46.
「ただいまー。ふう、やっぱり我が家がいちばん落ち着くねえ」
「おいおい。いつからここは君の我が家になったんだ?」
というわけで、今日もカナが遊びにやってきた。
今日は土曜日。予備校の講習帰りということで、カナは制服姿だ。
「アリアちゃんは?」
「仕事中だよ」
作業の進捗からして、もうしばらくは練習室から出てこないだろう。
「じゃあちょっと休ませて。一時間たったら起こしてちょ」
いうやいなや、待合室のソファに膝を曲げて寝そべる。
制服のスカートがめくれそうだ。
「サンキュ」
仕方がないので、ケットをとってきてかけてやった。
僕はキッチンに戻って、清書作業を再開した。
カナは三十分もしないうちに、勝手に目を覚ました。
「喉乾いた…セイくん、麦茶もらうね」
カナは勝手知ったる様子で、冷蔵庫を開けた。
目がトロンとしていた。ひどく気だるげだった。
「お疲れだね」
原稿から目を上げて、声をかけた。
「ちょっとねー」
それでもカナは大したことじゃないと、軽く笑ってみせた。
「高二だもんな、受験勉強が大変なのか?」
「違う。あっち方面がゴタついてんの」
「あっち方面か」
カナの家は、全国でも指折りの大社だ。
そして大社には表には出ない影の面がある。それが、あっち方面というわけだ。
「そ。ここんところ急に、見ない顔が増えたし。みんなピリピリしてるし。家にいても、ちっとも気が休まらない」
カナの周囲が慌ただしくなったのは、ぼくらのせいなのかもしれなかった。
先日の巫舞。そこでミカさんは、谷さんにひとつの名を告げた。
谷さんは、迅速に動いた。ひとり静かに。
あれから一週間が過ぎた。彼の行動の影響が、そろそろ表に現れてきたのかもしれない。
労りの意味を込めて、僕はカナにコーヒーを入れた。貰い物のバームクーヘンも出してやる。
「いただきますっ」
カナはコーヒーにミルクをたっぷり、砂糖を山盛り三杯入れて飲んだ。
「兄さんは元気?」
谷さんの様子を尋ねれば、ため息が返ってきた。
「周平さんの顔なんて、もう何日もみてない」
一番近くにいたはずのカナも、彼の近況が分からない。
彼の大願は、神を殺すことだ。そして、それは予言された言葉だ。
いまその里程の、どの辺にいるのだろう?
「わたしに何かできることはない?」
カナの目線は、僕の肩に止まる鳥のミカさんに向けられていた。
「わたしは、あなたたちと近いんでしょ?」
ミカさんが見えるということは、ぼくらの一族と縁があるということだ。
「セイくんたちが、何かをしているのは知ってる。わたしも混ぜてよ」
カナは切羽詰まった表情をしていた。
「ぼくらは、谷さんの後ろで右往左往してるだけだ。何も分かってないよ」
ぼくらに頼むだけ無駄だ、と断った。
「もう!しっかりしてよね……まぁ仕方ないけど」
そして、またカナはため息をつく。
しかしそれが出来たとしても、彼女に手助けを求める気はない。
ぼくらが掛かり合っていることといえば、夕暮れの世界の探索だ。
カナは僕や草四郎より優秀な術士だ。
でもあの場所に彼女を、近づけたくはない。
あの場所は人の理が通じない魔境だ。
「アリアさんとは、そっち方面の話はするの?」
カナに尋ねてみた。
「しない。アリアちゃんは、そういう話が嫌いなの」
そういう話。ミカさんや”マ”たち。形のない、得体のしれないもの。そういう話だ。
「聞かれたら、なんでも答えちゃうんだけどな、わたし」
そうカナはからりと言った。
カナは兄の谷さんとは違う。
衣装として仮面をつけることはあっても、自分を押し殺したりはしない。
彼女は自分が術士だということを、アリアに隠してなかった。
「もちろん、学校の友達にはウチの仕事のことは話さないよ。でもアリアちゃんは特別。別にわたし悪いことしてるわけじゃないし?隠す必要ないじゃん」
実にあっけらかんとしている。
「それを聞いたアリアさんの反応は?」
「聞こえないふりをされた」
そしてカナはまたため息をつく。
「でもわたしだってアリアちゃんとは、もっと楽しい話がしたい。好きな男の子の話とかねー」
カナはそんな軽口をたたいた。
