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花とペン  作者: 井上マイ
34/68

34.

 五日ほど、ニレイさんの姿をホスピタルで見かけていない。

 しかしその程度の不在は珍しくもない。

 それに仕事の話半分、雑談半分の電話もくれる。

 原稿はファクシミリで送られてくる。なにも問題はない。

「気難しく見える他のふたりよりも、ニレイ先生は気分の浮き沈みが激しいのかもしれない」

 担当編集の谷さんがそう言ったことがある。

 だがぼくは、ニレイさんから八つ当たりの一つもされたことは無い。

 穏やかな人だ。

 

「いま中軽井沢にいる」

 電話をかけてきたニレイさんが言った。

 それでやっと彼の現在位置がわかった。

「雪景色にも飽きた。早く東京に戻りたい」

  気だるい口ぶり。

 ニレイさんはなにも言わないが、この小旅行には女性の連れがいたのかもしれない。ふとそう思った。

 同居していても、この人の私生活はまるで見えてこない。

「土産物をクールで送った。みんなで食べてくれ」

「ありがとうございます」

 冬の長野の名産品?野沢菜漬けかな。

 日持ちのするものだと、ありがたい。

 「……」

 受話器の向こうから沈黙が流れる。

 必要な話は終わったはずだ。あとに続く言葉は、おやすみなさいの挨拶くらいだろう。

 しかしニレイさんは受話器を置くのを、ためらっていた。

 しばしの沈黙のあと、彼は控え目に切り出した。

「明後日、東京に戻る。セイ君、夜にでも時間をとれないか?」

「分かりました。駅までお迎えにあがります」

「荷物はそんなにないんだ。車はいらない。歩いておいでよ。酒を飲もう」

 ニレイさんから、差し飲みの誘いを受けるのも久しぶりだ。

「はい、楽しみにしてます」

 ぼくは元気よく返事をした。


 ニレイさんが冬の避暑地から送って来たのは、馬鹿でかいハムの塊だった。

 木の台に括り付けられているそれに四苦八苦しているところに、電話がかかってきた。

 いま新幹線に乗り込んだところだと、ニレイさんは言った。

 「XX駅まで出てきてくれ」

 告げられた待ち合わせ場所は、馴染みのない山手線の駅だった。


 改札の前で待っていると、次の電車でニレイさんが到着した。

 「やあ」

 洒落たこげ茶のチェスターコートに白いマフラー。手には小さめの旅行鞄。

 この人はやはりスターなのだ。避暑地帰りのニレイさんは、駅の雑踏から明るく浮きあが

 ってみえた。

 ちょうど夕暮れ時だ。

 あの世界を思い出す。

 しかしここは夢の中ではない。

 目の前にいるのは、本物のニレイさんだ。


 ニレイさんが選んだのは、駅前の居酒屋だった。

 大衆向けのチェーン店だ。

 ぼくはご馳走になる側だ。どんな店でも文句はない。

 しかし、ニレイさんがわざわざ足を運ぶような店とも思えなかった。

 カウンター席に並んで腰かけた。

 甘くて薄いレモンサワーを飲んで、ペトペトしたポテトサラダをつついた。

 奥から店員が、色紙とサインペンを持って来た。

 ニレイさんは快く、毎度のミミズ字でサインを書いた。

「中はあまり変わってないな。ちょうどこのあたり、前はテーブル席があったんだ」

 ニレイさんが行きつけだったのは、以前ここにあったまったく別の店らしい。

「もう潰れてしまったが、芝居小屋が近くにあってね。打ち上げでよくここを使った。前の奥さんも来たことある。もう十五年以上前の話だ」

 前の奥さんとは、アリアの母親である日比野みちるのことだ。

 「みっちゃんとは、その頃はただの仕事仲間だった……まさか将来、彼女の娘とも繋がりができるなんて。想像もしてなかったな」

 ニレイさんは思い出に浸るために、この店に来たんだろうか。 しかもぼくを連れて。

 そうとは思えなかった。

