23.
午後十時。
そろそろサキさんの原稿が上がってくる。
さっさと食器洗いを終えて、寝る前にまた一仕事だ。
そんな時だった。
ーーーーブツッ。
ふいに音が響いた。
耳元で何かの線が、勢いよく引き抜かれた。そんなくぐもった炸裂音だ。
耳を押さえて振り返る。しかしその音の原因になるようなものは見つからない。
「……ミカさん?」
小声で聞いてみた。いまミカさんの気配がした。
しかし姿がない。これもぼくの気のせいのようだった。
嫌な予感がする。いやこれは予感で終わらない。
「ちょっと出かけてきます」
ぼくはサキさんに声をかけると、ジャンパーを羽織り外に飛び出した。
幸いまだ電車は動いている。
草四郎はまだ下宿に戻っていなかった。
ちょろまかしてあった合鍵を使って中に入る。
谷さんの勉強会とやらは、いつまでかかるんだろう?
食卓兼勉強机のちゃぶ台の上に、本が置いてあった。
『水曜日への架け橋』。
五島万の新刊だ。ぼくが清書係に入る前の作品だ。
それを読みながら、待たせてもらうことにする。
日付が変わった、丁度そのとき。
「ちょっと部屋は何号室?」
「大丈夫?歩けるか?」
このアパートの前の路上から、声がした。
酔っぱらいの同僚でも送ってきたのだろう。
しかし、彼らが立ち止まったのはこの部屋のドアの前だった。
「ん?鍵空いてるじゃん」
ドアを開けて入ってきたのは、草四郎。
そして見知らぬ男女がふたりだ。
「ラッキー!セイくん、ここにいたんだ」
ぼくに指を突きつけたのは、ブレザーの制服をきた女子だった。
白のハイソックス、茶のローファー、薄い紺色のコートとチェックのマフラー。
ごく普通の女子高生の恰好。
ひとつだけおかしいのは、彼女がお面を被っていることだ。
プラスティックのキツネの面だ。
セイくんと呼ばれたが、こんな子知らない。
「電話で呼びだそうと思ってたところだよ。こんな状態で置いとけないから」
キツネ面の少女がいう通り、草四郎は立っているのもやっとという有様だった。
スーツ姿の中年男の方は面を付けていなかった。
彼の肩に草四郎はぐったりともたれている。
キツネの話によれば、勉強会の会場を出た草四郎は道の途中でへたりこんでいたらしい。
それを拾って、ここまで届けてくれたそうだ。
「うちの草四郎が、お世話をおかけしました」
まずふたりにお礼をいっておく。
敷布団をしいて、野袴姿のままの草四郎を寝かせた。
「すいません……セイさん」
草四郎の意識はハッキリしていた。
「ただ、ひどい眩暈がするんです……まっすぐ立っていられない」
「分かった。寝てろ」
草四郎に毛布をかけてやる。顔にまるで血の気がない。
「ナカマルさん、先に車に戻っていて。わたしはこのふたりと、ちょっと話しがあるから」
キツネの女子高生は、サラリーマン風の男にそう言いつけた。
そしてひとり残った彼女は、部屋の真ん中に腰を下ろす。
「あなたも勉強会に参加されていたんですか?」
ぼくは彼女に尋ねた。
「そうだよ」
なにがおかしいのか、キツネはくすくす笑う。
「何があったんですか?どうしてこいつは、こんなことに?」
「草四郎くんは勝手に走って、ひとりで転んじゃったんだよね」
キツネがからかうように、そう言った。
草四郎は勉強会で何かをしでかしたらしい。
「詳しいことは、あとで本人に聞けば?セイくんもくれば良かったのに」
ぼくが行かなかったのは、呼ばれなかったからだ。
ぼくらの話し声が聞こえているのかいないのか。
草四郎は固く目をとじていた。
「ねえセイくんは、草四郎くんの先輩なんでしょ?やっぱりセイくんの方が強いの?」
「……ぼくが上なのは年だけ、草四郎は同僚です」
反応が遅れた。いきなり何を言い出すんだ?
アガミの術士に強いも弱いもない。
しかし顔を見せず名乗りもしない相手に、丁寧に説明する気もなかった。
「ふーん、そうなんだ。でもわたしは、セイくんと組みたかったな」
「組む?」
「そ」
キツネは頷く。
「草四郎くんは、周平さんに気に入られたみたい。私たちと一緒に働くことになる」
周平さん。
それが谷さんの下の名だと思いだすのに、少し時間がかかった。
「じゃあ、わたしはそろそろ帰るね。こんな遅い時間に、男の子の部屋にいたなんて……お母様にバレたら叱られちゃう」
キツネは立ち上がった。
「草四郎くん、早く良くなってね」
最後に草四郎にそう声をかけて、キツネは帰っていった。
あの制服、そして『セイくん』と呼んだあの声……
記憶のどこかに引っかかる。
ぼくはどこかで、キツネと会ったことがあるのだろうか?