彼女は幼いころから、宗主の娘として色々ものを見てきた。
だからだろうかカナは術士としての自分と、女子高生としての自分の間に線引きをしない。
異形と戦うことも、学校生活も、好きなバンドのライブに出かける時間も、彼女の中ではどこまでも地続きの日常だ。
「カナちゃんは、変わっているな」
「ん?どういう意味?失礼しちゃう」
「貶してる訳じゃない。褒めてるんだ」
変人という意味で言ったんじゃない。カナは類まれなる女の子だ。
「わたしは凡人。普通の女の子。アリアちゃんこそ不思議のかたまり。ミステリアスガール」
カナは歌うように言った。
「仲良くはなったつもり。でも頼りにしてくれない」
今回のこともそうだ。とカナは言う。
「アリアちゃんは、話したくないっていうけど。でもアリアちゃんはもう、その中に入ってる。腰までずっぽり」
怖いから、目をつぶってうずくまる。それでやり過ごせる段階はすぎている。
「わたしにも相談して欲しい。アリアちゃんを守るのはセイくんたちの役目。それは分かっている。でも私はアリアちゃんの友だちなのに」
不満げに、カナはくちびるをとがらせる。
友だちというのは、カナの本心から出た言葉だ。アリアと付き合うのは、兄に指示されたからではない。
「アリアさんは甘え下手なだけだ。カナちゃんが思う以上に、きみのことを大事に思っているはずだ」
「ふん」
ぼくの言葉はカナに響かなかったようだ。
「セイくんたちがやっていること、うまくいかないといいなー」
二切れ目のバームクーヘンをまた一口。そしてカナはサラリとそんなことを言った。
「なんでさ?」
「セイくんたちがきっかけを作ったら、いろんなことが変わってしまいそうで」
そういうカナの表情は寂しげだった。
先ほどは、ぼくらを手伝いたいと言ったのに。なかなか乙女心は複雑なようだ。
「ぼくらが失敗しようが、成功しようが関係ない。谷さんは自分で決めたことは、必ずやる人だ」
遅いか早いかの違いだろう。
そもそも、ぼくらの探し物が彼の目指すものと重なるのかも分からない。
「そんなこと分かってるよ。私はただもうちょっと、諦めるための時間が欲しいだけ」
小柄な彼女が大人びて見える。
谷さんとの別れは、カナにとって確定事項だった。
「あまり思い詰めるなよ」
カナのカップにおかわりのコーヒーを注ぐ。それ以上、下手な気休めは言えなかった。
「カナちゃん、来てたの」
その時、やっとアリアがやってきた。手には、彼女が朱を入れ終えた原稿用紙が握られている。
カナがいるのを見て、慌てて手ぐしで髪を整える。
「声をかけてくれれば、良かったのに」
不満気な声を漏らす。
「お仕事一段落ついた?」
「うん」
はにかみつつアリアが答える。
「じゃあわたしに付き合って。一緒に図書館に行こう。いっぱい寄り道しながらね」
それでもぼくらは、いまは待つことしかできなかった。
ミカさんは沈黙を続けている。
ぼくらはもう半月も、あの夕闇の世界に降りていない。
ぼくらは魔眼を見つけられていない。
その目はまるで生き物だ。
その目が放つ瘴気を辿り、ぼくらは道を進んでいく。
しかし気配を捉えたかと思えば、また遠ざかっていく。
そして行く手を阻む者の存在もある。
夕闇の世界に入り込んできた蝶の”マ”。その背後には、現実世界の術士がいた。異形をミカさんの領域まで、送りこめるほどに強力な使い手だ。
巫舞の時に、ミカさんが告げた名前。それが敵の全てなのだろうか。谷さんが決着をつけたいま、ぼくらは脅かされることなく、進むことができるのだろうか。
庭に植えられた柿の木の季節が、一夜にして一巡りし、家の前に射殺されたカラスの死骸が捨てられていた。そして以前には、ホスピタルに呪いの札が仕掛けられてたこともある。
見えない敵の攻撃は陰湿で、執拗だった。
これで終わりだとは、思えない。ぼくと草四郎の意見は一致していた。
しかし白昼堂々の強襲など、予想してなかった。
間が悪いことに、その時ぼくはホスピタルを留守にしていた。
サキさんのお使いで、出版社に出かけていたのだ。ニレイさんとサキさんも外出していた。
その日は週に一度の、家庭教師の日だった。