 ニレイさんと酒を飲むのは楽しい。

 話題が豊富で、話上手。そして聞き上手な人だ。

 気楽な雑談に終始して、レモンサワーを二杯ずつ飲んでその店を出た。


「ホスピタルに戻ろう」

 ニレイさんは、旅の疲れがあるのだろう。

 別の店に移動する気はないようだった。

 そのままふたりでホスピタルへと戻った。

 ニレイさんが送ってきた生ハムをつまみに冷酒を飲む。

「豪勢だな」

 ぼくの手で分厚くスライスされた生ハムを、つまみ上げてニレイさんが苦笑する。

 現在、夜九時時過ぎだ。

 他のふたりは、それぞれの部屋にこもっている。

 夜型のサキさんは、ちょうどエンジンが回り始める時間帯だ。

 朝方のアリアは就寝前の追い込み中だろう。

 いまこのキッチンには、ぼくとニレイさんだけしかいない。

「今日は気まぐれに付き合ってくれて、ありがとう。あの場所に行けば、昔のことがハッキリ思い出せるかもと思ったんだが・・・・・・」

 ニレイさんは、二杯目の冷酒を飲み干した。

 交通事故に遭って以来、体に障るからとニレイさんは禁酒を続けていた。

 ぼくを酒場に誘っても、いつもは自分は烏龍茶などで過ごす。

 しかし今夜はよく飲んだ。

 杯数を重ねても、ニレイさんは乱れなかった。顔色にも変化はない。

 ただ次第に口数が少なくなった。ただじっとグラスの水面を見つめている時間が訪れた。

 ニレイさんは、そうやって過去の記憶を探っているようだった。

 そして卓上のつまみもなくなり、このささやかな二次会もお開きかと思ったその時だった。

 ニレイさんが口を開いた。

「セイ君、きみの父上はハジメさんというんじゃないか?」

「父を知っているんですか?」

 突然の言葉に驚いた。ニレイさんから、父の名前が出てくるとは思わなかった。

「やはり……草四郎くんを初めて見たときに、なぜ気づかなかったんだろう?」

 草四郎は、父の弟だ。そして、その兄と瓜二つの顔をしている。

「昨日の朝だ。浅い夢から覚めたそのときに、ふいに思い出した」

 それまですっかり忘れていた。

 ニレイさんはいった。


「ハジメさんとは十八年前、あの場所にあった酒場で出会った。結局、彼と過ごしたのはそのときの一度きりになってしまったが・・・・・・」

 父が故人であると、ニレイさんは知っていた。

 ぼくが身の上話をしたわけではない。

 ぼくの弟は有名な野球選手だ。彼が幼い頃父を亡くし、母の手ひとつで育てられたことは、マスコミを通して世間によく知られている。

「君の父上と、愉快に飲んで、その場でさっぱり別れた」

 そこでニレイさんは、言葉を切った。それだけの話なら、酒の力など借りずに話したはずだ。

「楽しい晩だった。けれど不思議なことが起こった」


 その打ち上げの席に、ハジメはどこからか紛れ込んできた。

 ごく自然に会話に加わり、いつの間にか座の中心に座っていた。

  人目を引く男だな。ニレイさんは思った。

 冷たさを感じるほど、整った顔立ち。

 だがよく動く表情が彼に温かみを与え、その魅力を増していた。

 耳にかかる程の長髪。着崩したジャケットに、派手な縞模様のシャツ。

 年齢は20をいくつも出ていないだろう。

 勤め人には見えない。

 しかし役者のような、青白い繊細さはない。

「ダンサーだと思った。野性味というか、躍動感があったな」

「ははは……」

 ニレイさんは鋭い。ぼくは苦笑した。

 当たってる。父はのアガミの舞手、先代の”この花”だ。

「草四郎くんに似ているのは顔だけだな。華やかな男だった。その場にいた女性全員がすっかりポーッとなっちまった」


「飲んでる?」

 半分ほど空いたニレイさんのグラスに、酒が注がれた。

 いつの間にか、ハジメは彼のとなりに座っていた。

「ああ、どうも」

 礼を言って飲み干す。

「きょうは、君に会うために来たんだ」

