、家の前に射殺されたカラスの死骸が捨てられていた。そして以前には、ホスピタルに呪いの札が仕掛けられてたこともある。

 見えない敵の攻撃は陰湿で、執拗だった。

 これで終わりだとは、思えない。ぼくと草四郎の意見は一致していた。

 しかし白昼堂々の強襲など、予想してなかった。



 間が悪いことに、その時ぼくはホスピタルを留守にしていた。

 サキさんのお使いで、出版社に出かけていたのだ。ニレイさんとサキさんも外出していた。

  その日は週に一度の、家庭教師の日だった。

 キッチンテーブルでアリアと草四郎は向かいあい、現代文の授業をしていた。

 そして学校帰りのカナも、遊びにきていた。

 カナもキッチンテーブルに陣取り、ふたりの脇で自分の予備校の課題をやっていた。

「草四郎くーん、ここ教えて」

 カナが数Ⅱの問題集を差し出す。

「ぼくはアリアさんの教師です。カナさんは対象外」

「ケチ」

「お金取りますよ」

 そう言いつつも、草四郎はカナのノートに解の公式を書き込む。

 そんなふたりのやり取りを見て、アリアがくすりと笑う。

「授業が終わったら、三人でお散歩に行こうよ」

 なんかやる気出ない、とカナが舌を出す。

「駅前のダイエーに行こう。ふたりはアイス、わたしはタコ焼き」

 カナの提案にアリアが乗っかった。

「はいはい、勉強が終わったらね」

 草四郎の承諾にカナが歓声をあげる。

「やった、草四郎くんの奢りね!」

「もうすぐ、セイさんが戻ってくる筈ですから。セイさんの奢りってことで」

 その軽口を言い終えたところで、草四郎の笑みは凍りついた。

「……」

 カナも椅子から腰を浮かせた。そして辺りをうかがう。

 草四郎とカナは、同時に気づいた。

 暗く澱んだ、人ならぬ者の気配。

 招かれざる客が、この家にやってきた。

 草四郎はテキストを閉じた。


「ぼくが出ます。カナさん、アリアさんを頼みます」

「分かった」 

「……二人とも、どうしたの?」

 アリアが不安気に問いかける。

 彼女を心配させまいと、カナが明るく微笑みかけた。

「じゃあアリアちゃん、あっち行ってよう。大丈夫、草四郎に任せておけばすぐに終わるから」

 カナはアリアの手を引いた。

 とにかくアリアをマから遠ざけねば。

  ふたりは勝手口から庭に降り、裏を回って練習室へと向かった。


 それから一分もしないうちに、草四郎は敵と向き合った。

 怪奇は礼儀正しく、正面玄関からやってきた。

 二本の足がある。

 それは生きた人の形をしていた。

 普段遭遇する”マ”たちは、影の溜まりだ。輪郭は曖昧で、いかようにも形を変える。

 これだけ(こご)っている、マは自然発生した者ではありえない。

 人の死体と毒を持つ植物と獣。それらの汚れた材料をより合わせて作られたものだ。

 術士ではない人間の目にも、捉えることのできる生き人形。

 これを作り上げ操る者……悪意のある誰かが近くにいるはずだ。

 人を装う“マ”は、セーターにジーパンを身に付けている。

 遠目には草四郎と同年代の男に見える。

 だが近づいて来るにつれ、その歪さが目に止まる。

 一歩ごとに”マ”両足首がガクリと曲がる。まるで糸の絡んだマリオネットのように。

 その顔面は既に崩れかけていた。

 熱いチョコレートのようにドロドロだ。鼻先も唇も溶けて混ざり合い、茶色の糸を引いて地面へとたれ落ちる。

 それはぼくらが先日敷地内で行った、巫舞の効果だ。

 あの時の香の匂いは消えても、清めの力は残っている。見えない結界は、その”マ”を着実に削っていた。

「……」

 草四郎は敵を見据えた。だが動きはしなかった。

 そして呼びかけることもしない。

 これは人ではない。対話など成立しない。

 一歩進むごとに、異形は更に形を保てなくなっていく。

 まぶたも落ち、むき出しになった目玉はくすんだビー玉のようだ。そこに意志の光は見えない。

 これは木偶人形だ。それも粗悪品の。

 ーーー見くびられたものだ。

 草四郎は舌打ちした。夕闇の世界で対峙した異形とは、比べるまでもない。

 目の前それは取るに足らない小物だった。

 人形は裸足だった。ベタリベタリとその足音は湿り気を帯びている。

 近づくごとに、立ちのぼる臭いが鼻をつく。薔薇と肉が混じりあったような、甘くすえた臭いだ。

「こいつめ!」

 草四郎は足元の石を取り上げて、投げつけた。既にもろくなっていた、左手首がそれで落ちた。

 腐臭が更に強くなる。

 傷を受けても、それは前進をやめない。

「ホ…ガっ…ワラ…ワ」

 木偶人形が呻いた。それは人の言葉としての体をなしていない。獣の呻きだ。

「……」

 草四郎は続けて石を放った。

 そのどれもが”マ”に命中する。

 血でない体液が衣服に滲む。

 その作り物の”マ”からは、殺気が感じられない。

 自分たちを襲う現れたのでは無いのか?

