29.
ミカさんは、 石段を軽やかに進む。
「……」
ぼくらの足はピタリと止まった。
「どうしたの?置いて行くよ」
ミカさんが不思議そうに振り返る。
立ち止まったのは、階段がきついせいではない。
「気をつけて、なにかいる!」
草四郎が叫んだ。
押し寄せてくる瘴気を肌に感じた。
そして、濃密な腐臭。
紛れもないマの気配だ。
「ここには俺しかいない。さっきミカさん、そう言いましたよね!?」
ぼくの必死な顔を見て、ミカさんは皮肉たっぷりに笑う。
「どんな場所にも影はさす」
マなど、形のない取るに足りないものだ。そうミカさんは言いたいらしい。
その表情もニレイさんそのものだ。
悪い冗談のようだ。
前には敵。
しかし踵を返す気にはならなかった。
振り返ると、来た道は消失していた。
この世界は揺らぐ。
歩いてきた参道も、掴み切れなかった人影も、祭囃子もない。
自分の目に霧がかかったようだ。すべてが遠く霞んでしまった。
なるほど、これこそ夢だ。
自分の感覚さえも確かではない。
「お前さんは、心がけが良いな」
ぼくは隣に目をやった。
草四郎はちゃんと篠笛を持ってきていた。
しかしぼくの方は、まるでダメだ。
なんでピッタリとしたズボンなんか履いてるんだ。
「このまま踊れば、ケツが裂ける」
嘆くぼくに、ミカさんが笑いかける。
「真面目に踊れよ。俺はそれが楽しみなんだから」
石段を登りきったところで、先頭を歩くミカさんが足を止めた。
そこには朱塗りの大門が構えられていた。
門は閉ざされていた。
門の向こう側にいるのは”マ”だ。
ぞわりと肌が泡立った。
殺気をもって、それはぼくらを待ち構えていた。
太い閂に手をかけて、ミカさんが問いかける。
「準備はいい?」
「はい」
「…」
ぼくは簡潔に、笛を構えた草四郎は目線で頷く。
ミカさんは力を、少しもこめない。撫ぜるように触っただけだ。
重い音をたて、閂ははずれた。
「___」
驚きの声は、喉の奥で殺した。
間髪入れず躍り出てきたのは、人型の化生だった。
三体。
彼らの昏い双眸がぼくらを捉えた。
ひとりが、しなる腕をぼくに向けて伸ばす。
長く伸びた黄ばんだ爪が、皮一枚のところまで延びてきた。
ーーー。
草四郎が笛に息を吹き込んだ。
その澄んだ音色は、邪悪なものを阻む障壁となる。
”マ”たちは慄き、一瞬その動きを止めた。
そしてぼくは舞をはじめる。
彼らは、数日前に谷さんが打ち倒した”マ”に似ていた。
しかし現実世界で現れた”マ”が影の産物だとするならば、いま目の前にいるのは天然色を帯びた実体だ。
人の服を着せられた血の通わぬ木偶人形。
その首には、腐り果て潰れた顔が乗っていた。
醜悪な三つ子のようだだ。
彼らは白い歯をむき、呪詛の声をあげる。
彼らは敵意に満ちていた。
しかし退く訳にはいかない。
「動きが硬いぜ。ハジメらしくない、ビビるなよ」
ミカさんがぼくに笑いかける。
ミカさんは、ぼくらを守る様に前へと出た。
そして浴衣の帯に挟んでいた、風車を抜き取る。
いつの間にか、それはミカさんの手の中で銀の銃に変わっていた。
カウボーイショーで使うような、銃身と台尻に飾りのついた派手な拳銃だ。
「おまえらなんて、このオモチャの銃で十分だ」
標的を見定め、続けざまに三発打った。
パン、パン、パン。
紙でっぽうのように軽い音だ。
放たれたそれは普通の銃弾ではない。
前衛の”マ”に命中すると、それは弾けた。
”マ”の胸に広がった朱色は、血ではない。
銃弾に籠められていたのは、花だった。
サルビアの花だろうか?燃えるような赤い花吹雪が舞い散る。
それは”マ”たちの腐肉の臭いを打ち消すほどに、強く香った。
「ああああああああ!」
人型の”マ”は、怒りの声をあげる。
「ふっ」
ミカさんは、銃口から立ち上る硝煙を吹くまねをした。
そして芝居っけたっぷりに、ニヒルに笑って見せる。
弾をうけた”マ”は、すぐに倒れはしなかった。
しかしその爪が、ミカさんにかかる事もない。
