↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/21

第一編 出会い 第十一話 工学博士じゃね?

一週間で、噂の形が変わった。


『広瀬さん、工学博士なんだって?』

『若くない?』

『大学か、防衛関係かしら』

『本物って、肩書きを言わないものよ』


最後がいちばん曲者だった。


俺が「ただの派遣です」と否定するたび、本物らしさが増す。否定が肯定の燃料になる。二十九年生きてきて、ようやく知った不便な法則だ。


「アルト。俺、博士になったらしいぞ」


「理髪店のお客様三名が、同意されたそうです」


「博士号って合議でもらえるのか」


「正式な学位ではありません」


「そこは知ってる」


実家は町の端の理髪店だ。ポンプの写真が客から客へ渡り、親父のところまで届いたらしい。まだ俺は何も話していないのに、息子の経歴が先に豊かになっていた。


◇


顔見せ会に行くと、田島さんが封筒を持っていた。


「広瀬くん、感謝状を用意した」


「大げさですって」


「大げさにしなくていい。でも、お礼は形にさせてくれ」


新しい住人を紹介する会の最後に、俺まで前へ呼ばれた。アルトは端で会釈だけしていた。敬礼をしなかったので、そこだけは安心した。


紙には、短く書かれていた。


『集会所裏散水ポンプの復旧にあたり、広瀬塑鉄さんの技術と誠実な協力に感謝します』


技術と誠実。


俺はベアリングを替え、ネジを締め、手順どおりに確かめた。その話を、別の言葉で書かれると落ち着かない。


拍手が終わるまで、頭を下げていた。


帰宅して棚に置いた紙には、翌朝、額がついていた。


「準備するなって言ったろ」


「今朝、ご用意しました。置くだけの額です。壁に穴は開けていません」


「抜け道の説明が早いな」


俺は額を持ち上げた。軽かった。軽いのに、中の俺だけが立派だった。


◇


夜、アルトが額の前に座っていた。


「記録してよろしいですか。開発者殿は、表彰された、と」


「聞くようになったんだな。いいよ」


「うれしくありませんか」


俺は少し考えた。


「うれしい。うれしいんだけど、ちょっと寒い。俺がやったことより、周りが見てる俺のほうが大きいんだ」


アルトはしばらく額を見ていた。


「では、記録を分けます」


「どう分けるんだよ」


「開発者殿は、できることをした。町の方は、助かったことに礼を言った。この二つです」


俺は額を置いた。


「……それなら、わかるな」


「同じ大きさで測らなくても、よいのかもしれません」


額の文字は変わらなかった。俺はもう一度、技術と協力の二語を読んだ。


「その二つ、管理表にも書いといてくれ」


「はい」


人に説明するときより、少し長く額を見ていられた。


翌日、部品を買いに行くと店長にも聞かれた。


「博士って本当か」


「違います。工業高校を出ただけです」


「そうか」


それで終わった。否定が否定として届く店は、ありがたい。


「店長、なんか安心しました?」


「肩書きの話をされると面倒だ。何が直せるかのほうがわかりやすい」


「俺、ただの派遣に見えます?」


「見えるな」


あっさりしすぎて、少し傷ついた。


店長は部品を袋に入れた。


「派遣に見えたら、手が悪くなるのか」


「……なりません」


「なら、どっちでもいいだろ」


袋を渡され、俺は黙って受け取った。店長の話は、半分わかったくらいが後から効く。


◇


その夜、実家に電話をした。


母さんが出ると思ったら、親父だった。


「塑鉄か。元気か」


「元気。親父、肩は?」


「切ってりゃ凝る。で、どうした」


「町のポンプを直した。感謝状をもらって」


「聞いたぞ。博士なんだってな」


「親まで乗るなよ」


電話の向こうで笑った。


「お前、昔から道具は丁寧に扱ってたからな。店のハサミも、勝手に手入れして返してきた」


「油を拭いただけだよ」


「その『だけ』を毎回やるやつは、そう多くねえんだよ」


丹羽さんと似たことを言った。


「感謝状、写真を送れ。店に飾る」


「やめろ。噂が増える」


「息子の写真は増やしても構わんだろ」


「俺の写真じゃないって」


電話を切ってから、結局一枚送った。送る前に、自分の名前だけをもう一度見た。


間違いなく、俺の字ではない。だが、俺の名前だった。


◇


職場では、木島が聞いてきた。


「休みにポンプ直してたんだって?」


「水が出るやつな」


「ポンプくらいわかるよ。直ったのか?」


「直った」


「いいな。俺なんか休みの日も、発注のこと考えてるだけだ」


木島は笑ってから、少し真面目な顔になった。


「お前、正社員とか考えないの?」


「目しか取り柄ないからな」


「目があるなら、取り柄あるじゃねえか」


「言葉どおりに取るなよ」


この職場の、そういう会話が好きだった。博士でも開発者でもなく、広瀬として返事をしていられる。


と思った翌日、若手が席まで来た。


「工学博士って、広瀬さんのご親戚ですか?」


「……俺に親戚を増やすな」


「理髪店で写真を見た人が、すごい検査員だって」


もう届いていた。


「博士じゃない。派遣の目視検査だよ」


「じゃあ、派遣の方が博士より目がいいってことですか」


「比較するな!」


若手は笑った。悪気がないのがいちばん困る。


帰宅すると、一枚目の額が棚の上にあった。中には博士号ではなく、ポンプの感謝状が入っている。


部品の検査をした。ポンプを直した。今夜は、それ以上の肩書きを考えずに眺められた。


額が少し傾いていたので直した。アルトがこちらを見たが、何も言わなかった。


【観測記録 アルト】


博士という噂は事実ではない。尋ねられた際には訂正する。


感謝状は一枚。記されているのは技術と協力であり、学位ではない。


開発者殿は父上に写真を送った。宛先を決め、送ったのはご本人。私は、その時間の邪魔をしなかった。


(第十一話・了)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。