40.
目覚めると枕元には、畳まれた懐紙があった。
夢の世界で草四郎の手にあったはずのそれが、なぜか現実のぼくの部屋にあった。
どうやって持って帰ってきたのだろう?
懐紙に耳を寄せてみる。
わずかな羽音も聞こえない。
だが、蝶はいなくなったりはしていない。
蝶が発する、その臭いは消えていなかった。
腐った肉を煮込んで、鉄の粉を振り込んだような悪臭だった。
「おお、早いな」
玄関口で、配達されたばかりの新聞を持ってきたサキさんとすれ違う。
夜型の彼にとっては、早朝のこの時間は宵の口だ。
ドキリと心臓が震えた。
先程の夢の中で、サキさんの顔を見たばかりだ。
もっとも、その正体はミカさんなわけだが。
しかし姿を借りられたサキさんにも、何かしら伝わるものがあるはずだった。
自然とぼくの視線は、サキさんの右手に惹きつけられた。
大丈夫だ。
そこにはなんの傷もなかった。
そして、先日のこともわだかまったままだった。
無断でサキさんひとりの作品を、五島万のものとして発表しようとした件だ。
結局、サキさんから切り出されることもないまま、日が経っていた。
「おはようございます」
「……ん?何を持っているんだ?」
サキさんは、術士ではない。
だが、ぼくの手にあるものの異質さを感じたようだ。
「子ネズミが廊下の隅で死んでいたんです。これから庭に埋めてきます」
ぼくはサキさんの目の前で、懐紙を振ってみせた。
ギャッと大げさに叫んで、サキさんは飛びのいてみせた。
柿の木の下に、スコップで浅い穴をほった。
懐紙をそこに埋める。
ようやく臭いが和らいだ。
化生の残骸は決められた手順で清めるべきだ。
これは間に合わせの処置だった。
昼頃、草四郎から電話があった。
夢に潜った翌日は、必ずぼくの無事を確認するために連絡をよこす。几帳面なやつなのだ。
ぼくは枕元にあった蝶の事を話した。
すると案の定、草四郎は唸り出した。
「十分後に折り返します。そこを離れず、待っていてください」
こちらに有無を言わせぬ口調。
叩きつけるほんの手前の勢いで、受話器が置かれる。
八分半後に電話のベルが鳴った。
こちらが受話器を取るやいなや、堰を切ったように話しだした。
「二日後、新月の晩に巫舞 (ふぶ)を行いましょう」
草四郎の言葉に息を呑んだ。
不意をつかれた。
「ぼくとお前のふたりでか?」
「孝三叔父には話しを通しておきました。賛成してくれましたよ」
いったん電話を切ったのは、叔父に電話をかけるためだったようだ。
「どこでやる?」
「そちらへお邪魔させていただきます」
草四郎はすでに覚悟を決めているようだ。
巫舞は、ぼくらがいままで行ってきた舞とは異なる。
ミカさんの力を借りて、”マ”を祓うための舞ではない。
ミカさんを術士に、降ろすための舞だ。
悪しき念をまとった蝶を、黄昏の世界に送り込んだのは何者なのか。
それを知るために、ミカさんに伺いを立てる必要があった。
黄昏の世界のミカさんは、五島万の口を借りて話す。
どうしても、そこにはノイズが混ざる。
100%混じり気のない、ミカさんの歌を聞くために必要な舞。
それが巫舞だ。
ぼくら二人に巫舞の経験はない。
うまくいくだろうか。自信はなかった。
だが草四郎に迷いはない。
「障害物の正体は知っておかないと。あの世界で先に進むためにもね」
巫舞を行うのは、月光が輝く深夜だ。
草四郎をその時間に、このホスピタルに引きいれておかなければならない。
そして問題はアリアだった。
彼女には、ホスピタルの外に出てもらった方がいい。
アリアにはミカさんの姿が見える。声も聞こえる。
不慣れなぼくらの踊りが、どんな効果を産むか分からない。
彼女を階段から落とした前科もある。
また、アリアを怯えさせるようなことは避けたい。
ホスピタルで神楽を行いたい。
事情を知っているニレイさんには、昨晩の夢で手に入れた蝶のことを話した。
それで分かってくれた。
そしてサキさんの説得も簡単だった。
不自然な死に方をしていたカラスに、季節を違えて実を付けた柿の木・・・・・・ホスピタルに起こった怪異。
ぼくたちは神職ではない。しかし真似事だがお祓いをしておきたい。そう言った。