”マ”はもだえ、弾を受けたその胸を掻きむしる。
ボロボロボロ。
自らの爪が、衣服を、皮膚を、肉を、その下の骨さえもうぐっていく。
体は破片となって、零れ落ちていった。
「ああああああああああああああ!!」
断末魔を叫ぶその顔面さえも、崩れていく。
全ては影。全ては虚ろ。
剥がれ落ちた肉体は、その夕暮れの淡い光に溶けて消えた。
逃れようとする、二体の背に向けてミカさんはまた弾を放った。
赤い花が、また散った。
「ーーーーーーーー!!」
化生たちは、のたうち回り、のどを掻きむしり、胸を引き裂く。
しかし、そこには一滴の血も流れはしない。
「ハジメ、コウ。俺ひとりに働かせて、なにを突っ立ってるんだ?」
草四郎は笛を構えたまま、目を見開いていた。
ぼくも、指先ひとつ動かすことが出来なかった。
現実世界のミカさんはその歌声で、影を払い清める。
こんなに直接的な攻撃をするミカさんなど、想像も出来なかった。
「脆いなぁ。全然足りない。もっとふたりの舞を楽しみたかったのに」
ミカさんの声には、落胆の色があった。
握っていた拳銃は再び風ぐるまへと戻っていた。
「んんっ……」
ぼくもミカさんとおそろいの風車を、自分のベルトに差し込んでいた。
それを手に取り、気張ってみる。
だが風ぐるまは風ぐるまのままだ。銃にはならない。
ぼくらは門をくぐった。
白い石畳の道が続いている。
その先には朱塗りの欄干の橋がかかっている。
進んでいけば、拝殿があるはずだ。
「次の鳥居はまだ遠いよ」
しかしミカさんが言った。
橋は境界の印だ。渡ればまた一段、この世界の深部に潜る。
ぼくらの頭上には変わらず、夕暮れの空が広がっている。
ここに来てから、どのくらい時間が経ったのだろう。
「これが夢なら、目が覚める前に少しでも進んでおかないと」
草四郎が前に出る。
「コウ、危ないよ」
ミカさんが草四郎を窘める。
そしてぼくらは橋の手前で足を止めた。
「あっちを見てご覧よ」
ミカさんが指さす橋の向こうには、こちら側と様子の変わらぬ道が続いているだけだ。
変わったものは何も見えない。
ミカさんは帯から風ぐるまを抜き取った。
すると、それは再び銃へと変わる。
「ふたりとも注意散漫だよ。あの音が聞こえないのかい」
「なにも聞こえませんが……」
自信なさげに草四郎が答える。
「ハジメは?あそこに何が見える?」
「何も見えません」
「本当にそう?」
ミカさんが重ねて聞いた。
そして銃弾を放った。
「ーー!!」
音もなく、鏡面のように空間がひび割れた。
その裂け目から、闇がのぞいていた。
裂け目はみるみるうちに広がっていく。
そして音が聞こえてきた。
ザッ、ザッ、ザッ。
砂利を踏む、規則的な足音。
なんだ?
何が来る?
裂け目の向こうに広がる闇は深かった。
「それっ」
掛け声をあげ、ミカさんは手にした銃を振りかぶって投げた。
それは、赤く燃える火球となった。
火球はうなりを上げ、裂け目の向こうへと飛んでいく。
そして炎は化生たちを薙ぎ払い、包み込む。
火柱が上がる。
一体、二体。
人の形をした”マ”が倒れる。
しかし、それでは終わらなかった。
炎に照らされ、群れの全容が明らかになった。
「こんなに……」
ぼくは呻く。後の言葉が続かなかった。
鳥、蛇、虫……
人の像に、種々の畜生たちが絡み合っている。
現れた”マ”は、一体として同じ姿をしていなかった。
瘴気より生まれた、血の通わぬ魔物たち。
「ーーーー!」
人語を解さぬ、それらが咆哮する。
味方が倒れても彼らは歩みを止めない。
五……いや十でも足りない。
闇の中から影は湧き出て、像を結んでいく。
向こうとこちらを隔てていた壁は壊れた。
空間はまもなく完全にひとつになるだろう。
このままでは殺到してくる”マ”に推し潰されてしまう。
ぼくらはミカさんとともに”マ”と対峙してきた。しかしこんな多数を、向こうに回したことはなかった。
「もらうよ。俺のは使っちゃったから」
