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花とペン  作者: 井上マイ
42/68

42.

 

 ニレイさんは、キッチンにいた。

 テーブルに両肘をつき、目を閉じていた。

 だが眠っているわけではなかった。

「コーヒーを淹れましょうか」

 そう声をかけた。

「お気遣いなく。二人とも早く着替えておいで」

 ニレイさんは静かにそう言った。


 装束を脱いでも、香はぼくらの体に染み付いていた。

 そして耳には、捕らえきれなかったミカさんの歌の響きが残っている。

 草四郎もぼくも無言だった。

 自分たちが嵐の中にいたことに、舞が終わったいま気づく。

 踊りを終えるまでには、半刻もかからなかった。しかし喉はカラカラに乾き、膝は震えていた。

 今夜は眠れそうにない。

 眠りの先にある、黄昏の世界に行きたくない。人の姿をしたミカさんと、いまは話す気になれなかった。


 そしてサキさんもキッチンにやってきた。

 ひとり部屋に閉じこもる気分ではないようだ。

 四人分のコーヒーは、サキさんがいれてくれた。

 とびきり濃く苦かった。

 何杯もコーヒーをおかわりしながら、ぼくらは話した。

「それで、谷くんがどこに向かったのか、君たちは知らないのか」

 サキさんの顔は晴れない。

「明日のニュースで、あいつの写真を見るなんてゴメンだぜ」

 その心配も無理はない。

 谷さんは、あのまま敵陣へ乗り込んでいきそうだった。

「谷さんはクレバーです。暴走なんてしない。そしてあの人は、コウガミから制限なしの自由を与えられているわけでもありません」

 谷さんも、彼が敵と呼ぶ誰かも、無事のはずだ。

 そう草四郎が言った。

「そうか……そうだな」

 サキさんとニレイさんは、それで納得したようだ。

 だが彼らと谷さんの間に、穏やかな着地点があるとは思えない。


「今夜は、いいものを見せてもらった」

 ニレイさんは、そういった。

 目には興奮があった。しかし顔色は却って青ざめている。

「俺にはなにも分かりませんでした」

 サキさんが、噛みつくように反論する。

 彼の顔には濃い疲労が見えた。

「あれは何だったんだ?」

 ぼくも草四郎も、サキさんの問いに答えることができない。

 アガミの舞は、見るものの心に眠る景色を写す鏡だ。

 サキさんは、先ほどなにを見たのか?