「へー、面白そうだな。で、同居人の俺も同席した方がいいのか?」
「おススメしません。夜に庭でやるんです。凍えちゃいますよ」
「それもそうだな」
ぼくの答えに、あっさりとサキさんは引き下がった。
「ところで、草四郎くんの好物はなんだい?」
ニレイさんの質問の意味がわからず、ポカンとする。
「え?あいつは、何でも食べますよ」
草四郎はいわゆる痩せの大食いだ。
細かい味なんて関係ない。
米をたらふく食わせておけば、ご機嫌だ。
「一人暮らしの草四郎くんには、栄養のあるものを食べさせてあげないと」
ニレイさんが、お節介おばさんのようなことを言った。
まったくマイペースな人だ。
最後はアリアの説得だ。
「それで、セイさんたちの気が済むのなら」
アリアは思いっきり眉をしかめて、そういった。
快く応じてくれたわけではない。
アリアがこのホスピタルに落ち着いて一年。外泊など、一度もしたことがないはずだ。
アリアはとにかく外に出たがらない。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「私がどこに行こうと関係ないと思うけど……どこで寝ても夢は見るもの」
アリアの視線の先には、ぼくの肩に乗る鳥のミカさんがいた。
「ぼくがまた、夢にお邪魔しましたか?」
最近あの夕暮れの世界で、完全な姿のアリアを見かけることはない。
「さあね」
アリアは答えてくれなかった。
「準備をしないと。大きなカバンを持ってきて。字引は向こうにもあるけど、自分のを使いたいから」
アリアは、あのウナギの寝床の仕事場に泊まるつもりらしい。
「もっといい所に泊まりましょうよ。仕事は休んで、のんびりしてください」
アリアは働きすぎだ。
そもそも仕事と生活の境い目がない。寝ている時間以外は、ずっと書いているか読んでいるかだ。
「余計なお世話」
案の定、そんな返事が返ってきた。
「おすすめの場所があるんです。そこに行けば、きっと悪い夢は追ってこない」
とっておきの心当たりがあった。
「もちのロン!大、大、大、大歓迎だよ!何日でも泊まっていって。何だったら、ウチに住みなよ」
本日も遊びにやってきたカナに頼んでみれば、予想以上の好反応だ。
当日を待たずして、アリアを家に連れ帰ってしまいそうな勢いだ。
カナはコウガミの総領娘だ。
ミカさんの傍若無人な力も、谷家の軒下までには及ぶまい。
「あ、ありがとう」
カナの勢いに、アリアはタジタジだ。
「でも、仕事もあるし……その日の夕方お邪魔して、朝には帰るから」
遠慮をするアリアを、ぼくが遮った。
「執筆スケジュールは常に前倒しです。一泊どころか、ひと月休暇を取っても大丈夫ですよ」
「ちょっと、セイさん…」
「やったー」
カナはガッツポーズをみせる。
「たくさん、たくさん遊ぼう」
カナの目がキラキラ輝いていた。
「私一押しのバンドのビデオを見て、お夕飯のカレーも一緒に作ろう!同じ部屋でお布団並べて、朝までお喋りしようね!」
「う、うん」
カナに押し切られる形で、アリアのお泊りが決まった。
「なに?アリア君が外泊だと」
話を聞いたサキさんまでが、ソワソワし出した。
「先方に失礼があってはいかん」
うちの子がお世話になります。サキさんはさっそく谷家に電話を入れた。
入念に手土産も選ぶ。
「保険証のコピーを持っていけ。念のためだ。着替えも余分に入れておきなさい」
サキさんのせいで、一泊なのに随分な大荷物になった。
「やっほー、アリアちゃん迎えに来たよ!」
当日は土曜日だった。
午前中で学校を終えたカナが、荷物も置かずにやってきた。
「うわ!アリアちゃん、随分と可愛い格好してるね」
「……サキ君が着ろっていうから」
照れたアリアが、ふいっと横を向いて答える。
本日のアリアは、普段の外出着である事務員姿ではない。菫色のワンピースを着ていた。靴も一緒に、サキさんが昨日アリアを百貨店まで引っ張っていって揃えたものだ。襟にポンポンの付いたコートを合わせている。
「すっごく、良く似合ってる」
「あ、ありがとう」
カナの言葉はにかみつつも、アリアは嬉しそうだ。
そもそもは、ぼくらのとばっちりだ。
しかし、なんだかんだ友達の家へのお泊りを楽しみにしているようだった。
