第一編 出会い 第十一話 工学博士じゃね?
一週間で、噂の形が変わった。
『広瀬さん、工学博士なんだって?』
『若くない?』
『大学か、防衛関係かしら』
『本物って、肩書きを言わないものよ』
最後がいちばん曲者だった。
俺が「ただの派遣です」と否定するたび、本物らしさが増す。否定が肯定の燃料になる。二十九年生きてきて、ようやく知った不便な法則だ。
「アルト。俺、博士になったらしいぞ」
「理髪店のお客様三名が、同意されたそうです」
「博士号って合議でもらえるのか」
「正式な学位ではありません」
「そこは知ってる」
実家は町の端の理髪店だ。ポンプの写真が客から客へ渡り、親父のところまで届いたらしい。まだ俺は何も話していないのに、息子の経歴が先に豊かになっていた。
◇
顔見せ会に行くと、田島さんが封筒を持っていた。
「広瀬くん、感謝状を用意した」
「大げさですって」
「大げさにしなくていい。でも、お礼は形にさせてくれ」
新しい住人を紹介する会の最後に、俺まで前へ呼ばれた。アルトは端で会釈だけしていた。敬礼をしなかったので、そこだけは安心した。
紙には、短く書かれていた。
『集会所裏散水ポンプの復旧にあたり、広瀬塑鉄さんの技術と誠実な協力に感謝します』
技術と誠実。
俺はベアリングを替え、ネジを締め、手順どおりに確かめた。その話を、別の言葉で書かれると落ち着かない。
拍手が終わるまで、頭を下げていた。
帰宅して棚に置いた紙には、翌朝、額がついていた。
「準備するなって言ったろ」
「今朝、ご用意しました。置くだけの額です。壁に穴は開けていません」
「抜け道の説明が早いな」
俺は額を持ち上げた。軽かった。軽いのに、中の俺だけが立派だった。
◇
夜、アルトが額の前に座っていた。
「記録してよろしいですか。開発者殿は、表彰された、と」
「聞くようになったんだな。いいよ」
「うれしくありませんか」
俺は少し考えた。
「うれしい。うれしいんだけど、ちょっと寒い。俺がやったことより、周りが見てる俺のほうが大きいんだ」
アルトはしばらく額を見ていた。
「では、記録を分けます」
「どう分けるんだよ」
「開発者殿は、できることをした。町の方は、助かったことに礼を言った。この二つです」
俺は額を置いた。
「……それなら、わかるな」
「同じ大きさで測らなくても、よいのかもしれません」
額の文字は変わらなかった。俺はもう一度、技術と協力の二語を読んだ。
「その二つ、管理表にも書いといてくれ」
「はい」
人に説明するときより、少し長く額を見ていられた。
翌日、部品を買いに行くと店長にも聞かれた。
「博士って本当か」
「違います。工業高校を出ただけです」
「そうか」
それで終わった。否定が否定として届く店は、ありがたい。
「店長、なんか安心しました?」
「肩書きの話をされると面倒だ。何が直せるかのほうがわかりやすい」
「俺、ただの派遣に見えます?」
「見えるな」
あっさりしすぎて、少し傷ついた。
店長は部品を袋に入れた。
「派遣に見えたら、手が悪くなるのか」
「……なりません」
「なら、どっちでもいいだろ」
袋を渡され、俺は黙って受け取った。店長の話は、半分わかったくらいが後から効く。
◇
その夜、実家に電話をした。
母さんが出ると思ったら、親父だった。
「塑鉄か。元気か」
「元気。親父、肩は?」
「切ってりゃ凝る。で、どうした」
「町のポンプを直した。感謝状をもらって」
「聞いたぞ。博士なんだってな」
「親まで乗るなよ」
電話の向こうで笑った。
「お前、昔から道具は丁寧に扱ってたからな。店のハサミも、勝手に手入れして返してきた」
「油を拭いただけだよ」
「その『だけ』を毎回やるやつは、そう多くねえんだよ」
丹羽さんと似たことを言った。
「感謝状、写真を送れ。店に飾る」
「やめろ。噂が増える」
「息子の写真は増やしても構わんだろ」
「俺の写真じゃないって」
電話を切ってから、結局一枚送った。送る前に、自分の名前だけをもう一度見た。
間違いなく、俺の字ではない。だが、俺の名前だった。
◇
職場では、木島が聞いてきた。
「休みにポンプ直してたんだって?」
「水が出るやつな」
「ポンプくらいわかるよ。直ったのか?」
「直った」
「いいな。俺なんか休みの日も、発注のこと考えてるだけだ」
木島は笑ってから、少し真面目な顔になった。
「お前、正社員とか考えないの?」
「目しか取り柄ないからな」
「目があるなら、取り柄あるじゃねえか」
「言葉どおりに取るなよ」
この職場の、そういう会話が好きだった。博士でも開発者でもなく、広瀬として返事をしていられる。
と思った翌日、若手が席まで来た。
「工学博士って、広瀬さんのご親戚ですか?」
「……俺に親戚を増やすな」
「理髪店で写真を見た人が、すごい検査員だって」
もう届いていた。
「博士じゃない。派遣の目視検査だよ」
「じゃあ、派遣の方が博士より目がいいってことですか」
「比較するな!」
若手は笑った。悪気がないのがいちばん困る。
帰宅すると、一枚目の額が棚の上にあった。中には博士号ではなく、ポンプの感謝状が入っている。
部品の検査をした。ポンプを直した。今夜は、それ以上の肩書きを考えずに眺められた。
額が少し傾いていたので直した。アルトがこちらを見たが、何も言わなかった。
【観測記録 アルト】
博士という噂は事実ではない。尋ねられた際には訂正する。
感謝状は一枚。記されているのは技術と協力であり、学位ではない。
開発者殿は父上に写真を送った。宛先を決め、送ったのはご本人。私は、その時間の邪魔をしなかった。
(第十一話・了)