 サキさん自身にしか分からないことだ。

「谷くんに伝えた名前だけじゃない。もっと、いろいろなことを聞いたはずだ……」

 サキさんがつぶやく。

 しかし、思い出すことは出来ない。

 手のひらをすり抜ける砂のように、こぼれ落ちた。

 月明かりの下、特殊な装束をまとうぼくら演者。

 香の匂いと、不規則な踊りのリズム、繰り返される旋律……

 錯覚を誘う要因はいくつもある。

 だが、すべてが幻だったわけではない。

「夜はまだ長い。ゆっくり思い出せばいい。それに全部を理解する必要なんてないだろう」

 ニレイさんが言った。


「ところで君の神様の名前は……というのではないか?」

「えっ、はいその通りです」

 ニレイさんが口にしたのは、ミカさんの真名だ。

「驚いた。どこでそれを知ったんですか?」

 聞くと、あっさり種明かしをしてくれた。

「散歩のついでに、ちょっと足を伸ばしてね」

 ニレイさんが立ち寄ったのは、アガミの本家だ。

 そして本家のすぐ隣には、小さな神社がある。

 神主はアガミの当主が勤めている。

 そこは普段は無人の、ごく小さな社だ。

 それに、本殿に祀られているのはミカさんではない。

 コウガミの主神だ。

「本殿の手前に、小さな祠があった」

 それはミカさんのための祠だった。

 だがそこに収まるような、ミカさんではない。

 祠の中には、御神体などもない。

 花が供えてあるきりだ。

「罰当たりだが、中をじっくり点検させていただいた」

 ぼくも知らなかったが、祠にはミカさんの名が書かれた札が納められていた。

 札の文字を、ニレイさんは手帳に書き写した。

 次にニレイさんは、図書館に足を運び郷土史を漁った。

 さらに人を介して、春香堂の広報に問い合わせをした。

 春光堂はアガミ一族の経営するお香屋だ。

 ぼくらの神楽で使う香も、練ってくれている。

 だがさすがに春光堂の社史に、家の歴史は載っていない。

 それでもニレイさんは、わずかばかりの手がかりを手に入れた。

 そしてすべてを合わせて、ミカさんの名前に辿り着いた。

「それはそれは……」

「お疲れさまでした」

 ぼくと草四郎はこういう他にない。

「仕事と関係ない調べものほど、楽しいものはないな」

 ニレイさんは変なところで、凝り性ななのだ。

「きみたちの守り神は、由緒正しい神様だな。古事記にも異名をみつけた」

 ニレイさんの言うとおり、ミカさんは古い神様だ。

 だがいま祀っているのは、アガミの家くらいなものだろう。

 ミカさんは、いまはもう忘れ去られた神だった。

「神様なんてのは、俺には縁がない存在だ。ずっとそう思って生きてきた。事故にあったその時も、俺が呼んだのは神じゃない。年老いた自分のおふくろだった」

 そしてニレイさんは目をすがめた。

 見えないミカさんの姿を、捉えようとするように。

「でも神様はいま、そこにいるんだな」


「そして、今夜のできごとだ。あの歌を聞くのは初めてじゃなった」

 ニレイさんが目を細める。

 記憶を辿っているようだ。

「いつ、どこで、俺はあの歌を聞いたんだろう?昔昔、子どもの頃にか?」

 だがニレイさんは、その記憶を掴みあぐねているようだ。

「俺は昨日の夢の中で聞いた」

 サキさんは、そう言った。

「俺は長い旅をしていた。魔物を狩りながら、暮れない空の下を歩いていた。道連れはセイくんの父上と、叔父上だ。ふたりとも若かった……君たちくらいの年頃だ」

  ふたりに自己紹介をされた訳でもない。

 でもサキさんには、それが父たちだと分かった。

「夢の中ではよく起こることだ。記憶も時間も、越えてしまう……俺たちは前からの親友のように、連れ立っていた」

 でもサキさんと昨夜の夢の中で一緒にいたのは、父たちじゃやない。

 ぼくと草四郎だ。

 ぼくらを先代と錯覚したのは、サキさんがミカさんを通してぼくらを見たからだ。

「そこには俺もいなかったか?」

 ニレイさんがサキさんに尋ねた。

 サキさんが頷いた。

「ええ……そうだ。確かに。あなたもいた。俺たちは同じ夢をみていた」

 五島万のふたりは、黄昏の夢の中で重なり合っていた。

 お互いの姿が見えないくらいに近くにいた。


 冬の夜明けは遅い。

 日はまだ昇らなかった。

 そしてしばらく、沈黙のときが続いた。

 長いため息。

 ついたのはサキさんだ。

 サキさんは床に積み上げられていた雑誌を手に取った。

「ニレイさんとセイくんに、謝りたいことがある」

 先月、サキさんは騒動を起こした。

 ひとりで短編を書き、五島万の名前で世に出そうとした。五島万の他のふたりに無断でだ。

 これは、その掲載誌だった。

 サキさんは、ぼくとニレイさんに深々と頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」

「よせよ。良い経験だった。谷くん、セイくん、もちろんアリアくん。きみを向こうに回して、我々の絆は強くなった」

 ニレイさんがニヤリと笑う。

 冗談めかした口調だ。だが腹を立てていないというのは本当だろう。

「ぼくも怒ってませんよ。驚きはしましたが」

 あの時は随分慌てた。

 でも過ぎたことだ。

 アリアも同じだろう。

 苦笑していた。でも怒っていない。

「でもどうして今、その件を切りだそうと思ったんだ?」

 ニレイさんが尋ねる。

「あの歌を聞いて、腹が座りました……やせ我慢を続けるのが馬鹿馬鹿しくなった」

 サキさんは、掲載誌をパラパラとめくった。

「恥だ」

 サキさんの表情は苦かった。

 ぼくたちをからかってやろう。

 そんな軽い気持ちで、サキさんはあの作品を書いたわけじゃない。

 いまの顔を見ればそれが分かった。

「五島万の中は心地よかった。この数カ月、ふたりとセイくんのお陰で、充実した時間を過ごさせてもらった」

 ニレイさんとアリアは、サキさんにとって最高のパートナーだった。

「五島万は終わりのある仕事だ。だからこそ全力でやれた。バカもできた」

 でも、そのうちサキさんはズレを感じるようになった。

「ふたりはダイヤモンド。俺は路傍の石だ。混ざりあえば、削れるのはこちらだ」

 違う。ぼくは思った。

 自分を過小評価するのは、この人の悪いクセだ。

 しかし摩耗を感じたというのは、本当なんだろう。

 小説家は優雅な職業ではない。

 この家に入って、ぼくもそれを知った。

 三人は汗をかきながら悩み、作品を作っている。

佐紀了次(サキリョウジ)という自分が削られ、五島万の中に埋もれていく……問題は、俺に焦りが無かったことだ。ふたりの才能に嫉妬するだけの、プライドの持ち合わせさえ俺にはなかった」