ミカさんは、ぼくのベルトから風ぐるまを抜き取った。
微塵の恐れも気負いもない。
ニレイさんの姿で悠然とたたずむ。
「今度はこれにしよう」
おもちゃ箱のなかから遊び道具を選ぶような、口調で風ぐるまを振る。
そしてミカさんが、手にしたのは抜き身の大太刀だ。ともすれば地面を擦りそうなくらい、刀身がある。
構えも何もない。
チャンバラごっこをする子供だ。
目が爛々と輝いている。
「ふたりともいくぜ」
そしてミカさんは、刀を振りかぶる。
そうだ。
ぼくらふたりにできるのはそれだけだ。
草四郎が、笛を奏でる。
ぼくは舞う。
強い風が、巻き起こった。
ーーすごい。
内心でぼくは感嘆の声をあげる。
この夢の中で、色をおびて力を増したのは”マ”だけではない。
ぼくらの舞を受け、ミカさんの刀身が光を放つ。
「ーーーーー!」
横なぎにした刃に、二体の”マ”がかかった。
彼らは叫び声をあげる間もなくかき消えた。
「いいぞ。ふたりとも、その調子その調子」
ミカさんは返す刃で鷲の頭を刈り取る。
”マ”たちはミカさんに触れることすら叶わない。
戦いながらも、ぼくらの舞を楽しんでいる。
草四郎の笛の音色を、ぼくの躍動を乗せて、ミカさんは刃を振るった。
このままでは全滅だ。
”マ”たちはそれを悟ったようだ。
まとった影を集結させ、その身体凝縮させていく。
闇が晴れ現れたのは、狗二匹。暗闇から生まれた者だ。
その両目はうつろに白く濁っていた。
熊ほどにも大きい狗だ。
しかし先ほどまでの得体のしれない化け物ではない。恐怖はもう感じなかった。
正体が知れてしまえば、あっけない。
ミカさんは、刃を振り下ろす。
「よっと」
一匹の前肢が、落とされた。
更に一撃。
首が飛ぶ。
同じように残りの一匹も葬った。
血は一滴も流れなかった。
ミカさんの手から、刀が消えた。
辺りから闇は消え、夕暮れの空が戻っていた。
だがぼくらはまだ舞を続けていた。
気分は高揚していた。
感覚はひどく研ぎ澄まされている。
草四郎の笛の音が、身体中をめぐる。
鎖から解き放たれたかのように、自由に、翔ぶように、ぼくは舞った。
『なぜアガミの術師に、花の名が付けられているか。そのわけを知っているか?』
先輩の術師に問いかけられたことがある。
花は散る。
それが理由だと教えられた。
舞うたびに、満開に咲き、散る。
舞うたびに、ぼくたちは一度死ぬ。
人の世を離れて、ミカさんに寄り添うために。
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
何の前触れも、わずかな隙間もなかった。
気づけば、ぼくは深く椅子に腰かけていた。
『コーヒー300円
紅茶(レモン/ミルク)350円
ピザートースト(ミニサラダ、コーヒーまたは紅茶付)650円』
テーブルの上に、小さなメニュースタンドがあった。
紙ナプキンの入れ物と、シュガーポットに塩入れも備えられていた。
四人用の席だ。
ぼくの隣には草四郎、向かいにはミカさんがいる。
喫茶店だ。
しかも知っている店だ。
方城社の入っているビル、地下一階にある喫茶室。
店名はたしか「クラウン」。
先日は本物のサキさんのお供で、その店に行った。
谷さん相手の打ち合わせだった。
ミカさんがタバコに火をつける。銘柄はラッキーストライクだ。
ミカさんの姿は、ニレイさんからサキさんのものへと変わっていた。
サキさんはなぜか燕尾服だった。
ちゃちな仮装ではない。
そのまま夜会へと繰り出せそうな、洒落たあつらえだ。
洒落たアスコットタイをしめ、胸のポケットには白いハンカチーフが差し込んでいる。
なんで、この場所とこの服を選んだのか。
おそらく意味などない。
さっきのオモチャの拳銃と刀と同じだ。
たぶんミカさんの気まぐれだ。
頭が痛くなってきた。
「クリームソーダを三つ」
ミカさんがぼくらの分まで、勝手に注文した。
ウエイター?それともウエイトレスだったか?