 ハジメがニッコリ笑った。

「なに?俺のファン?サインいる?」

 ニレイさんは、笑って尋ねた。

 18年前のニレイさんは、傷だらけの中年ではない。ピカピカの二枚目だった。劇団のファンからは王子様なんて呼ばれていた。

 だが、まだまだ売り出し中だ。サインを求められることなど滅多にない。

「サインは結構。そのかわり10分、君の時間が欲しい」

 ハジメがカバンから取り出したのは、タロットカードだった。

 彼は自らの職業を占い師だと、告げた。


 そのくだりを聞いて、ぼくはショックを受けた。

 アガミには教義や教典などない。

 でも暗黙のルールというものはある。

 ぼくらアガミは、占い師を名乗ることはない。たとえその場限りの方便にせよ、絶対に。

 ミカさんの持つ未来を見る力を、外の人間に匂わせるなどありえない。

 長きにわたる経験則として、我々は知っているのだ。

 ミカさんの力を、みだりに晒せば災いを招く。

『あいつはアガミの鬼っ子だった』

 父を知る先輩方はみなそう言う。

 無職渡世の浮き雲で、なにかと逸話の多い父だ。

 けれど父の思い出話をする時、みんな笑顔だ。

 はみ出していたといっても父も、ぼくらと同じアガミの術士だったはずだ。

 占い師を名乗った父の行動は、その一線を超えているように思えた。


 カードを扱う動作が鮮やかだったわけではない。

 しかしその手指のしなやかさに目を奪われた。 

「早速はじめたのね」

 そうハジメに声をかけたのは、日比野みちるだった。

 気安い口調で、ハジメは返した。

「ええ、待ちきれずに。みちるさんは酷い。彼に紹介してくれると言ったのに、放っておくなんて」

 ハジメをこの場に呼んだのは、みちるだったらしい。

 アリアの母と、ぼくの父。

 ふたりがどこで知り合ったのかは、知らない。とニレイさんは言った。

「みっちゃんは、顔の広い人だったからね」

 日比野みちるは、父の占いに全幅の信頼を置いていた。

 失くした指輪のありかを、ピタリと当てた。

 良い役の付いた、オーディションを勧めてくれた。

 そんな父の所業を聞いて、息子のぼくは頭を抱えたくなった。

 それがタロット占いで得た結果であるわけがない。

「それにみっちゃんは、俺なんかとうっかり結婚しちまったくらいの面食いだからな」

 と、ニレイさんは笑う。

 二枚目が好きな彼女に、ぼくの父も気に入られたわけだ。

「だが肝心なところで、君のお父さんの占いはヘボだった」 

 そしてニレイさんは、少し哀しそうに笑った。

「日比野みちるは幸せな結婚をして、大勢の孫に囲まれて百歳まで生きる。大ハズレさ」

 父には彼女を騙す気はなかったのだと思いたい。

 きっとミカさんが物差しを間違えたのだ。

 幸福な結婚生活を送り、長命を授かるのは、日比野みちるの娘かもしれないし、孫かもしれない。


 グラスと料理の皿を脇へと寄せる。そしてハジメはカバンの中から自前のクロスを出した。

 ベルベットのクロスに、カードが並べられていく。

「なんで俺を占いたいの?」

「夢の中でお告げがあった。面白い運命を持つ男がいるから、会いに行けとね」

 ハジメは笑いもせず、ニレイの質問にそう答えた。

「面白い運命?」

「いまから、このカードでそれを見る」

 なにか妙なことが始まった。

 自然と、場の注目がふたりに集まる。

 みちるをはじめとした周囲は、キャアキャアと騒いだ。

 ニレイさんは、そもそも占いに興味がなかった。

 しかし風変わりなこの占い師が、何を言うのか興味がある。


 そこでニレイさんは、話を切った。

 缶からタバコをつまみ出し、火をつけた。

 そしてゆっくりと煙を吸い込む。

「ここからが問題だ……セイくん、そこの紙一枚ちょうだい」

「はい」

 置いてあった原稿用紙を一枚渡した。