キッチンテーブルでアリアと草四郎は向かいあい、現代文の授業をしていた。
そして学校帰りのカナも、遊びにきていた。
カナもキッチンテーブルに陣取り、ふたりの脇で自分の予備校の課題をやっていた。
「草四郎くーん、ここ教えて」
カナが数Ⅱの問題集を差し出す。
「ぼくはアリアさんの教師です。カナさんは対象外」
「ケチ」
「お金取りますよ」
そう言いつつも、草四郎はカナのノートに解の公式を書き込む。
そんなふたりのやり取りを見て、アリアがくすりと笑う。
「授業が終わったら、三人でお散歩に行こうよ」
なんかやる気出ない、とカナが舌を出す。
「駅前のダイエーに行こう。ふたりはアイス、わたしはタコ焼き」
カナの提案にアリアが乗っかった。
「はいはい、勉強が終わったらね」
草四郎の承諾にカナが歓声をあげる。
「やった、草四郎くんの奢りね!」
「もうすぐ、セイさんが戻ってくる筈ですから。セイさんの奢りってことで」
その軽口を言い終えたところで、草四郎の笑みは凍りついた。
「……」
カナも椅子から腰を浮かせた。そして辺りをうかがう。
草四郎とカナは、同時に気づいた。
暗く澱んだ、人ならぬ者の気配。
招かれざる客が、この家にやってきた。
草四郎はテキストを閉じた。
「ぼくが出ます。カナさん、アリアさんを頼みます」
「分かった」
「……二人とも、どうしたの?」
アリアが不安気に問いかける。
彼女を心配させまいと、カナが明るく微笑みかけた。
「じゃあアリアちゃん、あっち行ってよう。大丈夫、草四郎に任せておけばすぐに終わるから」
カナはアリアの手を引いた。
とにかくアリアをマから遠ざけねば。
ふたりは勝手口から庭に降り、裏を回って練習室へと向かった。
それから一分もしないうちに、草四郎は敵と向き合った。
怪奇は礼儀正しく、正面玄関からやってきた。
二本の足がある。
それは生きた人の形をしていた。
普段遭遇する”マ”たちは、影の溜まりだ。輪郭は曖昧で、いかようにも形を変える。
これだけ凝っている、マは自然発生した者ではありえない。
人の死体と毒を持つ植物と獣。それらの汚れた材料をより合わせて作られたものだ。
術士ではない人間の目にも、捉えることのできる生き人形。
これを作り上げ操る者……悪意のある誰かが近くにいるはずだ。
人を装う“マ”は、セーターにジーパンを身に付けている。
遠目には草四郎と同年代の男に見える。
だが近づいて来るにつれ、その歪さが目に止まる。
一歩ごとに”マ”両足首がガクリと曲がる。まるで糸の絡んだマリオネットのように。
その顔面は既に崩れかけていた。
熱いチョコレートのようにドロドロだ。鼻先も唇も溶けて混ざり合い、茶色の糸を引いて地面へとたれ落ちる。
それはぼくらが先日敷地内で行った、巫舞の効果だ。
あの時の香の匂いは消えても、清めの力は残っている。見えない結界は、その”マ”を着実に削っていた。
「……」
草四郎は敵を見据えた。だが動きはしなかった。
そして呼びかけることもしない。
これは人ではない。対話など成立しない。
一歩進むごとに、異形は更に形を保てなくなっていく。
まぶたも落ち、むき出しになった目玉はくすんだビー玉のようだ。そこに意志の光は見えない。
これは木偶人形だ。それも粗悪品の。
ーーー見くびられたものだ。
草四郎は舌打ちした。夕闇の世界で対峙した異形とは、比べるまでもない。
目の前それは取るに足らない小物だった。
人形は裸足だった。ベタリベタリとその足音は湿り気を帯びている。
近づくごとに、立ちのぼる臭いが鼻をつく。薔薇と肉が混じりあったような、甘くすえた臭いだ。
「こいつめ!」
草四郎は足元の石を取り上げて、投げつけた。既にもろくなっていた、左手首がそれで落ちた。
腐臭が更に強くなる。
傷を受けても、それは前進をやめない。
「ホ…ガっ…ワラ…ワ」
木偶人形が呻いた。それは人の言葉としての体をなしていない。獣の呻きだ。
「……」
草四郎は続けて石を放った。
そのどれもが”マ”に命中する。
血でない体液が衣服に滲む。
その作り物の”マ”からは、殺気が感じられない。
自分たちを襲う現れたのでは無いのか?