しかし思い出せなかった。
草四郎は朝方から、熱を出した。
「完全に知恵熱ですね……」
「あんな薄着で外を歩くからだろ」
「きょうの家庭教師、伺えそうにありません。アリアさんに、申し訳ありませんと伝えてください」
「わかった。ゆっくり休め」
昼にお粥でも持ってきてやろう。
始発電車が動くのを待って、ぼくはホスピタルに戻った。
「草四郎先生、まだ風邪が治ってないんじゃないの?」
本人は隠しているつもりなのだろうが、アリアにまで伝わってしまった。
明らかに、草四郎のまわりの空気がどんよりとしている。
家庭教師の授業が終わって、いまはキッチンテーブルでのティータイムだ。
潤沢にある編集者からの差し入れ。ぼくらは大福、アリアは醬油味のおかきを緑茶でいただく。
「はい。たくさん食べて元気になってください」
アリアが箱の中から大福をひとつ取り上げ、草四郎の皿に乗せる。
「ありがとうございます。ご心配をおかけして申し訳ありません」
草四郎が律儀に頭を下げる。
「でも本当に、もう大丈夫なんです」
「こいつはね。ミカさん……ウチの守り神様と喧嘩して、それで落ち込んでるんですよ」
「セイさんっ、いきなりなにを言い出すんですか!」
草四郎に睨まれたのだが、いまは我々三人きりだ。
アリアにミカさんのことを聞かれても構わないだろう。
「神様と喧嘩?そんなことあるの?」
アリアが小首をかしげる。
喧嘩なのか?
ぼくもそう言ったが、疑問の余地が大いにあった。
確かに、例の勉強会の晩以来ミカさんは姿を見せなかった。
しかしミカさんは気まぐれだ。
好きな時にやってきて、好きなときに去っていく。
これまでだって何週間か訪問の間が開くこともあった。
しかし草四郎は、完全に自分が悪いと思っているようだ。
「ぼくが勝手なことをして、ミカさんを怒らせてしまったんです」
それっきり黙り込む。
「…………」
アリアもそれ以上、なにも尋ねなかった。なんと言って励ませばいいのか分からなかったからだろう。
勝手なことをした。
草四郎が言ったのは、谷さんの力を借りての一撃の事だ。
そのとき草四郎はミカさんの声を聞いた。
それは警告の声だ。
そのあと訪れたのは、痛みにも似た強烈な感覚だ。
ミカさんと自分を繋いでいた糸が、断ち切られてしまった。
草四郎はそれを感じ取ったらしい。
ミカさんが怒って行ってしまった。
そんなのは草四郎の思い込みだ。
ぼくはそう思っている。
ぼくもそのとき、草四郎に何かが起こったのを感じた。
しかし、それは他のアガミの先輩たちも同じだろう。
ぼくがミカさんの力を使ってチンピラとやりあった翌日、双子の先輩は様子を見に来た。
しかし今回はなんの連絡もない。
ということは、大した話ではないんだろう。
ぼくは草四郎の感覚よりも、先輩方の判断を信じる。
そうだ。
谷さんのイタズラごときで、ミカさんとぼくらの結びつきが揺らいでたまるか。
「ご馳走様です」
草四郎は大福を二つどうにかやっつけた。ふだんなら五個は軽いのに。食欲もないらしい。
「それでは、アリアさん。プリント二枚、次回までの宿題です」
最後に先生として恰好をつけて、きょうはこれでおしまいだ。
「ちょっと待て」
しかしぼくは草四郎を引き留めた。
「食後の余興だ。一曲吹いてくれ。笛、持ってるんだろう?」
「しかし……」
草四郎は躊躇いをみせる。
「怖いのか?自分の不安を確かめるのが」
笛を吹いても、もしミカさんが答えてくれなかったら……
草四郎はそれを恐れていた。
「あの……」
アリアがおずおずと手をあげた。
「先生の笛、わたしも聞きたい」
「……」
草四郎は、ながいため息をついた。
「分かりました」
覚悟をきめて、草四郎は笛を構えた。
柔らかい音色が響く。
一曲、二曲……
まだ半人前である草四郎が覚えている、アガミの曲はそれだけだ。
しかしそれを吹き終えても、ミカさんは姿をみせない。
だが、それでも草四郎はぼくに助けを求めなかった。
ぼくが踊れば、ミカさんがきてくれるかもしれない。
でも自分ひとりの力で、ミカさんを呼ばなければ意味がない。
草四郎は考えているようだった。
草四郎は二巡目の演奏に入った。
切々と草四郎は、笛を奏で続けた。
しかしミカさんがそれに答えることはない。
あと一分もかからず、曲が終わる。
その時に歌声がそこに加わった。
アリアだ。
「ーーーーー」
笛の音に合わせて、いま覚えたばかりの旋律を歌う。
高く、透き通った声だった。
空気が揺らぐ。
窓から差し込む夕日が、光が形を帯びた。
銀のたてがみが、きらめく。
草四郎の仔馬のミカさんだ。
”ーーーー”
ミカさんは嬉しそうに、アリアにその鼻を擦り付けた。
「ありがとうございました。本当に……アリアさんのおかげです」
礼をいう草四郎の目が潤んでいる。
「わたしは別に、何も……」
照れて真っ赤になったアリアはうつむく。
アリアはそう言うが、先ほどの歌は草四郎を助けたいという気持ちからでたものだろう。
ミカさんはご機嫌だ。アリアにじゃれつき、離れようとしない。
まるで何ごともなかったかのようだ。
問題は解決。
めでたしめでたし。
しかし、残された疑問がある。
谷さんはあの時、草四郎になにをしたんだろう。
ミカさんの力に寄らず、草四郎が放った術。
金色のつむじ風。
『これが、本来の君の力だ』
谷さんは草四郎にそう言った。
「あんなこと……二度とできません。試したいとも思わない」
草四郎は激しい嫌悪を浮かべる。
力か……。
生まれつき欠けた部分のあるぼくは、それを得ることを諦めている。
あの場に招かれ、可能性を示されたのが草四郎ではなく、ぼくだったら。
その希望に、すがりつきたくなってしまったかもしれない。
そんな迷いが生まれるのも、ぼくが弱いせいだ。




