37.
「ここで下ろしてくれ。悪いが、荷物は預かっておいて欲しい。夜にでも取りに行く」
谷さんは地下鉄の駅の近くで、ぼくに車を止めさせた。
「まさか、このまま出社するつもりなんですか?」
途中で薬局に寄り、傷口に貼るガーゼを買い求めた。
だが、そのガーゼにもまた血が滲んでしまっている。
「酔って転んだとでもいえば、みんな納得する。いい社風だろ?」
お面をとった谷さんはニヤリと笑った。
彼の上司は盗作を犯したサキさんを滅多打ちにした、あの編集長だった。
なんて会社だ。
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
翌日、トラブルは思いもしないところからやってきた。
時刻は午前十時。
ぼくは庭先で洗濯物を干していた。
するとそこに谷さんがやってきた。
額に汗が滲んでいる。慌てた様子だ。ふてぶてしい彼らしくもない。
今日はウサギのお面をかぶっていない。
編集者として訪ねてきたということだ。
だが、こんな早い時間に訪ねてくるなんて。
「アリアさんと約束でも?」
ニレイさんは留守。
サキさんは実家からまだ戻っていない。
「ぬかったな」
胸元に角二封筒を突きつけられた。
干そうとしていたシャツを洗濯カゴに戻し、それを受け取る。
封筒の中身は原稿だろう。
ほどほどに重い。
原稿の一枚目に、タイトルと作者名が大書きされていた。
『被弾 五島万』
丸っこい文字。
サキさんの字だ。
だがぼくはこの作品を知らない。
「これは何ですか?」
ぼくの問いかけに谷さんは、舌打ちを返してきた。
そして自分の所属する方城社のものではない、月刊誌の名を挙げた。
「その雑誌の次号に、これが載るそうだ」
寝耳に水だ。
五島万の作品の清書はぼくの仕事だ。
ぼくがこれを目にしていない訳はない。
干し途中の洗濯物は放ったまま。
靴を脱ぐのももどかしい。
慌てて、ぼくは仕事場のキッチンへと戻った。
テーブルの上にバサバサと原稿をぶちまける。
椅子に腰かける余裕もない。
立ったままバラバラと捲る。
その中編小説の頭から終わりまで、サキさんの文字しかない。
サキさんは、ぼくにも五島万の他の二人にも黙って、この作品を書き上げた。
そして普段つきあいのない出版社に売り込んだ。
動悸が収まらない。
他の人間には、理由をうまく説明できる気がしないが。
不味いことが起こった。
ぼくも谷さんも、ハッキリとそれが分かっていた。
サキさんが自分の名前で作品を書く。
それならまだ良かった。
五島万には専属契約などない。それはサキさんの自由だ。
だが今回のことはルール違反だ。
なぜサキさんは、ニレイさんとアリアに秘密で五島万を使う必要があったのか。
「サキ先生の悪い病気が、また出たってわけだ」
谷さんは、端的に理由を指した。
サキさんの病気は、分かりにくいようで分かりやすい。
盗作騒ぎのときもそうだ。
自らの筆を使って子供じみたことをする。
そういう病気だ。
サキさんはなによりも”小説”というものを大切に思っている。
自分の大切な小説を通じて、繋がった人の気持ちを試す。
結果、相手も自分も傷つける。
「よくもウチ系列から遠いところを選んでくれたな。もう少しで見過ごすところだった」
谷さんは舌先三寸、この原稿を印刷所からかっぱらってきたらしい。
原稿は活字に組まれ、輪転機は回る寸前だった。
「横車を押しに押して借りてきた。すぐにでも元の場所に返しておきたい」
「すぐ?何時までに?」
すがるように聞いたが、谷さんの答えは非情だった。
「一時間後に、業者を取りに寄越す」
自分の尻は自分で拭けとばかりに、谷さんは後も振り返らずに行ってしまった。
何のためにぼくはこの家で過ごし、五島万の仕事に関わってきたのか。
ここはぼくの持ち場だ。
これはぼくの手落ちだった。
黄昏の夢の中で、ミカさんはニレイさんとサキさんの姿で現れる。
そしてあの世界の風景には、アリアの記憶も織り込まれている。
ぼくらと五島万はミカさんと通して結びついている。
そしてまもなく闇から、強い力を持つ魔性が現れようとしている。
いま五島万を、バラバラにするわけにはいかない。
五島万は肉体を持ったひとりの人間ではない。
ニレイさん、サキさん、アリア。
彼らの現実の人生。
そして彼らが創作した虚構。
彼らの意識と無意識のすべてが、あの世界に広がっている。
そしてぼくの仕事は、三人の書いた文章を清書することだ。
ぼくも、小さいが五島万を形作るピースのひとつだ。
誰がかけてもダメなのだ。
タイムリミットは一時間。
通常、五島万の三人はキャッチボールのようなやり取りを繰り返す。そして作品を練り上げていく。
そして、仕上げはぼくの清書だ。
だが今は、そんな行程を踏んでいる余裕などない。
原稿用紙おおよそ100枚。
一読する余裕すらなかった。
けれどサキさんひとりで書いたこの作品が、どれだけ優れていたとしても関係ない。
これを五島万の作品として、世に出すわけにはいかない。
いっそのことこの手で、原稿を破り捨ててしまおうか?
