38.
のっけから信じがたい単語が、目に飛び込んできた。
一語ではない。次から次へとだ。
「……これ、本当にサキさんが書いたんですか?」
「うるさい。黙って読んで」
アリアはむっつりと言った。
ぼくは原稿を一旦置いて、目をゴシゴシこすった。
だが何度見返しても、内容が変わるわけがない。
『読めば分かる。』
先ほどアリアが言ったとおりだ。
なるほど。
こんな作品が世に出るわけない。
読み始めてから、一分でそれを理解した。
「この主人公の女の子が、いやまさか……」
ぼくはうめき続けた。
「違うと思いたいんですけど……これが、この子が、アリアさんだって言うんですか!?」
驚きの次にやってきたのは、悪寒だ。
正気の沙汰ではない。
サキさんは、なんていうものを書いたんだ。
冗談じゃない。まったく笑えない。
「くどい。さっき言ったでしょう。私がモデルだって」
そう。ヒロインの名前は、そのまま”ありあ”ちゃんだ。
それはポルノ小説だった。
ひとりの少女と半ダースの男たちが、くんずほぐれつすったもんだ。
まともな筋などない。ただそれだけの話だ。
ただただ、どぎつくて、下品で安い場面が並ぶ。
ため息を押し殺しながら、ページを捲った。
前半のそれは演出で、あっと驚くような逆転が起こる。
その期待があったからだ。
ぼくが原稿を読んでいる間も、アリアは自分の仕事を続けていた。
部屋の端で時折うめき声をあげるぼくの存在など、もう気にも止めていなかった。
ぼくの集中力は、アリアに遠く及ばない。
三分の一程読み終えたところで、力尽きた。
後ろから十枚目のページを開く。
ぼくが願った逆転劇は、ついぞ起こらなかったようだ。
「ギブアップです」
ぼくはついに原稿の束をおいた。
「お疲れ様でした」
そこでアリアも仕事の手を止めた。
疲れ切ったぼくを見て、そんな言葉をかける。
感想は聞かれなかった。
分かり切ったことだからだ。
ぼくはアリアに尋ねた。
「ニレイさんも、この原稿の存在を知ってるんですか?」
「サキくんが自分で伝えた。だから、おっちゃんも知ってる」
自分で伝えたのか。サキさんは露悪趣味が過ぎる。
「なんでニレイさんはサキさんを、この家から叩き出さなかったんですか?」
信じられない。
「現実は現実。小説は小説。セイさんもさっき言ってたじゃない」
「さすがに、これは問題です」
低俗すぎる。
しかも出来も最低だった。
威勢が良かったのは、最初の2シーンまで。
あとは、ダラダラとした下り坂だ。
ポルノ小説とは、実用的で楽しいものではないのか?
しかしこの小説は、ひたすら辛く、もの悲しい。
サキさんも愉快な気持ちでこれを書いたとは、思えない。
脂汗をダラダラかいて、苦しんでしぼり出したに違いない。
筆は迷いに迷っていた。
最後まで書き上げ、形にしたのはサキさんのプロとしてのプライドだ。
途中で読むのを投げ出したぼくの為に、アリアが解説してくれた。
「終盤はもうメロメロ。”ありあちゃん”のオッパイの大きさが、場面が変わるごとに大きくなったり、小さくなったり。官能小説のくせに、バタバタ人が死ぬし」
「アリアさんは、これを最後まで読んだんですか?」
「三回読んだ」
驚きだ。大した根性だ。
作者のサキさんですら、投げっぱなしで推敲すらしてないだろうに。
「ぼくはもうたくさんです。10万円もらっても、続きを読むのは嫌だ」
これ以上、読み続けたら神経が焼き切れてしまう。
「少しは興奮した?」
アリアの問いかけに、ぼくは首をちぎれるほどに横に振った。
「まさか」
官能小説としてつまらない。それに加えて、いま目の前にはモデルになったアリアがいるのだ。
この状況で興奮できる人間がいたとしたら、そいつは頭がおかしい。
「谷さんにも、今度読ませてみようかな」
「やめてあげてください」
無駄なことだ。全ボツをくらうに決まってる。
「一体全体どうしてサキさんは、こんなものを書いたんですか?」
改めてアリアに尋ねた。
今回のぼくに対してのちょっかいとは、また質が違う気がする。
「サキくんは自分に打ち勝つために、書いたんだって」
「はぁ?」
予想外の答えが返ってきた。
「ペンの力で、自分の煩悩を払おうとしたの」
「つまり、アリアさんへの邪心を失くすために、これを書いたってことですか」
「そういう事」
アリアは美少女だ。
彼女と同居開始に当たり、サキさんは葛藤した。
彼女はただの若い娘じゃない。