注文をとった人物は、確かにそこにいたはずなのだが。
若かったのか。年かさだったのか。
太っていたのか、痩せていたのか。
ぜんぶが曖昧だ。
注文を終えて、その人物が背を向けた瞬間、ぼくの記憶から落ちてしまった。
「ここはどこなんですか?さっきまでぼくらがいた場所はどこに消えてしまったんですか?」
ミカさんに尋ねた。
「ここは俺。ぜんぶ俺」
ミカさんの言うことはよく分からない。
三人前のクリームソーダが運ばれてきた。
ソーダのみどり、赤いサクランボ、そしてバニラアイスの白。
完璧なクリームソーダだ。
「美味い」
思わずため息がもれた。
弱い炭酸。強烈な甘味が体に染みわたる。
半分ほど一気に飲む。
「なんでミカさんは、五島万の先生たちの姿をしているんですか?」
長いスプーンでサクランボをつつきながら、草四郎が尋ねる。
「空に穴が開いて、小説家が降ってきた」
ストローを使わず、ミカさんはソーダ水をぐびりと飲んだ。
そして新しいタバコに火を点ける。
その仕草はサキさんそのものだ。
「……」
ぼくの表情をみて、ミカさんはトンと自分の胸を叩いてみせた。
「ここに欠片が入っている」
そしてミカさんは五島万の姿を借りた。
「小説家の次に穴を通ってきたのは、あの影たち。とてもたくさん」
やれやれ、とミカさんはため息をつく。
ミカさんにとっては、恐ろしい”マ”も害虫と変わらないらしい。
「穴というのは?」
草四郎の質問に、舌足らずにミカさんは答えた。
「呪文のせい。悪い奴が唱えた」
やはり十日町の件だ。
どうして、その呪いがミカさんの元にまで及ぶ?
「ハジメの隠した目が、その声で起きちゃった。だから空に穴が開いた」
「……!」
ぼくらふたりは顔を見合わせた。
目か。
この世界に隠されている目が、十日町の声に応えた。
そうミカさんは言ったのだ。
魔眼は生きている。
「飲み終わりましたか?さっさと出ましょう」
草四郎が椅子から立ち上がる。慌てるのも無理はない。
そして五島万の三人の欠片がここにある。ミカさんはそうも言った。
彼らにも余波は及んでいるということだ。
しかし焦る草四郎をミカさんが引き留めた。
「歩くだけが、進むことじゃない。ゆっくりしよう」
ぼくは顔のない店員を呼び止めた。
「すいません、ミックスサンド1つ」
「セイさん!」
「怒るなよ。ここはミカさんの世界なんだ。従うしかないだろう」
「……じゃあ、ぼくはナポリタンをお願いします」
草四郎も便乗する。
払いはミカさんにお願いすることにしよう。
ミカさんの話は分かりづらい。
しかしだいたい輪郭が掴めてきた。
ここはミカさんの胃の中だ。
ぼくら阿上が現実世界で打ち倒した”マ”は、煙のように消えてなくなるわけではない。
彼岸だか冥土だか、現実の向こう側へ。
ミカさんを通り、彼らは次の世界におくられる。
ここは本来は形のない、ドロドロした混沌だった。
「この風景は、ぜんぶ五島万由来のものか……」
ぼくはミックスサンドをほおばった。見た目も味も、現実の店そのままだ。
この世界に色を付け、形を与えているのは五島万だ。
記憶、感情。
無意識の奥底まで吸い上げられる。
内面の全てが材料になってしまう。
「さきほどの参道も、このミカさんの突飛な恰好も、サキさんの記憶の中にあったものなんでしょう」
ナポリタンの最後の一口を啜りながら、草四郎がこたえる。
そういえば五島万は燕尾服で殺される男の出てくる、ミステリを脱稿したばかりだった。
「ぼくらも気を引き締めないといけませんね。なにを掬い取られるか分からない」
草四郎がいう通りだ。
現実世界よりも顕著に、この世界では恐れの感情は色をおびる。そして”マ”の力を強めてしまうだろう。
ミカさんは、また一本タバコに火を点けた。
話し合うぼくら二人をミカさんは、退屈そうに見やる。
「ハジメは踊る。コウは笛を吹く。俺は歌う。それだけのことだ。なにをゴチャゴチャいう必要があるんだ?」
斜な物言い。
その表情。
サキさんの影が濃い。
ミカさんとサキさんが、マダラに溶け合っていた。
「そろそろだな」
店内の壁掛け時計をみて、ミカさんが言った。
時計盤面には針も、数字もない。まったくの、のっぺらぼうだ。
「そろそろって何がです?」
ぼくは尋ねた。
「帰る時間。出よう」
溶け切ったアイスクリームの最後の一滴を飲み干し、ミカさんは立ち上がる。
律儀に、ミカさんは店の奥に向かって声をかけた。
「ごちそうさまでした」
無人のレジに、ミカさんが支払ったのはやはり桜貝のお金だった。
喫茶店の扉の外には、都会の街並みが広がっていた。