そんな考えが頭をかすめた。
「…………はーっ」
長い深呼吸をした。
ここに来る前ならいざしらず。
一度この仕事に関わったぼくに、そんなことができるわけがない。
これは曲がった動機で書かれた原稿だ。
だがこれを書くのに、サキさんが手を抜いたはずはない。
あの人はいつもひたむきに自作と向き合う人だ。
原稿を破る代わりに、ぼくは受話器を取った。
タイミングがよかった。
あのウナギの寝床の仕事場にニレイさんはいた。
「ん?どうした?セイくん」
寝ぼけた、ニレイさんの声。
構わず、まくしたてる。
最低限の事情を告げる時間すら惜しい。
「いまから、そちらにFAXを送信します。読んでください。30分後にまたかけます」
ニレイさんとこちらを繋ぐ、電話回線は一本しかない。
通話に使う時間はなかった。
一枚一分。旧型のファックス機は、原稿をじりじりと飲み込み、送り出していく。
100枚すべてを食わせるのには、時間が足りなかった。
25分後。ようやく約半分の原稿を送り終えたところで、再びウナギの寝床の電話を鳴らした。
コールが二回、三回……
やっとニレイさんが出た。
「ああ、ごめんごめん。夢中で読んでた」
のんきなその言葉にかぶせるように、ぼくは訴える。
「止めるなら、今が最後です。そうしないとサキさんの勝手で、これが五島万の作品として発表されることになる」
返ってきたのは、カラカラと明るい笑い声だ。
「それのどこが問題なんだい?」
その言葉にかっとくる。
「五島万は三人で一人じゃなかったんですか?サキさんは、ふたりを裏切るような真似をしたんですよ」
「よせよ。チームワークだのなんだの……小説家は野球選手じゃないんだぜ」
ニレイさんに、ぼくの必死さはまったく伝わらない。
「俺としては儲けものだよ。五島万のギャラは三等分だ。俺が遊んでいる間に、サキくんがひとりで書いてくれたなんて」
あっけらかんと言われて、ぼくは黙り込んだ。
それに、とニレイさんは続けた。
「まだ十枚と読んでいないけれど分かる。この話はきっと面白い」
ニレイさんは、小説家のサキさんを全面的に信頼していた。
彼が五島万の看板に泥を塗る駄作を書くわけがない。そう確信している。
「俺は止めるつもりはないよ。この原稿は、五島万の名前で売約済みなんだろう?」
ニレイさんの言う通りだ。
これをなかったことにすることはできない。
この土壇場で約束した原稿を出さないとなれば、五島万の信用に傷がつく。
特にサキさんは、盗作騒ぎの前科もちだ。
ここでしくじれば、ますます歩く場所が狭くなる。
このまま、原稿を印刷所に戻すのが一番いい。
ニレイさんの言うことはもっともだ。
「ちょいと急だが、サキくんがまたひとりで書く気になったのは喜ばしいことだ。元々一人前の作家なんだ。俺としては寂しいが、五島万に縛り付けるわけにはいかない」
会話している間にも、受話器越しにニレイさんが紙をめくる音が聞こえていた。
ニレイさんが静かにぼくに尋ねる。
「セイくん、でも君はそれが嫌なんだな」
「はい……この作品は、やっぱり五島万のものではありませんから」
やっとそれだけ、言葉を絞り出した。
ぼくはもう黙ることしかできなかった
「谷くんも無茶だ。他所の原稿をさらってくるだなんて。バレたら責任問題だ。よっぽどのことなんだなぁ」
そして、ニレイさんは喉の奥で軽く笑った。
仕方ないなと。という、ため息に似た笑いだった。
「静寂のセイ」
「え?」
突然のニレイさんの言葉を、受け止めそこねた。
「主人公の名前を変えよう。”さんずい”の清一から、”しずかな”の静一に変更だ。その方が、紙面が締まる・・・・・・こんなもんでいいか?」
「ありがとうございます!!」
ぼくは受話器の向こうのニレイさんに向かって、深々と頭を下げた。
「どういたしまして。さて、アリア君は練習室にいるんだろう?呼んできてくれ」
「はい」
通話は切らないまま、ぼくは台に受話器をおく。