 そしてニレイさんは原稿用紙の裏側に、大きくYの字をひとつ書いた。

「君の父君がカードを並べた地点から、俺の記憶はふたつに分かれる」

「ふたつ?」

 ぼくは聞き返す。

 意味が分からない。

「ふたつに増えたのさ。俺はその晩、別々の場所に同時に存在していた」

 矛盾している。

 だがどちらの記憶も鮮明すぎるくらい鮮明だ。そうニレイさんはいう。

「まさか、そんなことが……」

「酔って記憶を失くしたことはあるが、増やしたのは、後にも先にもそのときだけだ……さほど飲んでいた、おぼえもないのに」


 パターンA。

 一つ目の記憶は、無難なものだ。

 ハジメがその時、どのカードをめくり、どんな託宣をしたのかは問題ではない。

「占いを愉快と思ったのは、その時きりだ。見事な話芸だった」

 占いは、ただの会話の彩りだった。

 占いを終えて、改めてハジメとニレイさんは乾杯した。

 そしてふたりは杯を重ねた。 

 二次会の場所は小さなスナックだった。

「お父さんの歌声は、セイくんそっくりだったな」

 懐かしそうにニレイさんが言った。つまりハジメは、音痴だったということだ。

「そこが可愛いってんで、お店の女の子にモテていたけど」

 君に会うためにここに来た。

 ハジメはニレイさんにそう言った。

 でも彼は、次に会う約束はしなかった。

 そしてふたりはそこで別れた。


 これも今回思い出したことだ、とニレイさんは付随する記憶を語った。

「それから、だいぶ経ったあとだった。みっちゃんと、あの晩のことを話したことがある……」

 しかしニレイさんの記憶と、彼女の記憶には大きなズレがあった。

 日比野みちるは、ハジメのことを覚えていた。

 だがその記憶は朧げなものだった。

 その日の打ち上げの席に、占い師がひとりいたのは覚えている。

 みちるはハジメの名前も、顔立ちもまったく覚えていなかった。

「あんなに印象的な男を忘れるなんて。悪い魔法にかけられたみたいだ」

 そもそもハジメを連れてきたのは、みちるのはずだ。

 ニレイさんが彼女に指摘すると、猛反論された。

「とんでもない」

  彼女は言った。

 わたしは占いと宗教と、オバケみたいな胡散臭いものが大嫌いだ。虫唾が走る。

 仕事で関わるなら、我慢もする。

 しかしプライベートで、占い師と交際することなど100パーセントあり得ない。

 そう彼女は言い切った。

 煙りのように、シブサワハジメは日比野みちるの記憶から消えてしまった。

「それとも俺が幻をみていたのか?」

 狐につままれたみたいだ。とニレイさんはいった。


              XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX


 そしてパターンBの記憶。

 唐突に場面が切り替わる。


「そちらの番だ。カードを抜いてくれ」

「カード...?」

 ニレイさんの口から出た声は、ひどくボンヤリとしていた。

 タロットカードを取るのか?

  俺が?

  カードを繰るのは、占い師の仕事じゃないのか?

「ほれ、悩むだけ無駄だ」

 言われるがまま、差し出されたカードの束から一枚抜く。

 ハートの3。

 これはタロットカードじゃない。

  トランプだ。

 急速に意識が覚醒した。 

 ここは打ち上げ会場の、居酒屋ではない。

 かすかに、しかし確実に、背中に伝わってくる振動。

 カーテンは閉められていた。その窓の外の景色は流れているだろう。

 ここは列車の中だ。

 車内は静かだ。

 控え目な音量で交わされる会話。

 あとは時折、誰かの咳の音が響くだけだ。

 ニレイさんは四人がけのボックス席に、腰掛けていた。向かいにはハジメがいた。

 手にはトランプの札。

 種目はババ抜きだ。

 どうやって、ここまでやってたのだろう?

