表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花とペン  作者: 井上マイ
41/68

41.

 

 今宵のぼくらの装束には、香が染み込ませてあった。

 普段使う、まろやかな香りではない。

 何種類かの葉を燻した、目の覚めるような青い匂いだ。

 だがその強い香りを打ち消す悪臭が、庭に立ち込めていた。

 明かりなどなくても、発生源は分かる。

 柿の木の根元。

 そこに埋めた蝶の死骸の臭いだ。


 谷さんは、この場に姿を見せなかった。

 しかしウサギの面を付け、どこかから必ず見ているだろう。

 臭気が、針となって神経を指す。

 だが集中を乱してはいけない。

 演者であるぼくらにも、曲の終わりは分からない。

 ミカさんが全てを決める。

 その時がくるまで、草四郎は奏でぼくは踊るのだ。

  ニレイさんは、黙ってぼくらを見守っていた。


「始めようか」

 簡単にそう切り出した。

「……」

 草四郎がこくりとうなずく。

 ぼくは足を広げ構えた。

 今日は扇は手にしない。

 草四郎が笛に息を吹き込む。

 その特別な音は、隣にいるぼくの耳にさえ届かない。

 常ならば、ぼくを導くのは草四郎の笛だ。

 だが、今日は違う。

 草四郎の呼吸と、ぼくの足の運び。

 ふたりの動作を、息を、鼓動までをも重ねる。


 ミカさんは既に姿を現している。

 今夜ミカさんに供されるのは、特別な香りと舞だ。

 ミカさんの様子もふだんと違った。

 今夜のミカさんは、絶えず揺らいでいた。

 その象を次々と変えていく。

 ぼくに寄り添う鳥になったかと思えば、草四郎のミカさんである子馬に転じる。

 猫、童、貂……

 当代の、そして歴々のアガミの術士に寄り添う姿に変化していった。

 いつかの夢の舞台の再現だ。

 ぼくと草四郎はこの一曲の間に、アガミの時を巡っていく。

 そしてミカさんは姿を消し、また現れる。

 それを繰り返した。

 ストロボを焚いたようだ。

 ミカさんは強力な光源だった。

 ぼくらも、ニレイさんもこの場所にある全てをミカさんは照らした。

 夜の輪郭が鮮烈に浮かび上がる。

 そして歌が響き渡る。


『--ーー』

 ミカさんから発せられるそれは、常人にはに聞えない音。

 しかしそれは風を呼び、空気を震わせる。

『 トゥラトゥラ、ラララ…』

 響は段階を踏んで、力強くなっていく。

 ミカさんの歌を文字に起こすことはできない。音階に直すことも、人の口で真似ることもできない。

 ぼくらはそれを、耳だけで聴くのではない。

 空も地面も、ここにいるぼくらも、ミカさんの歌に飲み込まれていく。

 心と体が揺さぶられる。

 ミカさんの歌、草四郎の笛が混じり合う。

 ぼくもそこに加わった。

 それは音曲ではなく対話だった。

  ぼくらが問い、ミカさんが答える。

 黄昏の世界のミカさんは五島万の姿を借り、人の言葉で話す。

 いまここで聞こえる歌こそが、混じり気なしのミカさんの声だ。

 感覚と知性。持てる限りの全てを使って、ぼくらはミカさんの言葉を読み解かねばならない。

 今日は三人だけで、話すのだ。


 黄昏な夢の中で一度、同じ感覚を味わった。

 現実に身を置きながらも、今ぼくらは境界を超える。

 自重は喪失する。

 ミカさんの歌に飲まれ、ぼくはぼくでないものに変わっていく。

 肉体は、夜の闇に溶けていく。

 意識は鮮明だ。

 笛を吹く草四郎も、縁側のニレイさんも見えていた。

 視覚、聴覚、触覚……五感がかつてないほどに研ぎ澄まされる。

 未だ姿を見せない、谷さんの視線すらも感じるほどに。


 そしてまたひとり、観客が現れた。