そして駆け出した。
「もしもし、おっちゃん?……ええ、うん……セイさんから、いちおう聞いたけど」
事情も分からずにやってきたアリアが、ニレイさんと話した時間はほんの数十秒。
しかしこの二人には、ツーカーだ。
それに問題の原稿をひとめ見ただけで、アリアはだいたいの事情が分かったようだ。
「・・・・・・うん、あとはやっておく」
アリアは、電話をかしゃんと切った。
そしてぼくに向き直る。
「残り時間は?」
「あと15分です」
「15分か。でも15時間でも15秒でも同じことかな。時間が足りないということには、変わらない」
「すいません。ぼくがちゃんと、ちゃんとしてなかったせいで」
「なんでセイさんが謝るの?」
ため息ひとつつく時間も惜しいというように、アリアは原稿を読み始めた。
そして、赤ペンを取る。
だが、アリアの手はなかなか動かなかった。
一字一句読み漏らすまい。横顔がそう言っていた。
集中して読み込んでいく。
残り三分。
ようやくアリアが動いた。
鋭角な音を立てて、ボールペンが紙を滑る。
普段の五割増しの筆圧で、アリアは朱を入れた。
アリアが手を加えたのは、ただ一か所。
表紙に書かれた題名だ。
サキさんが付けた題は『被弾』
アリアはそれに大きな×印を付けた。
『思い出し笑い』。
アリアはタイトルをそう改めた。
「この方が適当でしょう」
そして、ぼくに原稿を返した。
「ありがとうございます」
ワープロのスイッチはすでに入れてある。
用紙もインクリボンもセット済みだ。
ぼくはキーを叩く。
表紙をアリアの付けたタイトルのものと差し替えた。主人公の名前を、ニレイさんの名づけた通りにするよう指示書きを作る。
プリントを終えるやいなや、玄関のチャイムが鳴った。
谷さんの手配していたバイク便がやってきたのだ。
バイク便は原稿を受け取り、速やかに印刷所に向かっていった。
この一時間で確実に、寿命が三年は縮まった。
精いっぱいもがいた。
急場しのぎ。悪あがき。
いや、そうじゃない。
乾坤一擲。
ニレイさんと、アリアの一筆にはそれだけの重みがあった。
きっとぼくの恐れていた事態、五島万がバラバラになることは避けられたはずだ。
「セイさんが、こんなに必死になるのを始めてみた」
そういうアリアは落ち着いたものだ。
「取り乱しました」
ぼくは頭を下げた。
「でもサキ君の思う壺だね。ふだん一歩引いているセイさんが、小説のことで我を忘れてるんだもん」
「アリアさんは、驚かないんですね」
「驚いてないわけじゃない。でもいかにもサキくんが、やりそうなことじゃない」
「困った人ですね」
「うん、人に自分の吐いたゲロを押し付けるダメ人間。思わせぶりで、女々しくて、清々しいところが微塵もない」
お葬式があるなんて嘘でしょ、とアリアは言った。
「サキくんは弱虫毛虫のひとだから。東京にいたらイタズラをやめようって気持ちが揺れる。だから遠くに逃げたんでしょ」
十歳以上も年下のアリアから、言われたい放題だ。
ぼくは再びニレイさんに電話をかけた。
「引き渡し無事に済みました。ありがとうございました」
「セイくん、続きを送ってくれ。ちょうどいいところで切れちまった」
何を食べているんだか。
電話の向こうでポリポリと音がする。
ニレイさんは共同執筆者の立場を放り投げ、サキさんの作品を楽しんでいるようだ。
「ぼくの手元に続きはありません」
コピーを取っている余裕などなかった。
原本はバイク便が持って行った。
「待つしかないか。掲載誌の発売日はいつだい?」
「あとで調べて、お伝えしますよ」
「俺から先方の出版社に頭を下げておくよ。土壇場で勝手に変更をしてごめんなさいってね」
「助かります」
「ところで、セイくん。あの小説の中身は読んだかい?」
「そんな余裕、とてもとても……」
ぼくがそう返すと、ニレイさんはしばし沈黙した。
「そうか。雑誌が出たら、また一波乱起こるかもな」
サキさんは、一体何を書いたんだろう?