 切符を買い、改札を潜り、列車に乗り込む……こなしたはず行動。

 しかしそのいずれの記憶が、欠片すらない。 

 足元には、ビニール袋が転がっていた。ビニールには弁当の空き箱と、ビールの空き缶が詰められている。

 ずいぶんと長い時間、自分はこの列車に乗っていたらしい。

 車窓に付けられたフックには、見覚えのあるジャケットがかけられてた。ニレイさん自身の服だ。

 網棚には、一泊旅行用のデイパックが置かれている。これも自分のカバンだった。

 どちらも居酒屋にいた時には、手元になかった。

 一度、自宅に戻って持ち出した記憶ももちろんない。


  そして同席者はハジメだけではなかった。

「一抜けた」

 その男は、二枚の数字の揃ったカードをかざした。

「ぼくはもう寝ます。着いたら起こしてください」

 言うが早いか、彼はすぐに目を閉じてしまった。

「こちらは?」

 ニレイさんは、ハジメに尋ねた。呆れ顔をされた。

「ぼくの相棒、親戚の孝三だ。さっき紹介したばかりじゃないか」

 ハジメの言う通りだ。

 さきほど彼とは、挨拶を交わした……そんな気もする。

 ニレイさんは、微かに痛むこめかみを抑えた。


 親戚と言ったが、孝三とハジメは似ていなかった。

 ハジメは上背こそないものの、スラリとしたしなやかな体型をしている。

  孝三は小柄な男だった。

  一文字に結ばれた唇。高い鼻梁。太めの上り眉。

 柔らかくつかみ所のないハジメ。対照的に幸三は実直そうな男だった。

 ハジメはいつの間にか、服装を変えていた。

 ふたりは揃いの衣装を着ていた。

 上はあわせ。下は裾のしぼれた袴。

 折り紙で作ったやっこさんみたいだな、とニレイさんは思った。

 幸三の着物の色は紺だ。胸元には、ひし形を2つ重ねた模様が白で抜いてあった。

 ハジメの装束は白い。コウゾウと同じ同じ模様が、紺で染められている。

「なんだい、その格好は?」

 舞台衣装には見えなかった。その袴姿は、ふたりに馴染んでいた。

「これが本業。占いは余技だ」

 ハジメはそう答えた。

 仕事?

 ふたりの職業はなんなのか。まったく見当もつかない。

「ぼくたちはいわゆる、術士というやつだ」

 ちちんぷいぷい。

 ハジメは印を結んで見せる。

「胡散臭い」

 ニレイさんは吹き出した。

「おうよ。おまけにさっぱり儲からない」

 ハジメは胸を張ってそう言った。


 ババ抜きのビリは、ハジメだった。

「罰ゲームだ。ぼくが奢るよ」

 ハジメは財布を手に座席を立った。そして、あれこれ買い込んで戻ってきた。

「これこれ、特急に乗るときはこれを食わないと」

 ハジメは、冷凍ミカンの皮を剥きはじめた。

「お裾分けだ」

 ニレイさんにも、ミカンがひとつ押し付けられた。

 それを、つまみにふたりはパック酒を飲んだ。

「もうすぐ県境だ」

 ハジメがカーテンを、わずかに開いた。

 列車は高架をわたる途中だった。

 夕日が川面を照らしている。

 県境。しかしハジメの言った単語は、ヒントにならなかった。

 経過時間の感覚は曖昧だ。

 この列車は、どこを走っているのだろう?

「ここは三途の川か?」

 そんな言葉が、ニレイさんの口をついて出た。

「はは、そうかもな」

 ハジメがニヤリとする。


 それからは他愛のない話に終始した。

 ふたりは同年代。住所も東京だ。

 雑談の種にはことかかない。

 この列車の行く先は分からない。

 だが自分でも不思議なくらい、ニレイさんはリラックスしていた。 

「俺の息子たちだ。どうだ可愛いだろう」

 ハジメは財布の中から、一枚の写真を取り出した。

 写真にはふたりの男児が写っていた。

 兄弟はよく似ている。愛嬌のある丸顔。とにかく丈夫そうな子供らだ。

 ふたりとも、カメラの方など見ていない。

 ひとりは3才ほど。口の周りをよだれでペトペト汚しつつ、夢中で積み木遊びをしている。

 もうひとりは、まだ赤ん坊だ。

 畳に仰向けに寝そべって、プクプクした手足をパタパタ動かしているようだ。

 ふたりが兄弟であることは、おそろいの服を着ていることからも分かる。

 母親の手作りなのだろう。兄はシャツ。弟はロンパース。涼しげなカモメの柄だ。 

「上の子は征 (セイ)、下の子は英 (エイ)っていうんだ」

 可愛いだろう。そう言ってハジメは目を細める。

「君には似てないな。お母さん似かい?」

「そんなことはないぞ!手指や、横顔や……ぼくに似ているところもたくさんある」

 この若い父親は、立派な親バカらしい。

「この息子ふたり、あるいはどちらかひとりだけかもしれないが……いずれ俺の仕事を継ぐことになる」

 胡散臭くて儲からない仕事。

 ちちんぷいぷい。

「家業なのかい?」

 そうだ、とハジメはうなずいた。

「でもそれだけじゃない。血よりも濃い絆で、ぼくたちは繋がっている」

 ”ぼくたち”。

 ハジメは、明確に言葉にしたわけではないが。

 ニレイもその輪の中にいる。そのまなざしが言っているようだった。

 ふたりが長話をしていても、コウゾウは目を覚まさなかった。

 寝息の音も聞こえないほど、静かに深く眠っている。


「頼みがある」

「なんだい?」

「将来、一人前になった息子が、あんたを訪ねていくことになる。その時はよろしく頼む」

 これに免じてと、ハジメはニレイさんの手にもうひとつ冷凍ミカンを押し付けた。

 ハジメのふたりの息子は幼い。

 一人前になるのは、何年先になるだろう。

 ちちんぷいぷい。

 一人前の術士とやらになったハジメの息子。

 それが何の用事で、自分を訪ねてくるのだろう?

