第百五十三話:たった一度の権利
沈黙が、続く。
誰も、すぐには動けない。
言葉も、出ない。
その中で。
ルカが、一歩踏み出す。
「……」
足音は、静かだった。
だが。
その一歩だけで。
場の空気が、変わる。
誰も、止めない。
止められない。
その理由を。
全員が、理解しているからだ。
ヴァルの前で、止まる。
距離は、腕一つ分。
それ以上、近づかない。
「……一発だ」
低く、言う。
抑えた声。
だが。
揺れている。
「一発でいい」
一拍。
「殴らせろ」
それだけだった。
それ以上は、言わない。
説明もしない。
理由も、語らない。
必要がないからだ。
「……」
ヴァルは、動かない。
視線も、逸らさない。
「……好きにしろ」
短く、答える。
「逃げも、隠れもしない」
受け入れる。
そのまま。
すべてを。
「……」
ルカの拳が、握られる。
震えている。
力が、こもる。
だが。
躊躇いが、ある。
一瞬だけ。
ほんの、わずかに。
目を閉じる。
そこにあるのは。
怒りだけではない。
もっと、深い。
消えない何か。
それでも。
振り抜く。
躊躇いごと。
そのまま。
拳が、届く。
鈍い音が、響く。
ヴァルの体が、わずかに揺れる。
だが。
倒れない。
踏みとどまる。
受け止める。
そのまま。
「……っ」
ルカの呼吸が、乱れる。
拳は、下ろされる。
それ以上は、しない。
約束通り。
一度だけ。
「……」
誰も、動かない。
音も、ない。
ただ。
そこに残るのは。
一つの、事実。
そして。
消えないもの。
ルカは、何も言わない。
言えないまま。
ただ、そこに立っていた。
音のない時間が、しばらく続く。
ルカの拳が下ろされてからも。
誰も、すぐには動かなかった。
その中で。
ユリウスが、一歩踏み出す。
視線は、ヴァルへ。
逸らさない。
「……」
怒りは、消えていない。
だが。
それだけではない。
別の感情が、そこにある。
「……父上がお許しになり」
静かに、口を開く。
「お前を信じているのなら」
一拍。
「何も言いません」
言葉は、丁寧なまま。
崩れない。
「何もしません」
はっきりと、続ける。
それが、自分の選択だと示すように。
「……」
ヴァルは、何も言わない。
ただ、聞いている。
「ただし」
ユリウスの声が、わずかに落ちる。
一歩、さらに踏み込む。
「父上のことは」
視線が、より鋭くなる。
「命にかえても、お守りしろ」
重く、言い切る。
命令ではない。
だが。
それ以上の意味を持つ言葉。
「……」
沈黙が、落ちる。
ヴァルは、動かない。
そのまま。
受け止める。
「……それが」
一拍。
「お前に出来る、償いだ」
断言だった。
迷いは、ない。
「……」
ヴァルの目が、わずかに細まる。
感情は、読み取れない。
だが。
確かに。
その言葉を、受け取る。
「……ああ」
短く、答える。
それだけだった。
余計な言葉は、ない。
誓いのように。
ただ、そこに置かれる。
「……」
ユリウスは、何も言わない。
それで、十分だった。
場の空気が、わずかに変わる。
断絶ではない。
だが。
完全な受容でもない。
その中間。
ぎりぎりの均衡。
それが、そこにあった。




