33.
「セイくんは正月帰らなくていいのか?」
十二月の始め、ニレイさんからそう聞かれた。
「先生たちのご都合さえよければ、ここで年越しさせてください」
ぼくはそう答えた。
アガミの本家は大所帯だ。おまけに神社まで付いている。
ふつうの家庭に比べて、正月準備も大がかりだ。
いったん向こうに行けば、手伝いに追われて松の内まで帰ってこられなくなる。
それに例の特殊な事情がなくても、三人を放ってそんなに休むわけにはいかない。
現在、五島万は年末進行の真っ最中だ。
この殺人的なスケジュールが終わっても、次の締め切りはすぐにやってくる。
「ニレイさんは、ご実家に帰らないんですか?」
「顔くらいは出すべきなんだろうが、どうにも億劫だ」
ニレイさんは肩をすくめた。
サキさんも同様。関西の実家には戻らず、ここで正月を迎える予定らしい。
アリアも祖父母のいる田舎に帰る予定はない。
そして彼女は喪中だ。正月を祝うでもない。
これで全員欠けることなく、ホスピタルで新年を迎えることになりそうだ。
母に餅とおせちを頼むことにしよう。
そして冬には、厄介な問題がひとつあった。
練習室の寒さだ。
アリアの過ごす練習室は、外壁ペラペラのプレハブ小屋だ。
冬の寒さに耐えられる代物ではない。
あんかと石油ファンヒーターを持ち込んだが焼け石に水だ。
板張りの床から冷気がせり上がってくる。
「電気毛布、ここに置いておきますね」
「うん」
ちゃんちゃんこに厚手のセーターで、着ぶくれをしたアリアがうなずいた。
電気毛布どころか、寝袋が必要かもしれない。
「せめて夜は、母屋で過ごしたらどうですか?」
ぼくがアリアにこう提言するのも、何度目か分からない。
「嫌」
アリアはシンプルに拒否した。
四方鏡張りの殺風景な部屋。
まともな家具もない。
理解できないが、アリアはここが落ち着くらしい。
「これ、美術館で買ったんですか?」
「うん」
うなずくアリアは照れくさそうだ。
物書き用の小机に置かれた写真立てに挟まれていたのは、ポストカードだ。
ユトリロの絵だ。
先日、カナと出かけた先で買ったものだ。
快活で、はしっこいカナ。
引っ込み思案のアリア。
正反対だからこそか、ふたりは気が合う。
「学校の友だちとは全然違う。アリアちゃんは、とってもクール。仲良くなりたい」
カナのその言葉に、裏表はないようだ。
そしてひとりっ子のアリアにとって、カナは初めてできたお姉さんだ。アリアも素直な気持ちで、カナに憧れを抱いている。
「ふふ……」
思わず笑みが漏れた。
「なに?」
アリアにジロっと睨まれた。
「なんでもないですよ」
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「草四郎くん、ちゃんとメシ食ってるのか?」
サキさんは、とても目ざとい。
顔色の悪い草四郎に気づいた。
草四郎の疲れには、昨晩のミカさんの言葉の影響もあるだろう。
ぼくはハジメであって、ハジメでない。
苦労性の草四郎は、真面目に考え込んでしまったようだ。
ミカさんの、まったくの気まぐれから出た言葉かもしれないのに。
「少し寝不足なだけです」
「美男子はやつれても様になるな……恋の悩みか?」
余計な一言を付け加えるのも、サキさんは忘れない。
「貰い物の果物がたんとある。滋養になるから、持っていきなさい」
「ありがとうございます」
折り目正しく草四郎は、頭を下げる。
「体調が悪いなら、今日の授業はお休みでいいよ」
気をきかせているつもりなのか、アリアが言う。
いや、自分が勉強をサボりたいだけだろう。
「そんなわけにはいきません!」
必死になって草四郎が反論する。
「ご心配かけてすいません。でも、ぼくは元気です。授業に支障をきたすことなんて、何もありません」
一週間のうちで、たった四時間。
アリアは知らないのだ。
どれだけ草四郎が、この時間を大切に思っているか。
待合室に座卓を出して、テキストを広げる。
アリアの向かい側に座っているとき、草四郎は他では見せない表情をみせる。
アリアに向ける視線は隠しようもないほどに柔らかい。
「始めましょうか。では前回の続き、テキストの77ページから……」
草四郎の仕事ぶりは丁寧なものだ。
傍で聞いていて、感心する。
実際の授業時間の何倍も使って、家で予行練習やら下調べをしてきているのだろう。
「もう少し、バイト代を弾まないといけないな」
サキさんが昇給を申し出たが、草四郎は断った。
「十分いただいてますよ」
仕事にやりがいを感じているのだと草四郎は言った。
「アリアさんは、とても真面目に取り組んでくれています。そして、教えた分以上の結果を出してくれてくれている」
だから教えているこちらも楽しい、と草四郎はいう。
惚れた欲目だ。そう僕は思う。