「ガ…タ…ン…ヒ…ヌ」
しかしマは執拗だった。壊れたテープレコーダーのように、木偶人形は短い単語を繰り返した。
「ゴトウ…?五島万?」
その単語を理解した途端、草四郎の怒りが膨れあがる。こいつの狙いは五島万の三人だ。
学生風のいでたちは、五島万の信奉者を装うためのものなのか。
手にはファンレターのような封書が握られている。
「貴様、アリアさんたちに何をするつもりだ!?」
「……ガガガ……」
木偶人形から、返ってきたのはひび割れたうめき声だけだった。
草四郎は印を結んだ。笛は手にしなかった。
アガミの技は、舞手であるぼくと対にならなければ使えない。
草四郎は唇に歌を乗せ、イメージした。自分の体を笛の音で満たす。
想像力など術士には無用。敵を見誤る元になる。
それがアガミで受けた教えだ。
しかし草四郎は、谷さんから新たな技を学び取っていた。
今の自分ならば、自らの想像し作り出した幻想さえも制御し、力にできる。
そう確信していた。
いまミカさんの姿は見えない。だが常にそばにいてくれている。自分はミカさんに包み込まれ、守られている。それを信じることができた。
木偶人形は、もはや眼前に迫ってきていた。
「グ…あ…ウ…」
草四郎は五島万ではない。それにやっと人形は気づいた。
「ウァウ…ウウウウ!」
唇も歯肉も落ちた顔。歯をむき出しにして木偶人形は咆哮した。
その手が、草四郎の首元へと伸びた。
自分は一本の笛だ。
その音は邪を祓い清める護りの音だ。
その音を眼前の敵に届ける。
「ハッ!」
草四郎は、その手をひらめかせた。
人形に直接触れはしない。
音が見えない刃となって、指先から放たれた。
柔らかな調べも、悪しき力で作られた木偶人形にとってみれば、身を焦がす炎だ。
既に半ば溶けかけていた皮膚が裂けた。
ベシャリ。
人形が着ていたジーンズが落ちた。
人形の下半身は悪臭を放つ泥となって、地面に広がる。
「ゴ…ウ…マ…」
しかしあっけなく崩れ去ったと思われた人形は、尚も前進をやめなかった。
肘を使い、這い進む。
すでに人形は左手首から先も失っている。
しかし右手に握られたファンレターは、離さない。
「もういい。消え失せろ!!」
怒りが沸騰した。
草四郎から放たれた刃は、人形を切り刻んでいった。
頭部が熟したブドウのように弾けた。
ジワリ。
だが、それで終わりではなかった。
「……なんだ、これは?」
草四郎は呻いた。
地面に広がった、人形の体液が形を変え蠢き始めていた。
体液の色は褐色から、濃い黒に変わる。
まるで闇を写したような黒だ。
体液はうねり、放射状に広がっていった。
そして、20もの赤い目が生まれ。一斉に光った。
蜘蛛だ。
異形は人の形を失っても、与えられた使命を全うしようとしていた。
”ドコ…ゴトウ…マン…ドコ…ドコにイル?”
昏い声が、こだまのように幾重にも反響する。
蜘蛛たちは、草四郎を取り囲む。
そして一斉に糸を放った。
「ーーー」
草四郎は動じることはない。
意識を集中する。
そして笛の音に熱を孕ませ放った。
糸は彼の体に届くことなく、千切れて落ちた。
草四郎は、蜘蛛たちの動きを見切っていた。
まずは一匹。飛び掛かってきた蜘蛛の頭部が、草四郎の見えない刃によって飛ばされる。
だが弾け飛んだ蜘蛛は、また像を結んで起き上がってくる。
元々影でできた”マ”に命などない。
かき消しても、すぐに影は湧き出す。
このままでは、きりがない。
根源を断ち切らなければ。
草四郎は、あの傲岸な男のイメージを借りた。
思い浮かべたのは、谷さんが料理屋で見せた人型の化生との戦闘だ。
切り裂くのではない、圧倒的な力で叩き潰す。
草四郎は、腕を振り下ろした。
強い風が吹き抜ける。
”ゴア…トい……ウウ……”
断末魔の声を上げ、もろもろと蜘蛛たちが崩れ落ちる。
黒い花があたりに散ったようだった。
「静まれ……」
念を込め呟いた。
飛び散った体液は闇の暗さを失い、ただの汚水へと戻った。
今度こそ、終わったのだ。
「どこへいくの?」
駆け出そうとした草四郎を、背後から呼び止めたのはカナだった。
「術士はすぐそばにいるはずだ。追わいと」
草四郎は答えた。
侵入者は、アリアたちを狙ってきたのだ。
逃がすわけには行かない。
「追いかけて、捕まえて、どうするの?殺すの?……やめてよね、めんどくさい。死体の始末どうすんの?」
