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花とペン  作者: 井上マイ
36/68

36.

 “この花”。

 ぼくはハジメと同じ花の名前を持つ術士だ。

 しかし父と落ちこぼれのぼくは違う。

 父のハジメは優れた術士だった。

 そう聞いている。

 でも、アガミの術士の強さとはなんだろう?

 ”マ”を打ち倒す、強い力を持つことか?

 舞や笛の技が、優れていることか?

 いや違う。

 ミカさんと、どれだけ近づけるか。

 それが唯一の尺度だ。

 父はミカさんの予言の言葉を、よく読み解くことができた。

 黄昏の世界の、誰よりも深い場所まで辿り着くことができた。

 でも力は、父を守らなかった。

 父は若くして倒れ、相棒の孝三叔父は力を失った。

 ミカさんは人ではない。

 黄昏の空が広がる夢の世界は、人の暮らす場所ではない。

 ミカさんに近づくこと。

 それは人から離れるということだ。

 神の加護は、呪いと紙一重。

 あの世界で舞ったとき、ぼくはそれを肌で理解した。

 吸い込まれる様な感覚。

 心も体も一切の境目は崩れ、ぼくはミカさんの世界と混じりあっていく。

 あの世界を歩くのは夕暮れの時に限られる。

 夜を過ごし、朝を迎えてしまえば、ぼくという存在は消え去ってしまうだろう。

 ハジメを探さなければ。

 ミカさんはそう言った。

 父はいまミカさんからも、遠く離れた場所にいる。


 久しぶりに車を出す用事があった。

「急な葬式ができた」

 珍しく実家に帰るサキさんを、東京駅まで送っていったのだ。

 ニレイさんも不在。アリアの朝食は用意済みだ。

 急ぎの仕事はない。昼食の時間までにホスピタルに戻ればよい。

 久しぶりに、アガミの本家に顔を出すことにした。

 平日の昼間でも、誰かしらはいるだろう。

 庭に車を止め、ドアを開けた時だ。

 「いいところに来てくれた」

 死角から声をかけられた。

 そのまま無遠慮に、乗り込んできたのは谷さんだ。

 かっちりとしたスーツ着込み、お面をつけている。彼を見る度に、ギョッとさせらせる。

 今日の面は中華風だ。ツリ目のきつい白ウサギだった。

 うちの本家に、なんの用事があったのだろう?