そして、谷家の運転手付きの車が迎えに来た。
「向こうに着いたら、必ず電話するんだぞ」
出発するアリアに、サキさんは最後のお節介を投げつける。
「うん」
アリアは素直な返事をして、出発していった。
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「このたびは私めのために、結構な会を開いていただきまして。ありがとうございます」
谷さんが、恭しく頭を下げてみせた。
今日の会の名目は、谷さんの快気祝いだ。
谷さんの腕のケガはとっくに治っている。
まぁ理由などなんでもいいのだ。ワイワイ騒ぎたいだけだ。
谷さんは、両手に土産を抱えてホスピタルにやってきた。
「おお、いい酒だな」
受け取ったニレイさんは上機嫌だ。
手ずから、とっておきの切子のグラスを出してきた。
「飲みたまえ」
谷さんのグラスになみなみと酒を注ぐ。
「ありがとうございます」
谷さんはそれをグイと飲み干した。
さて、その傍らでぼくが草四郎を従え、せっせと餃子を包んでいる。
流し台には下ごしらえを終え、揚げるばかりになった鳥の唐揚げとコロッケが乗っている。鍋の中には半日かけて煮込んだ角煮が入っているし、冷蔵庫にはポテトサラダも用意してある。餃子の調理が終わったら、ちらし寿司を仕上げる予定だ。
「上達したな。俺に出来損ないのオムライスを食わせたのも、遠い昔だ」
しみじみと谷さんがつぶやく。
「谷さんにいただいた、料理本のおかげですよ」
まぁ三食の食卓を任されていれば、誰だってこのくらいはできるようになる。
「味は可もなく不可もなくですが」
余計なこといった草四郎を、ぼくは睨みつけた。
「まだまだ伸びしろがあるといえ!」
しかし、ぼくの作った料理は添え物に過ぎない。
メインは肉・肉・肉。
焼き肉だ。
ニレイさんが、肉屋のケースを空にせんばかりに買い集めてきた。
「さて、俺もお手伝いさせていただきましょうか」
「じゃ、このエプロンどうぞ。あ、手を洗ってくださいね」
グラスを置いた谷さんに、遠慮なく用事を言いつける。
谷さんはもちろん、ぼくと草四郎が今晩何をするのか知ってやって来た。
夜半にぼくと草四郎は巫舞を行う。
しかし今晩の卓上に並ぶのは、酒に肉だ。
料理にはたっぷりと、ニンニクにニラも使われている。
ふだんアガミの仕事で舞うときは、身を清めて酒も断つ。
うちのミカさんは実際、そんなことどうでもよいと思ってそうだ。
だが、我々術士はそうではない。
神事には、身も心も引き締めて臨みたい。
だが今回はその自主規制を、大いに破ることにした。
やけを起こしたわけではない。
精をつけ、助走をつけて、高く飛んでやろうという意気込みだった。
いい機会だ。
そう言ってニレイさんは、谷さん以外にも客を招いた。
このホスピタルには普段、人嫌いのアリアがいる。
ホスピタルに訪ねてくるのは、谷兄妹と草四郎くらいなものだ。
こういう時でもなければ人を呼べない。
「お邪魔しますー。うわー、雰囲気ありますね」
「広いですね。ここで共同生活されてるんですか」
ガヤガヤとやってきたのは、五島万を担当する各社の編集者たちだ。
小説家は呼ばなかった。サキさんが興奮して倒れてしまう。
「セイくんのバンド仲間も、呼んでやれば良かったな」
ニレイさんの言葉に、ぼくは苦笑いをする。
「またの機会があったらお願いします」
きっと彼らは喜ぶだろう。
思った以上に人が集まった。
待合室にも座卓を出して対応した。キッチンも奥の客間も、満員御礼になった。
客はみんな手土産を持ってきた。酒に肴。食卓はますます賑やかになった。
ぼくと草四郎は、ロクに飲み食いをする間もなく、お酌に給仕にと立ち働いた。
余興をやれと言われて、ぼくはドラムを叩き、草四郎は笛を吹いた。
ぼくは客のひとりに頼まれて、アマチュアバンドの助っ人に入ることになった。グループサウンズのコピーバンドらしい。
草野球チームにも誘われた。
ぼくは弟と違って、野球経験がないのだが。
一方の草四郎は、雑誌モデルにならないかという誘いを丁重にお断りしていた。
同じスカウトでも、ぼくとはえらい違いだ。
