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花とペン  作者: 井上マイ
43/68

43.

 

 瞬く間に十日がすぎた。

 しかし巫舞の日以来、ぼくらは黄昏の世界に行くことができないでいた。

 あの舞は、ぼくらをそれだけ消耗させたのだろうか。

 はたまた、ミカさんの気まぐれなのか。

 夢の迷宮に潜り、早く目を探し出さなくてはならないのに。

 だが焦ったところで仕方がない。

 いまのうちに、たっぷり息継ぎをしておこう。

 そして、谷さんからの連絡もなかった。


 今日はアリアの家庭教師の日ではない。

 しかし草四郎はホスピタルに顔を見せていた。

 いまはキッチンテーブルでぼくと向き合っている。

 ひとりでジッとしていられないらしい。

 時刻は午後四時。

 夕飯の下準備はあらかた終っている。

 キッチンテーブルには、五島万の原稿の束が積まれている。

 すべて掲載済みの完成原稿だ。

 五色のボールペンを手に取って、大学ノートを広げる。そして原稿と向き合う。

 いっぽうの草四郎は、大学の課題に取り組んでいた。

 草四郎は姿勢がいい。猫背で腰痛持ちのサキさんにも見習っていただきたい。

 草四郎のペンは、快調に動いていた。

「ああっ……くそっ」

 と思ったら、小さく悪態をついた。

 苛立たしげに、ぐしゃりとレポート用紙を丸めて放る。

 アリアは顔を見せなかった。

 練習室に閉じこもっている。

 外泊のせいで生じた仕事の遅れを取り戻そうと、猛烈に働いている。

 困ったものだ。


「草四郎くん、お勉強中悪いんだけどさ。そこの定規取ってくれる?」

「はい」

「草四郎くん、鍋の火を弱めておいて」

「……」

 草四郎は無言のまま立ち上がり、コンロのスイッチをひねる。

「草四郎くん、こっち向いて」

 にらめっこしましょ。ムニっと両手で、自分の頬を引っ張ってみせた。

「……」

 草四郎の視線は一秒ぼくの顔の上に留まった。

 しかしすぐに手元のレポート用紙に戻ってしまう。

「ずっと張りつめていると、保たないぜ」

 そう言うと、キッと睨まれた。

 だが何も言い返してこない。

 余裕のない顔をしている。その自覚があるんだろう。

「ミカさんは、なにも言ってないのか?」

 ここにはぼくらの他に誰もいない。でも声を潜めてそう尋ねた。

「何も聞こえません。今度はぼくの耳が馬鹿になってしまったみたいだ」

 巫舞の時に聞いたミカさんの声が、未だ頭の中で反響している。

 草四郎はそう言った。

 新しい音が聞き取れない。

「聞こえないということは、今は聞く必要がないってことさ」

 ぼくは立ち上がった。

 コンロにかかっているのは、おでんの鍋だ。大根を一切れ、小鉢にすくい上げる。

「味見してくれ」

 たっぷりと汁も入れて、草四郎に差し出す。

 箸を付けてやらなかったので、ハフハフと犬食いだ。

「うまいですよ。でもそんなに作ってどうするんですか?」

 劇団の稽古場時代に使っていたのだろうか。

 ホスピタルには、赤ん坊が沐浴できそうな大鍋があった。

 きょうのおでんはその鍋にたっぷり作った。

「どうせお前も食べていくんだろ」

 自信作だ。

 おでん種は、近所のスーパーではなく専門店まで足を伸ばして買ってきた。

 これでおでんはほぼ完成。

 あとは別の鍋で下茹でしたジャガイモと、煮すぎるとふくれる練り物を食べる直前に加えるだけだ。

「自分はどうなんです?セイさんも、ミカさんの声が聞こえるようになったんでしょう?」

 苛立ちのつぶてをぶつけられた。

 それを軽く返す。

「おれは初心者だ。無茶言ってくれるな」

 確かにミカさんの声が聞こえるようになった。

 だが、壊れかけのラジオよりも劣る。

 川のせせらぎを思わせるような、微かな囁き声。

 小さなシャボンが弾けるような笑い声。

 耳を澄ませ、集中しようとするほど、音は遠ざかっていく。


「さて、もうこんな時間か。休憩終わりっと」

 ぼくは山と積み上げていた原稿を、足元の段ボールに戻す。

 色ペンを筆箱にしまい、ワープロを持ってきた。

 これから連載エッセイの清書作業に入る。

「休憩?今までの作業は、仕事じゃないんですか?」

「うん、自分のためにやっていることだ」

 五島万の誰に頼まれたわけじゃない。

 直筆の原稿。

 完成版の載った掲載誌。

 そのふたつを並べる。

 書籍化済みの場合には、加えてその本も並べる。

 赤、黒、青。

 三色のボールペン、鉛筆、大学ノート、定規……

 原稿はコピーをとる。

 そこにぼくは書き込み、線を引く。

 そして、大学ノートにまとめていく。

 ワープロは使わない。手書きで作業を進める。

 ぼくが行っているのは、五島万の小説の解体だった。

 より合わせされ、ひとつの作品としてまとめられたそれを、ほぐして材料へと戻していく作業だ。

 この家に残っていたものだけで、行李十箱にもなる発表済の原稿。

 それをアリアから借り受けた。

 バラバラに散らかったまま箱に押し込めてあった原稿を、まずは作品ごとに仕分けていく。

 そして作成日ごとに並び替える。