「ガ…タ…ン…ヒ…ヌ」

 しかしマは執拗だった。壊れたテープレコーダーのように、木偶人形は短い単語を繰り返した。

「ゴトウ…?五島万?」

 その単語を理解した途端、草四郎の怒りが膨れあがる。こいつの狙いは五島万の三人だ。

 学生風のいでたちは、五島万の信奉者を装うためのものなのか。

 手にはファンレターのような封書が握られている。

「貴様、アリアさんたちに何をするつもりだ!?」

「……ガガガ……」

 木偶人形から、返ってきたのはひび割れたうめき声だけだった。

 草四郎は印を結んだ。笛は手にしなかった。

 アガミの技は、舞手であるぼくと対にならなければ使えない。

 草四郎は唇に歌を乗せ、イメージした。自分の体を笛の音で満たす。

 想像力など術士には無用。敵を見誤る元になる。

 それがアガミで受けた教えだ。

 しかし草四郎は、谷さんから新たな技を学び取っていた。

 今の自分ならば、自らの想像し作り出した幻想さえも制御し、力にできる。

 そう確信していた。

 いまミカさんの姿は見えない。だが常にそばにいてくれている。自分はミカさんに包み込まれ、守られている。それを信じることができた。

 木偶人形は、もはや眼前に迫ってきていた。

「グ…あ…ウ…」

 草四郎は五島万ではない。それにやっと人形は気づいた。

「ウァウ…ウウウウ!」

 唇も歯肉も落ちた顔。歯をむき出しにして木偶人形は咆哮した。

 その手が、草四郎の首元へと伸びた。

 自分は一本の笛だ。

 その音は邪を祓い清める護りの音だ。

 その音を眼前の敵に届ける。

「ハッ!」

 草四郎は、その手をひらめかせた。

 人形に直接触れはしない。

 音が見えない刃となって、指先から放たれた。

 柔らかな調べも、悪しき力で作られた木偶人形にとってみれば、身を焦がす炎だ。

 既に半ば溶けかけていた皮膚が裂けた。

 ベシャリ。

 人形が着ていたジーンズが落ちた。

 人形の下半身は悪臭を放つ泥となって、地面に広がる。

「ゴ…ウ…マ…」

 しかしあっけなく崩れ去ったと思われた人形は、尚も前進をやめなかった。

 肘を使い、這い進む。

 すでに人形は左手首から先も失っている。

 しかし右手に握られたファンレターは、離さない。

「もういい。消え失せろ!!」

 怒りが沸騰した。

 草四郎から放たれた刃は、人形を切り刻んでいった。

 頭部が熟したブドウのように弾けた。

 ジワリ。

 だが、それで終わりではなかった。

「……なんだ、これは?」

 草四郎は呻いた。

 地面に広がった、人形の体液が形を変え蠢き始めていた。

 体液の色は褐色から、濃い黒に変わる。

 まるで闇を写したような黒だ。

 体液はうねり、放射状に広がっていった。

 そして、20もの赤い目が生まれ。一斉に光った。

 蜘蛛だ。

 異形は人の形を失っても、与えられた使命を全うしようとしていた。

 ”ドコ…ゴトウ…マン…ドコ…ドコにイル?” 

 昏い声が、こだまのように幾重にも反響する。

 蜘蛛たちは、草四郎を取り囲む。

 そして一斉に糸を放った。

「ーーー」

 草四郎は動じることはない。

 意識を集中する。

 そして笛の音に熱を孕ませ放った。

 糸は彼の体に届くことなく、千切れて落ちた。

 草四郎は、蜘蛛たちの動きを見切っていた。

 まずは一匹。飛び掛かってきた蜘蛛の頭部が、草四郎の見えない刃によって飛ばされる。

 だが弾け飛んだ蜘蛛は、また像を結んで起き上がってくる。

 元々影でできた”マ”に命などない。

 かき消しても、すぐに影は湧き出す。

 このままでは、きりがない。

 根源を断ち切らなければ。

 草四郎は、あの傲岸な男のイメージを借りた。

 思い浮かべたのは、谷さんが料理屋で見せた人型の化生との戦闘だ。

 切り裂くのではない、圧倒的な力で叩き潰す。

 草四郎は、腕を振り下ろした。

 強い風が吹き抜ける。

 ”ゴア…トい……ウウ……”