あくまでも、アリアは小説が第一。
勉強の進捗は牛の歩みといったところである。
「しかしなんだ、その格好は!?草四郎くんが、困るだろう」
サキさんが、嘆息する。
カナが遊びに来たとき、アリアは比較的きちんとした格好をする。
とはいっても髪を結んで、セーターとジーパンを着る程度だが。
同じ年ごろの女子の視線は気にする。
しかしそれ以外の時は、相変わらずだ。
草四郎が意識している10分の1も、アリアは草四郎を意識していない。
きょうもニレイさん所有の舞台衣装を漁って、適当に身に付けている。
上は厚手のセーター、下はテニスのスコートを履いている。
アリアより、小柄な女優にあつらえられたものなんだろう。
白のスコートはつんつるてんだ。
一見しただけでは分からなかったが、床に座るとなかなか際どいことになっている。
「このハレンチ娘が。まともなスカートはいてこい!」
しかしアリアは反論する。
「パンツ見えてない。それに下にタイツも履いているし。セーフ」
「アウトだ」
サキさんがバッサリ切って捨てた。
「めんどくさいな……もう」
ぶつぶつ言いながらアリアは、着替えてきた。
次のスカートも、十分にミニ丈だったが先ほどよりは幾分マシだ。
草四郎はこのやり取りの間、ずっと気まずそうに黙っていた。
「甘いお茶を飲むと、元気が出るから」
休憩時間。アリアが危なっかしい手つきで、紅茶を入れる。
「いただきます」
溶け残るほど砂糖の入ったそれを、草四郎はゴクゴクと飲んだ。
「なんで草四郎先生は、寝不足なの?」
心配そうにアリアが尋ねた。ただの不摂生だとは、思っていないようだった。
「……少々、立て込んでいることがありまして。でも、もう少しで片付きます」
草四郎の答えは、少々歯切れが悪い。
「それは、私に関係のあること?」
そしてアリアは視線を、草四郎に寄り添う子馬のミカさんに向ける。
「……」
草四郎はついに黙り込んだ。嘘など付けないやつなのだ。
夕暮れの世界のミカさんが、アリアの姿で現れたのは最初だけだ。
でも五島万という存在は、あの世界と繋がっている。
共振とでもいうべきなのだろう。現実にこうしているアリアにも、伝わっているものはある。
「大丈夫。僕とセイさんが、あなたを守る。何があってもです」
サキさんは隣のキッチンで夕刊を読んでいる。隣室に届かないくらいの控えめな声量で、草四郎は言った。
「うん」
アリアがこくりとうなずいた。
休憩を挟んで、またみっちり授業を行う。
「勝手に文章を足さないでください。テキスト通りに、ちゃんと訳して」
「あんまり面白くないんだもの。この話」
英語は苦手だ。とアリアは言う。
この時間は横道にそれがちなアリアと、それを引き戻す草四郎の攻防戦だ。
「終わった……」
授業時間が終われば、アリアはテーブルに突っ伏した。
「お疲れ様です。今回の授業のポイントをまとめておきました。次回までに読んでおいてください。あと、これが予習です。テキストを見ながら進めておいてください」
「宿題、こんなに!?」
アリアが抗議の声を上げる。
「これでも抑えたつもりです。お仕事に支障が出てはいけませんから。毎日、二科目たった二ページずつやれば、終わる計算です」
「……善処します」
勉強時間が終わるとアリアがいそいそと、座卓を畳む。
そして座布団にペタンと腰掛ける。
それで待合室が桟敷になる。
ぼくもキッチンから顔をだす。
サキさんも、壁にもたれかかって見物に加わった。
「じゃあ始めます」
草四郎が一礼した。
パチパチとアリアが拍手をする。
家庭教師の時間が終われば、アリアお待ちかねご褒美タイムだ。
ご褒美といっても、なんてことはない。
草四郎の笛の演奏だ。
「草四郎先生の笛が、聞きたい」
ぼくらはアリアに笛と踊りを披露したことがある。
それが存外。気に入ったらしい。
「セイさんも踊って」
「仕事があるんで」
アリアに頼まれたが、断った。
ミカさんため以外に踊るのは、なかなかに恥ずかしいものなのだ。
アリアのための演奏。
草四郎も相当頭を悩ませた。
ミカさんのための以外の曲となると、祭りばやしくらいしか知らない。
草四郎は、一冊の歌本を買い求めた。
童謡と唱歌が載っている本だ。
草四郎は、みっちりと楽曲の練習をして家庭教師の日に臨む。
今日の演奏曲は"アニーローリー"だ。
篠笛の音色で聞くと、聞きなれたメロディも新鮮に感じる。
草四郎はこれが恋の歌だと意識しているんだろうか?
アリアの方も気づいているのか、いないのか。
懸命に演奏する草四郎と、静かに耳を傾けるアリア。
切り取っておきたいほど、絵になる光景だった。
「宮廷楽士とお姫様だな」
サキさんがからかうでもなく、そう評した。
向かい合うふたりの間に言葉はない。
しかし、だからこそ親密な空気が流れていた。