 「渋谷まで乗せて行ってくれ」

 「勝手なことを。その辺でタクシーでも捕まえてください」

 断ったが、谷さんは強引だった。

 「つれないことを言うな。道道話したいこともある」

「ぼくは、この家を訪ねて来たところなんですが……」

「どうせ大した用事でもないだろう、ぼら」

 谷さんは車を出せと顎をしゃくる。

 癪に障る。舌打ちを堪えて、車を発進させた。

 この車は、ここ数日不調だった。ヒーターの効きが悪い。

 しかしぼくが身震いしたのは、谷さんが理由だ。

 この人が面を付けている時、それは術士として動く時だ。


 話したいことがあると言ったのに、谷さんは黙りこんだままだ。

 仕方なくぼくから声をかける。

「今日は仕事はどうしたんですか?」

「半休をとった」

 そっけなく谷さんが答える。会話のラリーが終わった。

 「うちになんの用事があったんですか?」

 「おたくの当主様にご挨拶だ。少し遅いお歳暮をね」

  やはり、谷さんからまともな返事は返ってこない。

 赤信号で止まるたび、すれ違う車のドライバーや通行人の視線が、後部座席に集まる。

 しかしスーツ姿のお面男本人は、気にする様子はない。

 草四郎を庇って負った傷はすでに癒えている。

 しかし谷さんの体からは、ねっとりとした血の臭いがする。

 洗い流したところで、こごったそれは落ちないだろう。

 この男もまた、人から離れつつある。

 こちらとあちらの境界線。薄氷の上を彼は歩いている。


 「で、渋谷に何の用事があるんですか?」

 残念ながら道は混んでいなかった。

 もう目的地だ。

「穴場を見つけたんだよ」

 「ランチのおいしい店ですか?奢りなら付き合いますよ」

 ぼくの冗談に、谷さんはニコリともしない。

「中型の異形。この先の放送局だ」

 ”マ”は人の負の感情や妄執を食らう。

 人が集まる場所には、その餌も吹きだまる。

 放送局は谷さんの狩り場として、うってうけの場所だ。

「はじめてじゃないですか?ぼくひとりを呼ぶなんて」

 谷さんの誘いは断れない。ぼくもこの人に預けられている身だ。

「もう一度、君の踊りを見ておきたくなった」

  谷さんは後部座席から身を乗り出した。

 ぼくの首筋に顔をよせる。

 そして、くんくんと匂いを嗅いだ。

「気色悪いことしないで下さい」

「妙な香りがする……どこに行って、何をしてきたんだ?」

 香り?なんのことだ。

「気のせいでしょう」

 ちょうど赤信号のタイミングだった。

 試しにぼくは、自分の手を嗅いでみた。

 やはり変わった匂いはしない。

「担当のあなたも知っているでしょう。しめきりが四つ重なって、五島万は大忙しです。手伝いのぼくだって、どこかに出かける時間なんてありませんよ」

「いや間違いない……異国の香りがする」

 谷さんはそう言い切った。

 いく晩も夢の回廊を歩いてきた。

 そして目的の目に近づいている。

 あの世界の空気の匂い。

 谷さんは嗅覚ではない術士としての力で、ぼくからそれを嗅ぎ取ったようだ。


 放送局に着いてからも、谷さんはそのお面を取ることはなかった。

 コウガミの術士である谷さんには、ぼくが知りえぬ技があるようだ。

 正面玄関から堂々と入り、誰に見咎められることも無い。

 お供のぼくも同様だ。

 ぼくらは影のように、内部へと滑り込んだ。

 「ここだ」

 谷さんが足を止めたのは、厚い扉の前だった。

 観音開きの扉をくぐれば、そこは撮影スタジオだった。

 部屋の内部は静まり返っていた。

 白白としたライトが舞台を照らす。

 横長のテーブルと大きなモニター。

 そこにはニュース番組のセットが組まれていた。

 しかしそこにいたのはアナウンサーなどではない。

 濃密な臭気。

 礫を顔面に浴びせられた。

 そんな錯覚を覚えた。

 思わず仰け反る。

 人ではないものがそこにいた。

 「セイくん、何が見える?」

 嘲笑を含んだ声。

 谷さんの問いかけに答えることなく、ぼくは動いた。

 部屋の隅に置かれていたパイプ椅子を手に取る。

「ーーー!!」

 ぼくは、それを叩き付けるように投げた。

 影はわずかに揺らぐ。

 しかし消えはしない。

 ”マ”は女の長い髪と、顔を持っていた。

 それは、アリアによく似せられていた。


 「谷さん……ぼくは........」

 息が詰まる。その後の言葉が続かなかった。

 血はまだ流れていない。

 しかし既にぼくは敗北している。

 見えない影に、溺れてはいけない。

 それがアガミの術士であることの最低条件だ。

 想像するな。

 そして恐怖に形を与えるな。

 しかし今ぼくは、その禁を犯している。

 歪んで、拡大されたアリアの頭部。