アリアには作家としての才能がある。
小説家は世の宝だ。
サキさんは、腹の底からそう思っている。
その宝物である少女は、とても儚く映った。
もちろん自制はするつもりだ。
しかし万が一のことが起こっては大変だ。
自分の欲にまみれた手で触れて、宝物を傷つけるわけにはいかない。
だからサキさんは、これを書いた。
とびきり下品に、粘着質に。
アリアへの欲望を、すべてこの原稿に落とし込んで封じてしまうのだ。
「……で、サキさんのアリアさんへの性欲は、最初の20ページで尽きてしまったわけですか」
「まったく、失礼しちゃう」
アリアは一応そう言った。が、まったく残念そうではない。
しかし、なんでアリアはこんなものを取っておいたんだ。
こんな原稿、完成したその日に焚つけになれば良かったのだ。
「これは穴でも掘って埋めておきましょう。万が一、人目に触れでもしたら大変ですから」
「せっかくサキ君が一生懸命書いたんだもん。どこかで使えない?」
「無理です!」
「独創性はあるんだけどね」
アリアはこの原稿と比べるため、手に入る限りの官能小説を手に入れて読み漁った。
キオスクで売られているようなものから、『O嬢の物語』『カサノヴァ回想録』といった古典名作まで、きっちり150冊。
「面白かったですか?」
「非常に勉強になった」
アリアは真面目な顔でそういった。
「セイさんは、ふだん官能小説を読んだりする?」
「いえ、あまり」
「今度、私のおススメをおしえてあげるね」
「そりゃどうも」
モゴモゴぼくは礼を言った。
「ポルノ小説は俳句と同じ」
アリアは、本物の俳人が聞いたら怒り出すだろう持論を展開した。
「まるっきりの定型詩。必ず季語……決まった言葉を入れて、決められた長さで終わる」
どんなレーベルでも、どの年齢層向けの作品でもそれは変わらない。
作品の出来不出来はある。しかし予定調和の範囲だ。
決められたレールの上を列車は走る。
停車駅も、停車時刻もきっちり決められている。
サキさんのこの原稿は定型を無視し、破りに破っている。
定石には、それが決められただけの理由がある。
だからこの原稿は失敗作になった。
「サキくんもめげずに、あと二、三作書けば良かったのよ。ポルノ史に名を残す傑作が出来たかもしれない」
「ははは、ぼくもサキさんが書くというなら、清書しますよ」
ただしヒロインのモデルはアリア以外でお願いしたい。
「セイさんもわたしといて、エッチな気持ちになったりする?」
ふいに、アリアがぼくに尋ねた。
ペラペラと原稿を弄びながら、晩のおかずを尋ねるようなトーンで。
「たまに。でも飲まれないように気をつけてます」
正直に答えた。
そしてぼくは言い訳を付け加えた。
「男ってのは、エロでしょうもない生き物なんです。だから服はちゃんと着てください」
「はいはい」
アリアは気のない返事を返す。
まったくもう。
そして何を思い出したのか、アリアは小さく笑った。
「私も同じだよ。女子だけどエロでしょうもない」
「どうして?」
ぼくは聞き返す。
「セイさんと、キスをする夢をみた。私はナース服を着てた。どう、エッチでしょ?」
「それはそれは……」
うまく言葉が返せなかった。
あれがただの夢では無いことを、知っているからだ。
夢の中でぼくに口づけをしたのは、アリアの姿を借りたミカさんだ。
それと同時にあれはアリアでもあった。
他にはどんな夢を見た?
アリアに聞きたかった。
でも出来ない。
ぼくらはミカさんの力で、アリアの内側に触れた。
その記憶にある風景を歩き、同じ夢を共有している。
彼女はそれを知らない。
後ろめたい気持ちだった。
サキさんにしてもそうだ。
ぼくらは黄昏の世界を歩くうちに、彼の心のどこか敏感な部分を踏んでしまったんじゃないか。
それが今日のサキさんの乱心騒ぎの原因じゃないのか。
その可能性を思えば、冷や汗が止まらない。
だとしても、サキさんの反応は規格外すぎるが。
そして昨日は、現実世界でぼくはアリアを怪物に変えてしまった。
ぼくにミカさんの力を制御することなど、できるわけはない。
早く目を見つけねば。
夢の中でも、この現実でももうアリアを傷つけたくなかった。
「……セイさん、どうしたの?」
黙り込んだぼくを心配そうにアリアが見ていた。
「なんでもないですよ。ただ今日はもう疲れました」
「そうだね。ひさしぶりに夕飯はてんや物にしよう」
屈託のない顔でアリアが笑った。