 その作業ですら、かなりの困難を伴った。

 五島万の小説作りは、かなりアクロバティックだ。

 ひとつの作品のために生み出されたアイデアが、別の作品に転用されることも多々ある。

 一度書かれて長い時間放置されていた場面が、ひょいと新しい作品に差し挟まれたりする。入り組んだ迷路の如くだ。

 その第一段階を乗り越えると、今度は個々の作品の分解に入る。

 ニレイさん、サキさん、アリア……誰がどの部分を執筆したのか?

 書き手別に分けていく作業だ。

 三人の書いた文章は、幾重にも折り重なり、もつれあっていた。

 書かれた文字をただ写す、ふだんの清書作業とはまるで違う。

 糸巻き車をゆっくり回すような感じだ。

 ぼくは目を凝らし、頭の先から指先まで神経を巡らせて、作業にあたる。

「そうすることに、なんの意味があるんですか?」

 直截的に草四郎が尋ねる。

「さあね……自分でもわからない」

 いまの時点では言いようもない。

 黄昏の世界は五島万の三人と、ミカさんによって築かれた。

 三人をよく知るための方法は、うち明け話を聞くことでも、酒を飲み交わすことでもない。

 五島万の作品を読み解くことだ。

 三人の中に深く潜り、触れる。

 あの広大な迷宮を解く鍵が、ここにあるような気がする。

 そしてこれは五島万の内側にいる、ぼくにしかできない。

 見守るだけでは、もう足りない。

 これがぼくが見つけた、向き合いかただ。

「いまは直接向こうに乗り込めない。だから、何でも思いついたことは試してみるのさ」

「で?進捗は?」

「始めたばかりだ。まだまだまだまだ……先は長い」

 十日かけて、ようやく長編ふたつを仕分けた。

 このホスピタルにぼくがいる間に、この作業は終わるのだろうか。

 ニレイさんの流水のような崩れた文字。サキさんの丸い文字。アリアの筆圧の高い文字。

 渦巻き、ぶつかり合い、溶け合う…

 三人の呼吸を、懸命に読み取る。ぼく

 何を思って、どこで立ち止まり、どうやって筆を進めていったのか。

 そのあとを、必死に辿る。

 ぬかるんだ道で、高く茂った草をかき分けるように。

 ゆっくりと地面を踏みしめ、ぼくは進む。


     XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX


 そしてその翌日だった。

 朝刊を広げるとスポーツ面に、弟の写真が載っていた。

 弟のエイは、人気球団のエースピッチャーだ。

 昨日、エイはチャリティーイベントに出席し、子どもたちにグローブとバットを寄贈していた。

 シーズンオフも、あいつは大忙しのようだった。


 時刻は午前九時だ。

 ぼくは、仕事場から朝帰りしてきたニレイさんに、コーヒーを淹れていた。

「……おはよ」

 小さくこちらに頭を下げて、アリアがキッチンに入ってきた。

 こんな早くから母屋に顔を出すとは珍しい。

「おはようございます.…おでかけですか?」

 ベロアのブラウスと、膝丈のスカート。

 アリアはよそ行きの格好をしていた。

 きちんと厚手のストッキングも履いている。いいとこのお嬢さん、といった按配だ。

「すぐ食べられるものある?もう出なきゃ」

 アリアは、どこに行くともいわない。

 どうせまたカナのお誘いだろう。

 今日はロックンロールではなく、シックなコンサートにでも観にいくんだろうか?

「セイさん、髪ゆって」

 ハムエッグと、トーストを食べ終えたアリアが言った。

「はい。サキさんほど、うまくはできないですか」

 今日の彼女の服装に合わせて、レース地のリボンを選んだ。

 ポニーテールに高く結い上げる。

 普段より五段階ほどシャンとした格好のアリア。ニレイさんはニコニコと眺めつつ、何も言わない。

 何かがおかしい。

 そこで気づくべきだった。


 約15分後に、ぼくは度肝をぬかれることになる。

 十時五分前に、玄関のチャイムが鳴らされた。

「はいはい、今出ますよー」

 どうせ宅配業者だろう。

 押しかけのファンは、なぜか朝の時間を選んでは来ない。

 ぼくはインターフォンで返事をする手間を省き、ハンコを掴んで玄関に出た。

「おはよう」

 立っていたのは、弟のエイだった。

「えっ?どうしてここに」

 自分が寝ぼけているのではないかと思った。

「話の前に、車を庭に入れさせてもらっていい?」

「ああ、構わないけど…」

  車を移動させ終わると、エイ当然のように玄関に入ってきた。

「お邪魔します」

 今日は休日なんだろう。

 エイはmミリタリー風のジャケットとジーパンというラフないでたちだった。

 冬なのに日に焼けた肌。

 ジーパンに包まれた太ももは、筋肉ではち切れんばかりだ。

 腕時計がキラキラしている。この前見たのとは別の腕時計だ。

 ぼくは知らないが、かなり値の張る舶来ものなんだろう。

  エイは手土産の菓子折りだけでなく、花束も携えていた。

 ピンクのバラだ。

「なんだよそれ?この家には仏壇はないぞ」

「お供えじゃない。贈り物だ」

「ぼくに?」

 そう聞き返すと、エイはあははと笑った。

「違う、違う。アリアにだ」

「は?」

 いまエイは今、なにを言った?