 小説は勝ち負けじゃない。

 それは分かっている。

 しかし……

「甘い痺れだ。自分をまるごと他人に委ねるのは。でも、このまま五島万に飲まれて、自分を失くして……俺はどうなるんだ?解散したあと、俺になにが残る?」

「だからあれを書くことで、五島万を壊そうとしたんですか?」

 ぼくが尋ねた。

「少し違う。俺は自分の手首にカミソリをあてて、横に引いた。五島万という幸せな夢から目を覚ますために」

 傷つけたかったのは、僕たちじゃない。自分だ。

 痛みをもって、自分を取り戻すためにサキさんはその短編を書いた。

 執筆中の記憶は無機質で白黒だ。

 書き上げた達成感もなかった。

「五島万の看板に泥を塗っちまった。どこをとっても、あれは俺の作品だ。浅く小器用で下衆で……」

 サキさんはそう自嘲する。

「悪くなかったよ。サキ先生の新作が読めたんだ。ファンとしては幸せだ」

 ニレイさんが言った。

「ありがとうございます」

 浮かない顔で、サキさんは礼を言った。

「でも俺の企ては失敗しました」

 今夜サキさんがぼくらの舞に見たのは、恐怖と歓喜だ。

 抑圧していた自分自身の内面だった。

「俺は弱い。これまで積み上げて来たものなんて、風の前の塵に同じだ」

 サキさんの心は、ミカさんに侵され、暴かれた。

 自己と世界を隔てる壁は、ミカさんの力で融解し、三人の五島万はひとつに繋がる。

 自分を失う恐ろしさ、他人と心を交わす喜び。

 サキさんはミカさんを通して、それを味わった。

「今日は夢を通さずに、君たちの神様の一端に触れた。夜の闇が一層深く感じられた」


 そして、サキさんは小さく笑った。

「でも倒れたままではいられない。俺は俺だ。弱い俺だ。三文文士のみっともない俺だ。誰に、神にだって、侵させるものか」

 自分に言い聞かせるように、サキさんは唱える。

 大丈夫だ。この人はもうひとりで立ち直っている。

「セイくんのことは、いつかまた書きたいな。今度は真っ直ぐに……復讐戦だ」

「復讐ですか?」

「きみの神様に一撃食らわせてやりたいのさ。俺のペンの力で。そして君を救い出す」

「ぼくを、ミカさんからですか?」

 生まれたときから、ミカさんはぼくの側にいる。

 そしてぼくはミカさんのために舞う。

 それがぼくにとっての当たり前だった。

 ミカさんに捕らわれているなど、思ったことはなかった。

「ずっとそうだった。ここにいながら、きみはずっと遠くを眺めていた。そしていま向こう岸へと渡ろうとしている……」

 サキさんは、ぼくらが危うさを知っている。

 黄昏の世界は、夢と現実そして生と死の狭間にある。人の力の及ばない場所だ。

 でもぼくらは行かないといけない。

 目を手に入れ、”マ”を祓うために。

 父のやり残したことを終わらせるために。

 ぼくらは五島万を守るために、ここにきた。

 そうだった筈なのに。

 逆に彼らを傷つけてばかりいる。

 謝らなければならないのは、ぼくのほうだった。

 でも、サキさんは優しくぼくに笑いかける。

「イザとなったら、君の背中にすがって爪を立ててやる。『行かないで』ってさ。みっともない女みたいに」

 そしてサキさんは言葉を続けた。

「俺は平凡な男だ。だから作家になったんだ」

 無頼と呼ばれる作家も同じだ。全ての小説家たちは、人生を誠実に生きる凡人ばかりだ。

 それがサキさんの持論だ。

「小説家は、どこまでも人間でないといけない……だからセイくんも草四郎くんも小説家になれ」

「なんでそうなるんですか!?」

「セイさんはともかく、なんでぼくまで……」

 草四郎も、サキさんの提案には頭を抱えた。

「あっちの世界になんていくな。ここにいろ」

 子どものように、サキさんはすねた顔になる。

 思わず笑ってしまった。

「俺もサキくんと同じ気持ちだよ」

 ニレイさんが、ポンとサキさんの肩に手を置いた。

「君たちを失いたくはない。アリアくんが泣くからね」

「俺も泣いちゃうぞ」

 サキさんが口を挟んだ。

「俺の心が必要なら、いくらでも使ってくれ……助けになりたい」

 ニレイさんが言った。

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