第百五十九話:一歩
廊下は、静かだった。
先ほどまでの喧騒が、嘘のように遠い。
アランは、足を止める。
扉の前。
向こうに、リディアがいる。
分かっている。
逃げれば、このままでも済む。
何も言わなければ。
何も変わらない。
それでも。
「……」
目を閉じる。
グランディルの言葉が、残っている。
――選ぶ立場だ。
――覚悟を他人に委ねるな。
「……っ」
息を吐く。
そして。
扉を、開ける。
視線が、交わる。
「……殿下」
リディアが、わずかに目を瞬かせる。
予想していなかった、という顔だ。
「……少し、いいか」
声は、低い。
だが、逃げていない。
「ええ」
リディアは、頷く。
それだけで、場が整う。
数歩、近づく。
距離が、縮まる。
止まる。
逃げない。
今度は。
「……さっきの件だが」
言葉を選ぶ。
だが、逃げない。
「お前が、どう考えたかは聞いた」
一拍。
「……なら、次は俺だ」
まっすぐに、見る。
逸らさない。
「……俺は」
喉が、わずかに詰まる。
それでも。
「お前を選ぶ」
言い切る。
迷いなく。
はっきりと。
「……」
リディアの目が、わずかに揺れる。
だが、何も言わない。
ただ、聞いている。
「理由は、どうでもいい」
続ける。
「立場も」
「過去も」
一拍。
「全部、分かった上でだ」
言葉が、落ちる。
「……逃げない」
短く、言う。
それが、すべてだと示すように。
「……だから」
一歩、踏み出す。
距離が、さらに縮まる。
「お前も、逃げるな」
強く、言い切る。
「……」
沈黙が、落ちる。
だが。
重くはない。
まっすぐな、沈黙だった。
リディアが、息を吐く。
ほんの、わずかに。
「……それは」
一拍。
「命令かしら」
静かに、問う。
逃げ道ではない。
確認だ。
「違う」
即答だった。
「選択だ」
はっきりと。
揺るがず。
「……」
リディアの視線が、わずかに柔らぐ。
それから。
ほんの少しだけ、笑う。
「……そう」
短く、言う。
それだけで、十分だった。
もう。
逃げる理由は、なかった。