 そんなニレイの思考を読んだように、ハジメが言った。

「術士なんて、自分とは関わりのないものだ……そう思っているんだろう?」

 しかし目に見えない、邪悪なものは存在する。

「それは、はしかと同じでね。一生罹らない奴もいれば、軽く済む奴もいる……」

 そして命を落とす者もいる……か。

「ゾッとしないな」

 ニレイは眉をしかめる。

「そのために、ぼくたち術士がいるのさ」

 闇と穢れを払い、清めるために。

 ちちんぷいぷい。

「俺はどんな妖怪変化と、会うことになるんだ?」

 ニレイさんが聞くと、ハジメが笑った。

「そんなことは、分からない」

 それを占ってみる気はないようだ。

「しかし何があっても、ぼくの息子たちがあんたを守る」

「息子さんたち……セイくんとエイくんに宜しく」

 荒唐無稽な話だ。でも信じてみるのも面白い。

 ニレイさんはそう思った。

 そしてニレイさんは、ジャケットの胸ポケットに手を入れた。無意識の動作だった。

 そこには、覚えのない懐紙が入っていた。

 紙を広げると、薄桃色の桜貝がひとつかみほど収まっていた。

「前払い金だ」

 ニレイさんはそれを差し出した。

「ありがとう。息子たちに渡しておく」

 ハジメは懐紙を受け取ると、懐にしまい込んだ。

 そして、不意に手を伸ばす。

 彼が掴んだのは、ニレイさんの左手。

 親指をのぞく四本の指だった。

 ハジメの手は冷たく乾いていた。

 次にハジメは、ニレイさんの左頬に触れた。

 穏やかな動作だった。

「なんだい?いきなり」

「おまじないだ」

  ハジメは言った。


  XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX


 この記憶は、終わりもハッキリしないのだ。

 そうニレイさんは言った。

 結局、列車はどこに着いた?

 いつふたりと別れた?

 すべて曖昧に消えてしまった。

「普通に考えたら、こっちの記憶が偽物だ」

 奇妙な装束の、奇妙な男。

  その口から語られた、非現実的な話。

 先日まで思い出しもしなかった出来事。

 しかし、それを夢と振り捨てることは出来なかった。

 その時の車内の風景も、空気の匂いも、ふたりの姿も、ハジメの手の感触も鮮明すぎるほどに鮮明だった。

「きみがここで働き始める前に、きみのところの叔父さんが挨拶にみえた」

 ご丁寧な方だったと、ニレイさんが言った。

「あの人は、あのときハジメくんから紹介された孝三さんで間違いないない」

「……父はどういうつもりで、ニレイさんに触れたんでしょうか?」

 左の四指は欠損。左頬には大きく火傷のあとが残る。

 ニレイさんは、父の触れたその箇所に傷を負っている。

 原因となった交通事故は、父と出会ったその17年後に起こった。

「彼には未来が見えてたってことだろう」

 ニレイさんの言葉に、非難の響きはない。

「見えていたのなら、なぜそれを話さなかった?とは、思わないんですか?」

 聞いていれば、事故を避けることができたかもしれない。

「おまじない。そうハジメくんは言った。彼は俺を、守ろうとしてくれたんだろう」

 ニレイさんは、きっぱりと言い切った。

「みっちゃんのことは残念に思う。でも、それはハジメくんの言葉ひとつで、覆るようなことではなかったんだろう」

 そしてニレイさんは、ぼくに笑いかける。

「はは、そんな顔をするってことは。あれは本物の記憶だったのか」

「……」

 何を言えばいいのだろう。言葉が出てこなかった。

「君のお父さんに、会えてよかった。そしてセイくん、君と草四郎くんにも」

「ありがとうございます」

 深く頭を下げた。

 父を知る大人たちは、父の事を笑顔で話す。

 ニレイさんの話を聞いて、ぼくは初めてその理由がわかった気がした。

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