しかしぼくに出来ることは、もう何もない。
もう一度、ニレイさんにお礼を言ってから電話を切った。
続いて、方城社に電話をかけた。
谷さんは不在だった。
別の作家のところへ、打ち合わせに向かったらしい。
「なんとか無事に終わりました。ありがとうございました」
そう伝言を頼んだ。
干している途中で放りっぱなしになっていた、洗濯ものを思い出して庭に出る。
洗濯かごに残った衣類は、見事な生乾きだ。
ため息を一つついて、洗濯機をもう一度まわす。
キッチンに戻ると、アリアはまだそこにいた。
なぜかソワソワ落ち着かない様子だ。
「さっきは慌ててて、聞くのを忘れてたけど。セイさん、あの小説の中身、読んだ?」
「まったく。そんな時間ありませんでした」
「私も全部は読めなかった。でもたぶん……」
そこで言葉を切って、アリアはため息をつく。
あとの言葉は飲み込まれ、アリアは黙る。
「サキさんは、あの原稿に何を仕込んだんです?」
「馬鹿々々しいことを。雑誌が出たら、おっちゃんと私とセイさんと、いっしょに読もう。そしてみんなでサキくんを笑ってやろうね」
あの原稿をぼくらは見なかった。
存在など知らない。
もちろんサキさんを問い詰めることもない。
「そうしたほうが、面白くなりそうだ」
ニレイさんは無責任にそういった。
「・・・・・・まったくバカバカしくて。サキくんのイタズラになんて構ってられない」
アリアはそうため息をついた。
サキさんは、予定通り二泊三日の帰省を終えてホスピタルに戻ってきた。
「みやげ、何も思いつかなかった」
そう言いながらも、サキさんは地元の菓子を両手に下げて帰ってきた。
「アリア君にはこれ」
アリアへのみやげは張り子の小さな招き猫。
「ありがとう」
アリアは人形が気に入ったようで、練習室の窓辺に飾っていた。
例の作品が掲載される雑誌の発売日まで、まだ間があった。
サキさんは、普段と変わらない様子にみえた。
内心は分からない。
ハラハラドキドキしているのだろうか。
それとも仕掛けをした時点で満足して、冷めてしまったのか。
さてお待ちかねの発売日がやってきた。
ホスピタルに、掲載誌は送られてきた。
郵便物を取りに行くのは、ぼくの役目だ。
雑誌の入った封筒を、他の郵便物と一緒に待合室のローテーブルに乗せておく。
五島万宛の郵便物を、ぼくは勝手に開けたりはしない。
ニレイさんは留守。
サキさんは夜通しの仕事を終え、眠りに着いたばかりだ。
アリアが封筒に気づいた。
「朝ごはん食べてから、読む」
アリアはトーストとハムエッグを、いつも以上によく噛んで食べた。
食後には紅茶を三杯飲んだ。
雑誌をめくるアリアは、仕事をしている時の顔をしていた。
これがサキさんが、騙し打ちでひとりで書いた作品だ。
でもアリアは冷静だった。
作品を俯瞰し、掘り下げていく。
普段と違うのは、彼女の手に書き込むための赤ペンが握られていないことだけだ。
短い読みきりだ。
三十分ほどで、アリアは雑誌を閉じた。
「……」
アリアは唇を引き締めた。
思ったところを表情に出すまいとしているようだ。
「セイさんも読んで」
ぼくに掲載誌を差し出す。
「私は部屋に戻ってる。読み終わったら来て」
相変わらず殺風景な部屋だ。
壁の一面は鏡張り。
だだっ広い板の間だ。
この練習室には週一で、ぼくが掃除に入る。
座布団が置かれていない床に直に腰を下ろした。
消しゴムのカスをザラザラと感じる。
うん、これは掃除の回数を増やした方がよさそうだ。
今日のアリアは赤いセーターに、レザーのミニスカートを履いて、白衣を引っ掛けていた。サキさんが起床前なので、長い髪は結ばれていない。
前髪だけを、蝶々の形をしたピンで止めている。
いつも通り、とてもひどい。
小ぶりの書き物机は、資料の山で塞がっている。
アリアは床に置いたダンボールを机にして、ペンを走らせていた。