ほらほら、落ち着いてとカナが言う。
「それにそんな恰好で外に出るつもり?臭いし、ドロドロ」
草四郎は化生の体液をたっぷり浴びていた。
わざとらしく、カナは自分の鼻をつまんで顔をしかめてみせる。
「そこをどいてください」
草四郎は強硬に、カナの脇を通り抜けようとした。
その時、彼女が自分の右手を隠すようにしているのに気づいた。
「まさか、ケガをしているんですか!?」
草四郎はカナの手を、強引にとった。
「っっ痛、ちょっと、やめてよ」
カナの右手の甲は裂け、血が流れていた。
刃物で刺されたのだろう。傷は掌にまで抜けていた。
筋を傷つけてしまったのか、カナはその手を自由に閉じることもできない。
「他にも仲間がいたのか!?」
しかしそこで草四郎は気づいた。
侵入者の気配は他に感じなかった。
それに”マ”は武器など使わない。
このカナの傷は、人が付けた傷だ。
それも、式神などを操る術を知らない人間が……
「まさか……アリアさんがやったのか……?」
「違うっ!私のせいなの!」
カナは強く否定した。
だがその表情が、草四郎の問いを肯定していた。
草四郎は、ポケットからハンカチを取り出した。
それで、カナの手をぎゅっとしばる。
「痛い……乱暴にしないで!」
「お願いだから、じっとしててください」
まるで状況が掴めない。
頭に上っていた血が降りていくのが分かった。
負傷したカナと、アリアを置いて敵を追跡する余裕はない。
「……アリアさんはどうした?今はどこに?」
「大丈夫、練習室で眠って貰ってる」
「どういうことですか?」
「……大丈夫。私は君と違ってガサツじゃないの。少し術を使わせてもらった。けど、アリアちゃんには傷ひとつ付けてない」
カナの言葉を信用しなかったわけではない。
だが草四郎はすぐさま、練習室へと足を向けた。
「待って!アリアちゃんは大丈夫って言ったでしょう」
カナが引き止めたが聞かない。
この目でアリアの無事を確かめないことには、安心できない。
母屋の裏手に回ると、すぐに異変に気づいた。
庭の地面に、分厚い類語辞典が落ちていた。
周囲には、ノートや英語の参考書も散らばっている。
そして練習室の窓が割れたのだろう。ガラスが散乱している。
「アリアちゃんはね……ちょっとだけパニックになっちゃったの」
カナにしては珍しく歯切れの悪い言葉だ。草四郎は理由を察した。
「そうか、僕のせいなんだな…」
草四郎はアリアを試すため、笛を吹いた時のことを思い出した。彼女を怯えさせ、ケガまで負わせてしまった時のことだ。
「くそっ」
唇を噛んで、吐き捨てた。
当然、考えなければいけないことだった。
アリアと自分たち阿上は、強く結びついている。
草四郎が力を使えば、振動は彼女に伝わる。
まさかカナを、傷つけるような真似をするなんて。
「嘘……どうして起きてるの!?」
カナが小さく叫んだ。
草四郎もカナの目線の先を辿った。
練習室のドアが開いた。
カナがアリアに術をかけ、寝かしつけたというのは本当のことだろう。
アリアは目を開いていた。しかしその瞳は靄がかかったようだ。その目はどこも見ていない。
まともに意識があるようには見えない。
「アリアちゃん!」
「アリアさん!」
ふたりの呼びかけにも、アリアは反応を示さなかった。
アリアは練習室の外階段を、裸足のまましっかりした足取りで降りてきた。
「アリアちゃん!」
「待って」
すぐさま駆け寄ろうとしたカナを、草四郎は手で制した。
アリアは何かを探しているようだった。
彼女は裸足のまま、庭を歩いていった。
そして、先ほどまで草四郎と人形が交戦していた玄関前で足を止めた。
人形の残骸である、小さな汚水の溜まりの中からアリアは目的のものを見つけた。
”マ”が持っていた、封書だった。
アリアの白い指が、その封筒を取り上げようとした。
「アリアさん!?」
刹那、草四郎が横からそれを奪い取る。
封筒を破り捨て、便箋を開く。
白紙だ。
ただ飛び散った汚水のシミが点々と残るのみだ。
「これは……?」
呆然と立ちすくむ草四郎の手から、アリアは手紙を奪い返した。
「…………」
そこに期待通りの言葉が書かれていたというように、ふわりとアリアは微笑んだ。
「……アリアちゃんっ!!」
カナが叫び声をあげる。
そのまま崩れ落ちたアリアの体を、草四郎は抱きとめた。
アリアは気を失っていた。




