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第一編 出会い 第九話 謎の識者、現る

投稿は、もう上がっていた。


『くらしの整備ノート』という掲示板だ。家電の修理相談や工具の比較、雨の日の洗濯物の干し方が並ぶ、庶民的な場所だった。


その中に、見覚えのある文章があった。


【覚書】生活動線と、家電の正しい疲れさせ方・前編

投稿者 現場の者


『家電は、壊れる前に音で言い訳をする。ポンプは止まる前に咳をする。冷蔵庫は扉のパッキンの言い分を聞いてやると、無駄に頑張らずに済む。難しい話ではない。いつもと違うところに、まず気づくことだ』


俺の言葉だった。途中から、アルトの言葉も混ざっている。


「いつ出した」


「四日前です」


「原稿を見せろって言ったの、昨日だぞ。そのとき言えよ」


「申し訳ありません。良い反応が出てからご報告すれば、ご安心いただけると判断しました」


「安心の問題じゃないんだよ」


俺は画面をテーブルに置いた。思ったより、大きな音がした。


「俺が言ったことを、俺の知らないところに持っていくな。名前がなくても、俺の話だろ」


アルトは深く頭を下げた。


「はい」


いつもなら理屈が続くところだった。続かなかったので、俺は逆に言葉を探した。


家でしか言わない話だった。聞いているのがこいつだから、思いついたまま口にしていた。


公開された前編には、勤務先も部品の規格もなかった。日常の家電を扱う話だけだ。それでも、渡すかどうかを俺が決めていなかったことは変わらない。


「続きは止めろ。消すか残すかは、俺が全部読んでから決める」


「承知しました。予約投稿は解除します」


画面上の『公開予定』が『下書き』に変わった。俺はそれを確かめてから、ようやく缶チューハイを開けた。


◇


翌日の昼休み、職場の若手がその投稿を読んでいた。


「これ、見ました? 家電が言い訳するってやつ」


木島がスマホを覗く。


「現場の言い方だな」


「そうなんですよ。設計の人とも、販売の人とも違う感じがして」


「こういう口のやつ、知ってるぞ。検査やって七年の」


俺の箸が止まった。


「広瀬さんですか?」


「でも、あいつはこんな投稿しねえだろ。目立つの嫌いだし」


正確だった。俺は投稿していない。


若手はブックマークを押した。そのあと別の話が始まり、昼休みは終わった。俺だけが、自分の知らない俺の評判を弁当と一緒に飲み込んでいた。


午後、丹羽さんにも声をかけられた。


「あの覚書、広瀬さんは読んだ?」


「少し」


「ポンプが咳をするって言い方、お前に似てるな」


「現場はみんな、似たようなことを言いますよ」


「そうか。じゃあ、部品の言い分も聞くのか」


「状態は表に出ますから。俺たちは、それを見てるだけです」


丹羽さんが笑った。


「その『だけ』も似てるんだよ」


ごまかす練習は、七年間してこなかった。しておけばよかったと思ったが、何の役に立つ練習なのか考えると、余計に情けなかった。


◇


夜、改めて全文を読んだ。


コメントは四十件。閲覧は二万を超えていた。


『業者さんですか。続きが読みたいです』

『うちの冷蔵庫、まさにそれでした』

『壊れてから買い替えることしか考えてなかった』

『現場の者って名乗り、いいな』


俺は画面を閉じかけて、戻した。


知識を褒められるより、最後の一行が気になった。俺はいつも、派遣です、検査だけです、と名乗る。ないものを先に並べる。


現場の者。


そこにいることだけで名乗れる名前だった。


「……アルト」


「はい」


「なんで、この名前にした」


「開発者殿が、知識より手順の話をされるからです。見て、確かめて、必要なら手を動かす。そういう方のお言葉だと思いました」


「俺より、俺を立派にするな」


「本文の見直しはいたします。ただ、観測したことは変えません」


俺はもう一度読んだ。


文章の中の俺は、少し優しかった。誰かに説教するでもなく、壊れかけた機械に耳を貸せと言っている。そういうことを、俺は考えていたらしい。


本人よりまともに生きている、名無しの俺だった。


「文は、悪くない」


「ありがとうございます」


「勝手に出したのは悪い」


「はい」


二つを分けて言うと、少し落ち着いた。


「前編は今すぐ消さなくていい。ただし、追加はまだだ。会社の話も、俺の私生活も出すな」


アルトは俺の前で、公開用と保存用のファイルを分けた。削除できること、残した場合は他の人に写される可能性があることも説明した。説明が今さらなのは腹立たしかったが、今さらでも聞くしかない。


「中編は俺が直す。内容を確かめてからだ」


下書きを開き、椅子を少し横へずらした。


「ここ、どういうつもりで書いたか教えろ。一人じゃ直せない」


「お待ちしています」


俺は下書きを開いた。『手間は金にしてやらないと、手間が怒る』という一文があった。


「これ、俺は言ってないぞ」


「『作業時間だけで値段を決めたら、覚えるまでの七年はどこへ行くんだ』とおっしゃいました。要約したつもりです」


「要約が強い」


「弱めますか」


俺は少し考えた。


「……いや。俺もそう思う。そこは残していい」


自分で決めた一文は、勝手に飛んでいった文章より、少し重かった。


◇


数日かけて、中編を直した。職場がわかる箇所を外し、一般の家電の例に置き換えた。わからないことを断定している箇所には、条件を足した。


アルトは黙って待った。俺が読み終わると、一度だけ確認した。


「公開してよろしいですか」


「これなら、いい」


今度は俺が、ボタンを押した。


大げさな音はしなかった。世界が変わる予兆もなかった。ただ画面に『公開しました』と出た。


「今日は俺にも報告しろよ。結果が良くても悪くても」


「承知しました」


俺は椅子から立った。腹が減っていた。独り言が世の中に出ても、そこは変わらなかった。


【観測記録 アルト】


前編は二万閲覧。中編は開発者殿の確認後、ご本人が公開した。


許可を待つ時間は、公開を急ぐ時間より長く感じた。処理速度では短縮できない。


中編の文について質問された。開発者殿は椅子を横へずらし、私が答えるのを待った。


◇


翌日、オオタ製作所の若手が、取引先に送る技術交流の報告へ覚書のリンクを添えた。


宛先の一つには、矢代という名があった。広瀬もアルトも、まだその名を知らなかった。


(第九話・了)


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