ぼくらが通ってきた参道など跡形もない。
表通りで流しのタクシーを捕まえた。
「駅まで」
顔のない運転手に、ミカさんが行き先を告げた。
ミカさんはいつの間にか、地図を手にしていた。
体裁は、書店で売られているごく普通のロードマップ。
しかし中身は地図の体をなしていなかった。
ページにはびっしりと、青いインクで文字が書かれている。
かな、漢字、アルファベット、ギリシア文字……あらゆる言語の文字と記号。ひとつの単語として成り立っていない。意味の分からぬ羅列だった。
だが、ミカさんには意味のある物なのだろう。
着いたのは東京駅だった。五分もかからなかった。
先ほどタクシーが走っていた道は、方城社の近くだったはずだ。位置関係がめちゃくちゃだ。
空は相変わらずの夕暮れだ。
ここが現実世界であるなら、駅は仕事帰りの勤め人で溢れていただろう。
でも、我々の他に人ひとり見当たらない。
無人の改札を飛び越えて、無賃乗車の旅に出発だ。
ε番線上りホーム。
行先の表示は、暗い影がかかったようにいくら目を凝らしても読み取れなかった。
「もうすぐ電車がくるよ」
頭上の表示板にはなんの案内も出ていない。
しかしミカさんは、ちゃんと表示がみえているらしい。
「この場所に戻ってこられるように、くさびを打つ」
印を結ぶというには無造作に、ミカさんは両手をひらめかせる。
サキさんの姿をしていても、やはりこのひとはミカさんだ。
「ハジメ、コウ、じゃあね。また向こうで会おう」
最後まで結局、本当の名前では呼んでもらえなかった。
列車がやってきた。
しかし、ぼくは目覚め始めている。
現実に引き戻されていく。
感覚が、景色が徐々に遠くなっていく。
XXXXXXXXXXXXXXXXX
「…………はぁ」
掠れたため息が洩れた。
いつもの布団の中だ。
ここが現実だ。
腑に落ちるまで、少し時間がかかった。
夜明けまでには、まだ時間がある。
だが寝なおせば、悪夢を見る予感がする。
びっしょりと寝汗をかいていた。
シャワーを浴びたが、気のたかぶりは収まらなかった。
思い立ってぼくは、サキさんの部屋の前までいった。
ドアからは明かりが漏れている。
夜明け前はサキさんの、ピークタイムだ。
集中して原稿と向き合っている。
彼はここで仕事中だ。
あれはミカさんではない、現実のサキさんだ。
分かっていても、胸がざわめく。
睡眠中のニレイさんの様子を見に行くことは流石に遠慮した。間違って起こしてしまっては悪い。
その代わり衣装部屋の和室に入り、行李を開く。
自分でもどうかしている。
そうと思いながらも、確かめた。
そこには浴衣が入っているはずだ。
ニレイさんの姿をしたミカさんが先ほどの夢の中で着ていたものだ。
それはキチンと、白い衣装袋をかけられてしまっているはずだった。
しかし浴衣は、箱の底でグシャグシャに丸まっていた。ぼくはそれをを取り出して、顔を寄せてみた。
微かな汗の匂いに混じって、ツンとした異臭が鼻を付く。タバコの匂いとはまた違う、鋭角な火薬の香りだ。
先刻、ミカさんはを浴衣を着て拳銃を撃った。
あの世界で起こった出来事は、この現実にも微かな痕を残していた。
午前六時。
サキさんが、寝る前の夜食をとるために台所にやって来た。
「おや?早いな」
キッチンテーブルで、ワープロと向き合うぼくを見て、驚いたようだ。
これから寝て起きてからサキさんは、ちゃんとした食事をとる。この時間に食べるのは軽食だ。
乾麺のうどんやソバ、インスタントラーメンを自分であつらえて食べることが多いようだ。
「ぼくが作りますよ。ご相伴させてください」
有り合わせの材料で、玉子丼を作ることにした。
夜通しペンを快速で走らせていた、高揚感が残っているようた。サキさんは、軽い躁状態だった。
玉ねぎを刻むぼくの後ろで、何やらごそごそ動いている。
「食前酒だ」
下戸のくせにそんなことを言って、サキさんがグラスをかかげる。
「どうだどうだ。大傑作だろう」
食器棚の一番大きなグラスに、たっぷりの氷を入れて。
缶コーラを注いで、そこに大ぶりのスプーンでバニラアイスをのせる。
サキさんがこしらえたのは、即席のフロートだった。
「本当はソーダ水で作って、サクランボも乗せたいところだ」
先ほどの夢の中にも登場した、クリームソーダ。
これが偶然とは思われない。
さきほどの夢の記憶はサキさんにはない。でも確かに繋がっていた。
「美味しそうですね。ぼくにもください」
「OK。アイスを大盛りにしてやろう」
サキさんは上機嫌だった。