「お仕事中なら、後にしますか」
「いいの。嫌なことは早く済ませよう」
アリアは眉をしかめる。
「嫌なこと?」
「で、セイさんは、あれを読んでどう思った?」
アリアが、ぼくに感想を求めるなんて、久しぶりのことだ。
ぼくは、創作物を指してあれこれ言ったりしない。深く関わっている五島万の作品なら、尚のことだ。
だが、ぼくは自分で決めたそのルールを曲げて感想を述べた。
「やはり、お三人で書いたものとは違いますね」
作品の題材や文体が、五島万とかけ離れているわけではない。
ミステリ仕立ての人情劇。
娯楽作家・五島万の十八番といえるジャンルだ。
使われたトリックは小粒だが効果的だった。構成の勝利だ。
歯切れが良く、スイスイと読み進められる。読後の後味も良い。
でもこのサキさんがひとりで書いたこの作品は、何かが足りない。
それは多分、心地よさとはかけ離れた要素だ。
不安。焦燥。恐怖。喪失感。
そんな人の負の感情。
ニレイさんは感性で。
アリアは計算して。
サキさんは信念を、にじませることで。
マイナスを一かけら、磨き上げた作品に織り込む。
その毒の一滴が、読者の心をざわつかせ、ひっかき、揺り動かす。
それは五島万の刻印だ。
それなしでは作品が完成しない。
ぼくはサキさんが、五島万になる前に書いた小説も読んでいる。
しかし今回の短編は、それともまったく違っている。
そこからは、サキさんのどんな表情も浮かび上がってこない。
サキさんは器用だ。
ゴーストライターとして活動し、他人の名前で何冊も本を出した過去がある。
今回もそれと同じだ。
心はまったく入れない。
手癖だけで、五島万の作品に似せたものを作り上げた。
どうも、まとまらない。そんなような事を拙く、アリアに伝えた。
「ぼくは、お三方で作り上げた作品が好きです。感情論ですが」
しかし、ぼくの言葉を聞いたアリアの反応は芳しい物ではなかった。
眉間の皴が深くなる。
「セイさん、本気で言ってる?問題はそんなところじゃない」
「えーっと」
慌てて、また雑誌のページをパラパラめくる。
しかしアリアが何を問題にしているのか分からない。
「とぼけてるわけじゃないんだ……びっくり」
アリアは呆れ顔だ。
「ヒントをいただけませんか」
「この小説のあらすじを言ってみて」
それがヒントか。
原稿用紙ジャスト100枚の読み切り作品。
そう複雑なストーリーではない。
それは殺人犯の独白にしたてられた物語だ。
時は明治。
地方の素封家を舞台にした、兄弟の愛憎劇だった。
放蕩者の兄と、品行方正な弟。
兄は周囲から疎まれ、謗られるような存在だ。
明晰な弟は人望も厚い。
だが、兄弟の仲は悪くなかった。
兄は優秀な弟を認め、妬むことをしない。
弟は口には出さないが、自由な生き方をする兄に憧れを抱いていた。
だがある日、ひとりの美しい娘が村を訪れた。
その娘との出会いが、兄弟の運命を大きく狂わせていく……
ありふれた題材だ。
だからこそ、読者の共感を得られやすい。
そして作家として工夫のしがいもある。
このストーリーのどこが問題なんだろう。
「大、大、大、大ヒント。この兄の方、誰かに似ていませんか?」
クイズ番組の司会者のような口ぶりで、アリアが言った。
「この人が良いことしか取り柄のない、へらへら坊やが?」
放蕩者の兄。彼の最大の欠点は、意志の弱さだ。
優しさはただの甘さだ。
流された末の、彼の決断が悲劇を招くことになった。
「誰に似ているって…まぁぼくでしょうけど」
➀ボンクラで、まともな仕事についてない。
➁優秀な弟がいる。
この主人公とぼくの共通点だ。
おまけに彼の名前は、セイイチという。
優秀な弟の名前はエイジ。
セイとエイ。
ぼくら兄弟と同じだ。
「気づいていたの?」
「そりゃまぁ」
気づかないわけがない。
「これはサキ君が、あなたに読ませるために書いたお話」
「そんな、まさか」
ぼくの為に書いた?
