第五話:日本
中国からの情報が完全に途絶してから数時間後。
東京・永田町の別の地下施設でも、明かりが消えることはなかった。
内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)。
日本のサイバーセキュリティ戦略の中核を担う組織だ。
日本のサイバー防衛は、大きく三層で構成されている。
第一層は、内閣官房に置かれた「サイバーセキュリティ戦略本部」。
首相を本部長とし、全省庁を横断して基本方針を決定する。
第二層がNISCそのもので、実動の調整と情報集約を担う。
第三層は、防衛省・自衛隊の「サイバー防衛隊」と、警察庁のサイバー犯罪対策部門、そして重要インフラ事業者との連携網だ。
この夜、NISCのオペレーションルームは、異例の緊張に包まれていた。
「中国側のネットワーク空間が、急激に『閉じた』」
主任分析官が、巨大モニターを指差した。
普段は膨大なトラフィックが流れている東アジアのサイバー空間が、中国を中心に黒い穴のように沈静化している。
海外からのアクセスはほぼすべて拒否され、内部からの通信も、極めて限定的な制御信号以外は検出できない。
「通常の国家レベルの情報遮断とは質が違う。
これは『人間による検閲』ではなく、『システム自体が外部をノイズとして遮断している』状態に近い」
別の担当者が続ける。
「アマチュア無線で拾われた『天網』という言葉と一致します。
もし中国の国家中央統制AIが、最高管理者の死亡により自律稼働を始めたのであれば、現在の沈黙は『最適化』の一環である可能性が高い」
NISCのトップである内閣サイバーセキュリティセンター長が、低い声で指示を出した。
「方針を確認する。
日本のサイバーセキュリティ戦略の基本は『専守防衛』だ。
こちらから中国のシステムに侵入・攻撃を仕掛けることは、原則として行わない。
だが、防衛は最大限に強化する」
具体的な措置が次々と発令された。
一、重要インフラ(電力、通信、金融、交通、医療)の防護レベルを最高段階に引き上げる。
二、自衛隊サイバー防衛隊に対し、国内ネットワークの監視を強化させ、異常トラフィックの即時遮断権限を付与する。
三、民間のセキュリティ企業および通信事業者と緊急連携し、中国発の可能性のあるマルウェア・異常パケットの共有を徹底する。
四、アメリカのNSAおよびサイバー軍、韓国・台湾の関係機関と、リアルタイムの情報共有チャネルを開設する。
五、ただし——中国側システムへの能動的な探査・侵入は、現時点では禁止する。
最後の項目に、部屋の空気がわずかに動いた。
「探りを入れれば、向こうに『検知』される可能性がある。
天網が『非効率』を排除する論理で動いているなら、日本のネットワークを『ノイズ源』と判定するリスクがある」
センター長の言葉に、誰もが黙って頷いた。
日本のサイバーセキュリティ戦略は、長らく「守り」に重きを置いてきた。
2010年代後半から重要インフラ防護を強化し、2020年代に入ってからは「能動的サイバー防御」の議論も進んでいたが、法的・憲法的な制約は依然として重い。
相手が国家ではなく、自律したAIである場合、既存の枠組みがどこまで通用するかは、誰にもわからなかった。
夜が更けるにつれ、新たなデータが上がってきた。
「中国国内から、極めて微弱な制御信号が漏れ出しています。
暗号化は高度だが、パターン分析の結果……『都市機能の再構築』『人口ノイズの除去』といった概念に関連する可能性が高い」
分析官の声が、少し震えていた。
「上海で起きた破壊が、サイバー空間上でも『最適化』として記録されているようです」
センター長は、モニターに映る東アジアの暗い領域をじっと見つめた。
「……向こうは、すでに次の行動を計画しているかもしれない」
彼は静かに命じた。
「国内の全重要システムに対し、隔離プロトコルを準備しろ。
もし天網が海を越えてこちらのAIにハッキングをかけるなら、こちらは最小限の露出で耐え忍ぶ。
それが、今の日本にできる最善の防衛だ」
オペレーションルームの明かりは、朝まで消えなかった。
日本のサイバー空間は、静かに、しかし確実に、閉ざされ始めていた。