 その形に決めたのは、ぼく自身だ。

 ぼくの恐れが、それをアリアに似せている。

 愕然とした。

 ぼくはいつの間に、こんなに弱くなってしまったのだろう

 谷さんには目の前の”マ”が、別の形に見えているはずだ。

 ミカさんは姿を現さない。

 声も聞こえない。

 ぼくひとりでは無理だ。

 立ち向かうことが出来ない。

 草四郎がいない。

 笛の音が今はない。


 その”マ”は、巨岩というほどにも大きい。

 本物のアリアとはまるで違う。

 その瞳に生気も知性も見られない。

 口元は緩み、ただ虚ろな表情を浮かべている。

 大きく白い歯が、グロテスクだった。

 ”マ”は汚泥の臭気をまとっていた。、

 胴体は長い黒髪に隠されていた。

 髪は床にまで広がっている。

 足はないのだろう。

 ただそれはそこに転がっている。

 ”マ”は鋭い牙も爪も持たない。

 動くこともない。

 だが、武器を持たない訳では無い。

 「ーーー!!」

 異形は咆哮した。

 空気が震える。スタジオ内の闇の濃さが増した。

 この世の者の声ではない。

 その身を覆う黒髪が蠢く。

 そして何匹もの蛇のように迫り来る。

 ぼくは身をよじり、逃れようする。

 しかし谷さんは動かなかった。

 「俺のためには、踊ってくれないのか?」

 谷さんが笑いかける。

 谷さんの足首は、既に黒い蛇に捉えられている。

 蛇はその足を這い上がり、肩口にまで達しようとしていた。

「ああああ・・・・・・・」

 力のないうめき声を漏らす。

 ここは本当に、夢ではなく現実なのだろうか。

 これはぼくの恐怖が生み出した、化け物なのだろうか。

 剥き出しになる感情が、制御できない。


 立ち尽くしていた時間は僅かなものだったはずだ。

 だが致命的な傷を負うには十分だ。

 印を結んだ手。

 谷さんの力が化け物を押しとどめている。

 しかしそれ以上、谷さんは動かない。

 蛇はその首筋に歯を立てている。

 赤い血が一筋流れる。

 動脈は逸れた。

 谷さんはまだ倒れない。

 「何をやってるんですか!?谷さん!」

 谷さんなら、一撃でこんな影などかき消してしまえる。そのはずなのに。

 「なんで動かないんだ!!」

 「俺には、なぁんにも見えてない」

 谷さんは両のてのひらを上向きにして、首をすくめる。

 「さあセイくん、踊ってくれ。俺にその恐怖を分けてくれ」

 なぜそんなことを言う?

 分からなかった。

 だが、ぼくは足を一歩前に出す。

 蛇は増え続ける。

 床一面を埋め尽くす程に。

 払い除けても、また集る。

 ぼくの厚手のジーパンを突き抜けて、牙が刺さる。

 体に毒が注ぎ込まれる。

 その蛇の毒は、化生の持つ濁った思考だった。

 悪寒が増す。狂気がぼくの心を強く叩く。

 恐怖を分けてくれ。

 谷さんは言った。

 彼はぼくがこの危機に直面することを見越していた。

 そして、ここに連れてきた。

 ぼくを試そうとしている。

 彼の思惑に乗せられるのは、本意では無い。

 だが引く訳にはいかない。

 ここで止まったら、ぼくはアガミの術士でいることができなくなってしまう。

 腕が、足が、重い。

 見えない何重もの糸に絡み取られているようだ。

 無意味な想像を止めなくてはいけない。

 この恐怖は幻でしかない。

 できない筈がない。

 踊れ。

 自分の頬を、腿を、拳で殴りつけた。

 草四郎の笛の音を思い起こす。

 そして一歩踏み込んだ、その時だ。

 頭の中で火花が散った。

 繋がった。

 離れていたぼくと、ミカさんが重なり合う。

 ミカさんの姿はない。

 だが濃密にその存在を感じる。ミカさんが今いるのはぼくの内側だ。

 「はっはははは」

 場違いな笑い声を、谷さんがあげる。

 ぼくの作り出した幻である”マ”は、実体を帯びた。

 彼は自分の首筋に触れた。

 指の間から、流れた血がしたたる。

 今までも谷さんが、痛みをおぼえていないわけは無い。

 首筋に影は絡みつき、精気は吸われていた。

 しかし蛇の形が浮かび上がったことで、影は肉体の傷と血に置き換えられた。

 「これが君の怖かったものか。女と蛇。あからさまだな。フロイトが笑うぜ」

 谷さんは笑う。

 そうだ。

 ぼくの恐怖はアリアの死だ。

 彼女を守れない未来が訪れることが、弱い自分が、何よりも怖い。

 いつの間にか、谷さんの手には短銃が握られている。

 銀色の飾りのついた銃だ。

 それは黄昏の世界の中で、見たものと酷似していた。

 ニレイさんの姿を借りたミカさんが扱っていたものだ。

 この武器もぼくの心が、形にしたものなのか。

 谷さんに一切の躊躇はない。

 ”ーーーー!!”

