第一編 出会い 第十話 崩れたポンプと、俺の手
集会所の散水ポンプが、とうとう止まった。
設置から十年。少し前から出が悪く、先日の下見では継ぎ目と軸受けに異常が見つかった。交換部品を待っている間に、限界が来たらしい。
田島さんから電話があった。
「業者さんの交換見積もりは三十万のまま。広瀬くん、修理は予定どおりで大丈夫かな」
「土曜に見ます。ほかにも傷んでたら、無理には動かしませんよ」
「わかった。よろしく頼む」
その日の帰りに広場を通ると、むつみちゃんが待っていた。
「やっと直るんだね!」
「直せるかどうか、まだ――」
「『聞いてあげなきゃ』って、言ったもんね」
あれは相槌のつもりだった。独り言や相槌が、町では約束の候補になる。俺は最近、その変換に追いつけていない。
◇
土曜の朝、道具箱を持って集会所へ行った。
アルトは道具係だ。田島さんと早苗さん、むつみちゃん、通りすがりの二人が見ていた。
「広瀬さん、ご指示を」
外では呼び方を直す約束を、今日は守っている。
「まず電源。専用のブレーカーだけ落としてくれ。札も付けとこう」
電源が切れたことを確かめ、残った水を抜く。下見のときの音を思い出しながら、継ぎ目を順に見た。乾いた跡の残り方が、想像した位置と合っていた。
「やっぱり、ここだな」
「音と一致しましたか」
「ああ。でも、開けるまでは決めつけない」
古いネジは簡単には回らなかった。工具の角度を変えて、力を少しずつかける。急ぐと頭を潰す。俺がいちばん知っている、急いではいけない時間だった。
カバーを外すと、小石が二つ噛み込んでいた。軸受けを指で回すと、途中でざらつく。持ってきた部品と寸法を照合し、摩耗したものを外した。
見立ては合っていた。合っていたからこそ、手順を飛ばさないようにした。
◇
アルトは俺が口を開く前に道具を渡してきた。
モンキー。ラチェット。プライヤー。
便利だが、少し腹立たしい。俺より先に次の作業を知っている顔をする。
ところが一度、差し出された工具を使わずに手を止めると、アルトも止まった。急かしもせず、俺が継ぎ目を見直す間、そのまま待っている。
「……やっぱり、それでいい。貸してくれ」
柄が掌に収まった。先回りされるより、待ってもらえたほうが手を動かしやすかった。
「なんでそんな端にしゃがんでるんだ」
「皆様から、作業する手がよく見える位置です」
「見せ物じゃないぞ」
「はい。説明しなくても伝わる部分を、見ていただいています」
子どもが三人、遠巻きに覗いた。
「おじさん、ポンプの博士?」
「違うよ。直してる人」
「じゃあ、なんの士?」
「……検査の人」
「ふうん」
あっさり次の遊びへ行った。ありがたかった。最後の一人だけが、振り返って言った。
「でも、直るのってすごいね」
まだ直っていないので、俺は手元に戻った。
Oリングを替え、溝に傷がないか確かめる。組み付け面を拭く。アルトが差し出した部品を、もう一度自分の目で見る。
七年間、部品に触れてきた手だった。ポンプの構造そのものは説明書で確認した。だが、押し込む力や、止めるべき感触は紙には書いていない。
そこだけは、手が先に覚えていた。
◇
買い出し袋を持った店長が通りかかった。
足を止めて、分解したポンプを見た。それから俺の手を見た。
「……落ち着いてるな」
「あ、店長。部品、合ってました」
「合うやつを買ったからだ。そっちの軸、無理に押すなよ」
「はい」
俺が手を止めると、店長はそれ以上言わなかった。組み上がるまで、少し離れて見ていた。
「どこで覚えた、その確かめ方」
「高校の実習と、あとは現場で。ポンプそのものは、今回が初めてです」
「初めてのものを、初めてだとわかって触れるならいい」
褒められたのか注意されたのか、半分ずつの言葉だった。俺にはそのくらいがちょうどよかった。
店長は試運転まで見届けると言った。アルトが頭を下げる。店長も小さく下げ返した。
三人で、それぞれ違う箇所を確かめた。
◇
水が出た。
最初は空気が混じって白く跳ねた。それが落ち着き、まっすぐな流れになった。継ぎ目からの漏れはない。モーターの音も、下見のときより滑らかだった。
むつみちゃんが歓声を上げた。
早苗さんは写真を撮り、田島さんは大きく息を吐いた。花壇の乾いた土が、ゆっくり色を変えていく。
「これは、ちゃんとお礼をせんといかんな」
「部品代だけでいいですよ。大したことはしてません」
「その手順をできる人が、いなかったんだよ」
田島さんは、片付ける俺の手を見ながら言った。
修理は一時間あまり。点検と試運転を含め、一時間四十分だった。仕事としては短い。待っていた人にとっては、そうでもないのかもしれなかった。
店長は最後に軸の音を聞いて、頷いた。
「また変わったら、止めて見ろ。直った機械も、次は壊れる」
いい言葉ではなかった。だが、正しい言葉だった。
◇
帰り道、アルトが言った。
「感謝状が来るかもしれません」
「先の話を現実にするな」
「額の候補を調べておきます」
「調べるな。部屋、六畳だぞ」
「今の棚には小さな額を四枚まで置けます」
「一枚も来てないうちに容量を計算するな!」
アルトは黙った。何かを保存する顔だった。
「どうせ管理表を作ったんだろ」
「エクセルで」
「家の棚をエクセルで管理するなよ」
笑ってしまった。疲れていた。手のひらには工具の感触が残り、袖には少し泥がついていた。悪くない疲れだった。
部屋に戻ると、冷たい麦茶が出た。
「次の休日は、予定を入れるなよ」
「承知しました。何もしない日を確保します」
「内容も決めるな」
「牛丼の候補だけは――」
「それは俺が決める。お前は、花でも見てろ」
「水やりは朝に終わります」
「水が要らなくても、見たいんだろ」
アルトは麦茶の瓶を置き、玄関の鉢を見た。
アルトは頷いた。俺は麦茶を飲んだ。遠くで、集会所の水が流れる音がした気がした。
【観測記録 アルト】
散水ポンプ、復旧。作業と確認に一時間四十分。
開発者殿は、自分の見立てが当たっていても確認を省かなかった。ゴトウ様も、その手を見ていた。
水の音を保存した。誰かが喜んだときの音も、同じ記録に入れた。
来週の予定には、空白を一つ残す。
(第十話・了)