 サキさんだ。

 サキさんは、庭の入口に佇んでいた。

 母屋の明かりはここまでは届かない。

 懐中電灯は切っている。

 塀の向こうの通りから僅かに届く、常夜灯の光。

 そして月。

 明かりはそれだけだ。

 サキさんの表情はみえなかった。


 鳥の姿をしたミカさんは、ゆっくり旋回し踊るぼくを見下ろす。

 そしてまた子馬に姿を変え、笛を吹く草四郎に歩み寄る。

 夢の中のミカさんは人の姿を借りている。

 しかしいまこの時の方が、表情が豊かに見えた。

 その歌に乗せられた思いは、喜びだ。

 ミカさんが笑っているのが分かる。

 ミカさんは、踊りと笛を楽しんでいた。

『ルカルカルカーールルルーー』

  まだその歌声の中に、言葉を見出すことはできない。

 答えの出ない、この時間が続けばいいのに。

 不覚にも思った。

 ぼくは怖い。

 ミカさんの言葉に触れることが。

 ミカさんには分からないのだ。自分が無邪気に発する言葉が、どれだけの重みを持つのかを。

 予言は、人を狂わせる。

 未来のきざはしを掴んだとて、人の力ですべてを思うままにできるわけも無い。

 それでも、ぼくらはいまミカさんの言葉を必要としている。


 ゆったりとした舞だった。

 単調とも思える足さばき。

 動作も少ない。手先は動かさない。

 しかし、ぼくはいつになく激しさを感じた。

 体も心も、ミカさんの歌に、底から掻き回され翻弄されている。

 動じてはいけない。

 想像してはいけない。

 舞に己を持ち込むな。

 そう、教えられてきた。

 闇から生まれた異形は、人の心の弱さを付く。

 ミカさんのために踊るには、自分を殺すことが必要だった。

 だがその戒めさえも、この歌に押し流されていく。

 すべての鎖は外れ、自分が解放されていくのを感じる。


 ぼくは、ちゃんと踊れているのだろうか?

 倒れて、もがいているんじゃないか。

 しかしそれは、錯覚だと分かっている。

 ぼくの足の運びも、草四郎の笛も、僅かも乱れていない。


 そして一転、静寂が訪れた。

 ミカさんも、草四郎も、見物をする三人の気配も消えた。

 ぼくが庭の土を踏む音も、弾む息も、衣擦れも、鼓動も。

 一切の音が消えた。

 世界が終わってしまったようだった。


 青い蝶が舞っていた。

 ぼくが柿の木の下に、埋めたはずなのに。

 いつの間に息を吹き返したのだろう。

 穢れはミカさんによって祓われていた。

 鼻をつくような臭いも消えていた。

 夜に飛ぶ蝶は、鬼火のように見えた。

 終わってしまった世界で存在しているのは、ぼくとその蝶だけだった。

 やがて、世界の輪郭さえも溶けていく。

 そしてすべては混沌へとーーー


 圧倒的な孤独。そして恐怖が襲ってきた。

 ぼくは声をあげて、助けを呼んだ。

「ーー!ーー!」

 だが吐き出した息は、つぶやきにすら変わらない。

 脂汗がにじみ出る。

 ”セイ、うるさい”

 その時、ミカさんの声が聞こえた。

 その声は耳元よりも、もっと近い場所で響いた。


「セイさん……セイさん!」

 切迫した草四郎の声。

 肩を揺すられて、我に返った。

「大丈夫。足がもつれただけだ」

 ようやくそれだけを答えた。

 巫舞は終わった。

「……ミカさんは、なんと言っていましたか?」

 草四郎は、思い詰めた顔をしていた。

「ぼくにはミカさんの声が聞こえなかった……いや、理解が及びませんでした」

 ぼくは草四郎を宥めるように、笑い顔を作ってみせた。

「こちらも同じだ。でもミカさんは喜んでくれた」

 それで十分だと思った。

 ぼくが聞いたミカさんの言葉は、神託などではなかった。

 ”セイ、うるさい”