 ぼくがぽかんとしている間に、エイは待合室を通ってキッチンへ入っていく。


「おはようございます。朝早くからすいません」

 エイは、スポーツマンらしくハキハキと挨拶した。

「おはよう。ご活躍はかねがね伺っているよ」

「ありがとうございます」

 突然現れたエイに、ニレイさんはまったく驚いた様子もない。

 アリアも平然と紅茶を飲んでいる。

「カステラです。サキ先生が、お好きだと伺ったので」

 エイが手土産を差し出す。

 確かにサキさんはカステラ好きだ。

 でも、それをエイは誰から聞いた?

「ご馳走様。あいにくサキくんは就寝中だが、起こさないよ。面倒だ」

  ニレイさんの判断は正しい。

 サキさんがこの状況を見れば、ぼく以上のパニックを起こす。

 そして、エイはアリアに近づく。

「約束していた花だ」

 一切の照れを見せることなく、エイはその花束をアリアに渡す。

「ありがとう」

 約束?

 いつどこで?

 アリアはバラの香りをしばし楽しんでから、ぼくに手渡した。

「練習室に活けておいて」

「は、はい」

 花瓶はいくらでもある。しかし、ぼくは花束を持ったまま立ち尽くす。

「じゃあ行こうか」

「うん」

 エイが呼びかけて、アリアはすくっと立ち上がる。

「どこに行くんだ?」

 ぼくは未だ状況が呑み込めていない。

「ちと、彼女とぶらりとね」

 エイから、説明になっていない答えが返ってきた。

 ふたりきりで出かける。

 まさか、それはデートなのか!?

 そしてエイはニレイさんに一礼した。

「お嬢さんをお預かりします。夕食を取って、遅くとも21時には戻りますので」

「はいはい」

 ニレイさんは鷹揚に答える。今日の予定も事前に知っていたんだろう。

「ま、待って。ちょっと待て!」

 押し付けられた花束を抱えたまま、ぼくは出ていこうとするふたりに声をかけた。

 だがエイは立ち止まらない。

「夜には戻るって言っただろう。聞きたいことがあるなら、その時に」

 そしてエイとアリアは、行ってしまった。

「じゃあ俺は今から眠るから」

 一部始終をニヤニヤと見ていたニレイさんは、わざとらしくあくびをひとつする。

 そして呆然とするぼくをスルッとかわして、自室に引っ込んでしまった。


 長い一日になった。

 まだ夜にならないのか。何度も壁の時計を睨むことになった。

 昼食のうどんは茹ですぎた。

 清書作業では、単純ミスを三回繰り返した。

「おい、セイくん。なんだよ便秘症みたいな顔しちゃって。調子悪いのか?」

 サキさんに、心配される始末だ。

 サキ何も知らない。

 アリアは練習室で仕事をしているとばかり思っている。


 そして20時35分。

 庭先に車が停車する音が聞こえるや否や、ぼくは玄関へと飛び出していった。

「ただいま戻りました」

「……」

 きちんと挨拶をするエイ。

  アリアは無言だった。けれど、不機嫌そうではない。

 頭には、朝出て行ったときにはなかった帽子が乗っていた。毛皮風の温かそうな黒の帽子だ。デパートあたりで、ふたりで選んで買い求めたのだろうか?

「説明してくれるんだろう。一体全体、どういうこった?」

「セイくん、何を怒っているんだ?」

 こっちの気も知らず、エイがのんびりと聞き返す。

「怒ってないけれども!」

 そんなぼくらをよそに、アリアはマイペースに言った。

「外に出たから疲れた。もう寝る」

 おでかけ用の靴を脱ぎ捨て、さっと普段履きのサンダルに履き替える。

 母屋に寄らず、このまま練習室に戻るつもりらしい。

「おやすみ」

 エイが声をかける。

「アリア、今日は楽しかった。またこうやって会えるかな」

「うん」

 アリアの返事はそれだけだ。

 エイに向けたその笑顔の柔らかさに、ぼくは驚かされる。

「また連絡する」

「うん」

 そしてアリアはさっさと行ってしまった。

 そのとき、家の中から声がした。

「セイくん、何を玄関先で騒いでいるんだ?誰か来てるのか?」

 まずい。サキさんに気づかれた。

「ちょっと出てきます。一、二時間で戻りますから!」

 ぼくは家の奥に向かってそう叫ぶと、エイを外へと押し出した。

「もう御一方の先生にも、挨拶しておきたかったんだが」

「今度にしろ」

 文句を言うエイを睨みつけた。 

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