「まったく、ニレイさんの気まぐれにも困ったものだ」
さて、サキさんは隅っこの方で大人しくしていた。
下戸で内弁慶。騒がしい場は落ち着かないらしい。
しかしサキさんは寂しがり屋だ。無視を決め込んで、自分の仕事部屋に閉じこもってしまう踏ん切りもつかない。
そんなサキさんを、ニレイさんが壁際から引っぺがした。
「俺のこの若いのは、すごいんだぜ。五島万の屋台骨だ。それに、ここで終わる男じゃない。未来の大文豪だよ」
ニレイさんは誰彼構わず捕まえて、サキさんをほめちぎって聞かせた。
ニレイさんなりの気遣いだ。
五島万が解散した後も、筆は立つが何かと不器用な相棒がやっていけるように。と、売り込みをかけているのだ。
「やめてくださいよ。恥ずかしい」
サキさんは酒も飲んでいないのに、真っ赤になって慌てていた。
十時ぴったりに散会となった。
タクシーを呼んで都心方面に向かった連中は、どこかで二次会を開くのだろう。
「やれやれ、これでやっと仕事に戻れる」
サキさんは自室に戻っていった。
なんだかんだ言って、彼もこの会を楽しんだのだと思う。
「時間になったら起こしてくれ」
ニレイさんは着の身着のまま、待合室の床に寝そべった。
主賓の谷さんも、よほど飲まされたのかキッチンテーブルに突っ伏して軽いいびきをかいている。この人は、このまま起きなきゃいいのに。
ぼくは酒とニンニクの混じった息を吐きながら、草四郎と一緒に黙々と後片付けをこなした。
午前三時、ぼくと草四郎は連れ立って庭に降りた。
「ここから見ている」
ニレイさんは縁側に座った。
どてらを着込んで、灰皿と温かいお茶も用意している。
ニレイさんに草四郎が注意事項を伝えた。
「今日の神楽は特別なものです。見ている最中に気分が悪くなったら、目を閉じて深呼吸。じっと動かないでいてください」
「随分脅してくれるじゃないか。君らの踊りで、なにが出てくるんだい?」
ニレイさんが尋ねる。
「今は丑三つ時です」
ぼくは答えた。
土の匂い。
空気は乾きしんと冷えていた。
人も、草木さえも眠っている時間だ。
「ぼくらの舞は、いろんなものをすくい揚げ、映すんですよ」
例えば人の心の影だ。
ときには心に秘めた欲望や、恐怖さえも現れることがある。
「楽しみだ」
ぼくの言葉を信じたのか信じていないのか。ニレイさんはくつくつと笑った。
照明は懐中電灯の明かりだけだ。
草四郎は笛をかまえた。
しかし、今宵は人の耳に届く音は奏でない。
これはミカさんにだけ届く曲だ。
巫舞の音曲を伝え聞いたのは、昨日のことだ。
草四郎と本家に出向き、当主から習い覚えた。
曲自体は単純なものだった。
しかし口伝えができるのは、枠までだ。
あとは、実際に舞ってみるよりはない。
体が重く感じるのは、数時間前の宴席のためではない。
ぼくらは、またひとつ境目を超える。
ミカさんの言葉をぼくら自身に降ろすのだ。
この舞を踊ることで、人ならぬものの世界に足を進める。
今から十五年以上前のことだ。
父と孝三叔父も、巫舞を行った。
巫舞は成功し、彼らはミカさんから言葉を賜った。
そして父たちは禁呪を用いて、強大な”マ”に刃を向けた……
ミカさんは穏やかな神だ。
争いは、ミカさんの言葉から出たものではなかったはずだ。
父は自分の意思で、ミカさんに逆らった。
そして死へと追いやられた。
生き残った孝三叔父は、その時のことを決して語ろうとしない。
ミカさんはぼくたちの守り神だ。
しかしミカさんが守るのは、アガミという大樹だ。
木は残る。しかしいくらかの枝は落ち、花は散る。
ミカさんは、ぼくの名前をおぼえない。
長い時を生きるミカさんにとって、術士ひとりひとりは小さな花に過ぎない。
それに、ミカさんの言葉は点ではない。
川の流れだ。断ち切ることなどできない。
せき止めようとしても、どこかで溢れてしまう。
父も孝三叔父も、それが分かっていたはずなのに。
父はミカさんの歌を読むことに長けていた。
アガミを守るために散りゆく花。
その中に、父は未来のぼくや弟のエイの顔をみたのかもしれない。
だから逆らい、足掻いた。
そして今夜、その時の予言の続きをぼくらは聞くのだろうか。
まもなく、その答えが出るだろう。