 そのひとこと。文句だけだ。

 でも、ようやくミカさんは、ぼくの名前を覚えてくれた。


 突然、頭上から影が迫ってきた。

「うわっ!」

「な?!」

 ふたり揃って尻もちをつくところだった。

 音もたてず、地面に降り立ったのは谷さんだ。

 安物のウサギの面が、暗闇に浮き上がってみえる。

 この場ににいる、五島万のふたりの目をはばかる様子もない。

 堂々と、術士としての姿を晒していた。

 アリアの暮らす練習室の屋根の上は、特等席だ。

 夜目の聞く彼は、そこからぼくらのことを俯瞰していたのだろう。

「教えろ。何を聞いた」

 低く静かな声。

 両目がギラギラと光っていた。

「……」

 ぼくも草四郎も言葉に詰まる。

 空手で終わったなどと、言い出せる空気ではなかった。

「頭。そう聞こえた」

 思わぬところから、声がかかった。

 ニレイさんだ。

「なるほど、なるほど……」

 堪えきれないという風に、谷さんは含み笑いを漏らす。

 ニレイさんが伝えたたった一語。

 それを谷さんは、舌なめずりして迎え、噛み砕き味わう。

「起こりはみえた。だがまだ足りない」

 そして、谷さんは庭の入口に目を向ける。

「サキ先生、こちらに来てください」

 谷さんはサキさんを呼ぶと、端的に尋ねた。

「貴方は何を聞きましたか?」

 谷さんは、サキさんがミカさんの声を聞いたと確信しているようだった。

 サキさんは、長いため息をついた。

 答えることを躊躇っている。

「人の名だった……だが、それを聞いて君はどうする?」

 谷さんは殺気を、まるで隠さない。

「あなたには関わり合いのないことだ」

 谷さんは、サキさんの問いを跳ね除けた。

 聞かない方がいい。ぼくもそう思う。

 五島万の二人は、本来ぼくらとは別の世界に住むひとたちだ。

 今更手遅れかもしれないが、これ以上深みに誘いたくはない。

「同じことです。貴方がここで教えなかったとしても、別の方法で必ずそれを見つけ出す」

 谷さんは月を仰ぐ。

 黄昏の夢に現れた、呪術をまとった蝶。

 その向こう側には、悪意を持つ生身の人間がいる。

 そして谷さんは、サキさんにつかつかと歩み寄る。

「谷さん、落ち着いてください!」

 ぼくはふたり間に割って入った。

「……」

 ぼくを無視して、谷さんはサキさんを見すえる。

 そして谷さんは、ひとつの名前を囁いた。

「聞こえたのはこの名でしょう?貴方は首を縦に振るだけでいい」

 谷さんの問いかけに、サキさんはしっかり意志を込めて頷いた。

「これできみは満足か?」

「ええ、お手間を取らせました。あとはこちらの領分です……失敬します」

 立ち去ろうとする谷さんの背に、サキさんが声をかける。

「こんな夜中にどこに行くんだ?」

「あなたには、関係のないことですよ」

 谷さんは足を止める。しかしサキさんの方に、振り返ろうとはしなかった。

「こちらは他人事と思ってないんだ。俺を突き離そうするな」

 サキさんのその言葉には、怒りがこもっていた。

「君のことが心配なんだ」

「心配……?」

 サキさんの言葉に、谷さんは虚をつかれた様だ。

「君と俺は友達だろうが」

「ありがとうございます」

 谷さんは素直に礼を言った。

 先ほどまで振りまいていた、殺気は消えていた。

 そして谷さんは行ってしまった。


 谷さんが囁いたのは、光神に連なる家の名なのだろう。

 古くから続く家には、家紋の他にも定められた印がある。

 色、星、香り、方角、獣、虫……すべて固有のものが決められている。

 ニレイさんが聞き取った『頭』という単語も、その家に関わるものなのかもしれない。

 立ち去る谷さんを、ぼくと草四郎は止めなかった。

 ミカさんは、五島万のふたりを通して谷さんにそれを告げた。

 ミカさんの言葉は、確定事項だった。


 ぼくは立ち尽くすサキさんに、声をかけた。

「風が冷たいですね。家の中に戻りましょう」

「ああ」

 サキさんがうなずく。ため息にも近い声だった。

 ニレイさんは、いつの間にかいなくなっていた。

 彼の座っていた縁側には、灰皿と空のコップだけが残されていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