ちょっとした洒落で使われた。その程度のことだと思っていたのだが。
「もしや、サキさんからぼくへの誕生日プレゼントですか?」
このプレゼントは以前貰ったドラムセットよりも驚きだ。
だが、ぼくの推理はアリアに否定された。
「そんなわけないでしょう」
「違うんですか」
「お人好し」
アリアはぼくを睨みつける。
「サキくんは、セイさんを喜ばせようと思って、この話を書いたんじゃない。逆」
「逆ですか?」
「セイさんを傷つけたくて、怒らせたくて、これを書いたの!」
怒る?傷付く?ぼくが?
「なんでまた?」
「ふふっ…」
首をひねるぼくを見て、アリアが笑った。
「渋沢兄弟は、本当に仲がいいのね。サキ君の狙いは、的外れだったわけだ」
つまり、サキさんの狙いはこうだ。
この小説の中で、ボンクラなぼくと優秀な弟と比べて当てこすった。
なかなかに回りくどい。
そして、アリアの心配の訳が分かった。
ぼくがこれを読んで、弟への劣等感を掻き立てられ落ち込むと思っていたのだ。
「創作の役に少しでも立てたなら嬉しいです。光栄ですよ。ぼくなんかをモデルに使ってくれるなんて」
エイはプロ野球の人気選手だ。
ぼくが弟のエイと同じく野球の道を歩いていたら、話は別だったかもしれない。
金とか高級車とか。エイを羨ましいと思ったことは多少ある。
だが妬ましいと思ったことはない。
「でもこの弟の方は、あんまりエイに似てませんね。今度はあいつを主役に据えて書いてください。エイは五島万のファンです。飛び上がって喜びます」
エイは有名人だ。ぼくを書くより、よほど話題になるだろうし。
「考えとく」
アリアがうなずく。
「ぼくは現実と小説を、混ぜたりしません。話の中の彼は彼。ここにいるぼくはぼくだ」
「残念ながらサキくんは、セイさんと違う。小説がすべての人だから。夢も現実もぜんぶ小説」
アリアはそういうが、本来のサキさんは常識人だ。
小説家とは型破りな存在であるべき。そう思い込もうとしている。
最初はただのポーズだっただろう。
今は自分が作り上げた、そのイメージに振り回されている。
しんどそうな生き方だ。
「サキさんは、何故ぼくに矛先を向けたんでしょうか?」
不発に終わったとはいえ、五島万の他のふたりや谷さんまで巻き込んでの大騒動だ。
「サキ君は怒っているのよ。いつまでも、蚊帳の外にいるセイさんのことを」
サキさんは強引な方法を使ってでも、ぼくを巻き込みたかった。
そうアリアは、推論を述べた。
「ぼくはどうしたらいいでしょう?」
「サキくんの期待通りに、小説を書けばいいんじゃない?」
「それだけは、御免です」
頑固だね、とアリアが笑う。
「アリアさんは、サキさんの気持ちがわかるんですね」
「分かりたくもないんだけどね。散々振り回されてきて、思い知った」
そしてアリアは、床に積み上げられたダンボールの一つを差した。
この練習室には、まともな家具がない。
アリアの衣服や生活道具は、すべて無機質なプラスティックのケースか、段ボール箱の中に押し込められて、床に直置きされている。
「ヨイショ…と」
ぼくはそのダンボールに手をかけた。
重いわけだ。動物図鑑、植物図鑑。漢和辞典に英英辞典…重量級の資料がぎっしり詰め込まれている。
アリアに言われるまま、ダンボールの底まで漁る。
すると原稿用紙の束が出てきた。
原稿の整理は、ぼくの仕事だ。
ぼくが手伝いに入る前の原稿も、メモ程度の端切れも漏らさない。
日付・種別順に、母屋のキャビネットに収納している。
ラベルを誂え、必要ならばいつでも取り出せるように整理していた。
だがこの原稿は、そこから漏れていた。
原稿は紐で簡単に綴じられていた。
封筒やファイルに入れるだけの手間さえ惜しまれて、ホコリにまみれている。
「ぼくが読んでいいものなんですか?」
表に書かれたタイトルは、『無題』サキさんの書いた丸い字だ。
いかにも訳ありな原稿だった。
「うん。これはサキくんが、私を主人公にして書いた小説。これは今回と違って、世に出なかった」
「え、そりゃまた、どんなわけで…?」
原稿の束は縦に立つほどに分厚い。
大長編だ。
これだけ書いてまるごとお蔵入りなんて。
「読めば分かる」
神妙な表情でアリアが言った。