 断末魔の声を上げ、もろもろと蜘蛛たちが崩れ落ちる。

 黒い花があたりに散ったようだった。 

「静まれ……」

 念を込め呟いた。

 飛び散った体液は闇の暗さを失い、ただの汚水へと戻った。

 今度こそ、終わったのだ。


「どこへいくの?」

 駆け出そうとした草四郎を、背後から呼び止めたのはカナだった。

「術士はすぐそばにいるはずだ。追わいと」

 草四郎は答えた。

 侵入者は、アリアたちを狙ってきたのだ。

 逃がすわけには行かない。

「追いかけて、捕まえて、どうするの?殺すの?……やめてよね、めんどくさい。死体の始末どうすんの?」

 ほらほら、落ち着いてとカナが言う。

「それにそんな恰好で外に出るつもり?臭いし、ドロドロ」

 草四郎は化生の体液をたっぷり浴びていた。

 わざとらしく、カナは自分の鼻をつまんで顔をしかめてみせる。

「そこをどいてください」

 草四郎は強硬に、カナの脇を通り抜けようとした。

 その時、彼女が自分の右手を隠すようにしているのに気づいた。

「まさか、ケガをしているんですか!?」

 草四郎はカナの手を、強引にとった。

「っっ痛、ちょっと、やめてよ」

 カナの右手の甲は裂け、血が流れていた。

 刃物で刺されたのだろう。傷は掌にまで抜けていた。

 筋を傷つけてしまったのか、カナはその手を自由に閉じることもできない。

「他にも仲間がいたのか!?」

 しかしそこで草四郎は気づいた。

 侵入者の気配は他に感じなかった。

 それに”マ”は武器など使わない。

 このカナの傷は、人が付けた傷だ。

 それも、式神などを操る術を知らない人間が……

「まさか……アリアさんがやったのか……?」 

「違うっ!私のせいなの!」

 カナは強く否定した。

 だがその表情が、草四郎の問いを肯定していた。

 草四郎は、ポケットからハンカチを取り出した。

 それで、カナの手をぎゅっとしばる。

「痛い……乱暴にしないで!」

「お願いだから、じっとしててください」

 まるで状況が掴めない。

  頭に上っていた血が降りていくのが分かった。

 負傷したカナと、アリアを置いて敵を追跡する余裕はない。

「……アリアさんはどうした?今はどこに?」

「大丈夫、練習室で眠って貰ってる」

「どういうことですか?」

「……大丈夫。私は君と違ってガサツじゃないの。少し術を使わせてもらった。けど、アリアちゃんには傷ひとつ付けてない」

 カナの言葉を信用しなかったわけではない。

 だが草四郎はすぐさま、練習室へと足を向けた。

「待って!アリアちゃんは大丈夫って言ったでしょう」

 カナが引き止めたが聞かない。

 この目でアリアの無事を確かめないことには、安心できない。

 母屋の裏手に回ると、すぐに異変に気づいた。

 庭の地面に、分厚い類語辞典が落ちていた。

 周囲には、ノートや英語の参考書も散らばっている。

 そして練習室の窓が割れたのだろう。ガラスが散乱している。

「アリアちゃんはね……ちょっとだけパニックになっちゃったの」

 カナにしては珍しく歯切れの悪い言葉だ。草四郎は理由を察した。

「そうか、僕のせいなんだな…」

 草四郎はアリアを試すため、笛を吹いた時のことを思い出した。彼女を怯えさせ、ケガまで負わせてしまった時のことだ。

「くそっ」

 唇を噛んで、吐き捨てた。

 当然、考えなければいけないことだった。

 アリアと自分たち阿上は、強く結びついている。

 草四郎が力を使えば、振動は彼女に伝わる。

 まさかカナを、傷つけるような真似をするなんて。

「嘘……どうして起きてるの!?」

 カナが小さく叫んだ。

  草四郎もカナの目線の先を辿った。


 練習室のドアが開いた。

 カナがアリアに術をかけ、寝かしつけたというのは本当のことだろう。

 アリアは目を開いていた。しかしその瞳は靄がかかったようだ。その目はどこも見ていない。

 まともに意識があるようには見えない。

「アリアちゃん!」

「アリアさん!」

 ふたりの呼びかけにも、アリアは反応を示さなかった。

 アリアは練習室の外階段を、裸足のまましっかりした足取りで降りてきた。

「アリアちゃん!」

「待って」

 すぐさま駆け寄ろうとしたカナを、草四郎は手で制した。

 アリアは何かを探しているようだった。

 彼女は裸足のまま、庭を歩いていった。

 そして、先ほどまで草四郎と人形が交戦していた玄関前で足を止めた。

 人形の残骸である、小さな汚水の溜まりの中からアリアは目的のものを見つけた。

 ”マ”が持っていた、封書だった。

 アリアの白い指が、その封筒を取り上げようとした。

「アリアさん!?」

 刹那、草四郎が横からそれを奪い取る。

 封筒を破り捨て、便箋を開く。

 白紙だ。

 ただ飛び散った汚水のシミが点々と残るのみだ。

「これは……?」

 呆然と立ちすくむ草四郎の手から、アリアは手紙を奪い返した。

「…………」

 そこに期待通りの言葉が書かれていたというように、ふわりとアリアは微笑んだ。

「……アリアちゃんっ!!」

 カナが叫び声をあげる。

 そのまま崩れ落ちたアリアの体を、草四郎は抱きとめた。

 アリアは気を失っていた。


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