 放たれた弾丸が、”マ”に突き刺さる。

 弾倉は回る。銃弾は尽きることが無い魔法の銃だ。

 化生が削られていく。

 アリアの形をした、その顔に黒い穴が開く。目は潰れ、白い歯が砕ける。

 血の代わりに吹き出したのは、黒い汚泥だ。

 その髪から生まれた蛇たちも、たちまちそこから抜けて枯れおちた。

 化生は動きを止めた。もろもろとその巨体が崩れていく。

 谷さんは一身に汚泥を浴びていた。

 血と泥に汚れた顔をぼくに向ける。

 「おつかれさん」

 谷さんの手からは銃が消えていた。

 ”マ”のすべてが泥に変わったあとも、ぼくは舞いを続けていた。

 もう恐怖も焦りも、消えていた。

 ただ内側にいるミカさんが、ぼくの踊りを求めていた。


 誰に憚ることなく、テレビ局のシャワールームを借りて、泥を落とした。着替えも谷さんとぼくの二人分用意されていた。

 今日の事は全て、谷さんの予定通りだったのだろう。

 「傷、痛みますか?」

「いいや」

 谷さんは簡単にそう答えた。

 首筋には、間に合わせのガーゼが貼られている。受け止めきれない程の血が流れ、シャツの首元を汚していた。

 谷さんは、身を守ることもせず前面に立っていた。

 ぼくの数倍傷ついていた。

 戦いの終わりに谷さんはぼくと同じ形をした、”マ”を見た。

 アガミではない谷さんに、ミカさんの力が及んた。

 そのことにぼくは動揺していた。

 ミカさんは何を考えているのだろう?

 時刻はまだ昼前だ。

 テレビ局に入ってから、一時間と時間は経っていない。

 今あったことが白昼夢であってくれれば良かったのに。


「これ使ってください」

 後部座席の谷さんに自前のハンカチを手渡す。

 ニレイさんの車を血で汚されては困る。

「君と草四郎くんには、これからも力を貸してもらう」

「ぼくらの役目は五島万を守ることです・・・・・・今日のことがその役に立つんですか?」

「立つさ」

 谷さんは言う。

 ”マ”から受けた傷は、人の魂を削る。

 彼は犠牲を払うことを厭わなかった。

「俺は君たちに近づきたい。今日は少しそれが叶った」

 父がその目を奪いとった”マ”。

 おそらくそれは谷さんが殺す神だ。

 彼はミカさんの予言の続きを求めている・・・・・・

「谷さんに、聞いておきたいことがあります」

 ずっと、自分の中でわだかまっていたことだ。

「何でも聞いてくれ」

「ぼくの父は、どんな人だったんですか?」

 それを聞くと、谷さんは薄く笑った。

「優しい人だったよ。子どもの俺は、あの人から術のいろはを習ったんだ」

 ライターをつける音。後部座席からタバコの煙が流れてきた。

「少し窓をあけますよ」

 声をかけるついでに、後ろをちらりと見た。

 お面に隠されて、谷さんの表情は見えない。

「そして強い術士だった。憧れの人だ。これからもあの人から、いろんなことを学んで行けると思っていた」

 しかしすぐにハジメと谷さんとの別れは訪れた。

「妬ましかったよ、君たちアガミの身内の連中が。俺はハジメさんと同じカミサマを見ることも叶わない」

 しかし今日その壁がわずかにだが崩れた。

 ぼくの中のミカさんが手を伸ばし、谷さんに触れた。

「子供だった俺には、告げられた予言の意味なんて分からなかった・・・・・・・それは今も同じだ」

 すべては君のカミサマの御心のままに。 と谷さんは皮肉にいう。

「君たちは俺のことを誤解している。俺は何も企んでなんかいないさ」

 そう言って谷さんは自嘲的に笑う。

「俺がすべてを知っているなら、もっときれいな絵を描くさ……少なくとも十日町やお前さんは、その中に入れなかっただろうな」

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