第一編 出会い 第十二話 係長の声
寺本からLINEが来た。
『今度、二人で飲める? お茶でも。いや、酒か』
係長になった、あの寺本だ。中学から知っていて、高校でも同じクラスになった。工業高校の実習室で同じ油の匂いを嗅いだ仲なのに、最近は昇進の写真に反応するくらいだった。
木曜、駅前の居酒屋で会うことにした。
◇
一番安いハイボールを二つ頼んだ。
寺本は少し疲れた顔をしていた。係長の顔と同級生の顔の切り替えが速い。速すぎると、どちらも休めない気がした。
「今も派遣?」
「目視検査。もう七年になる」
「……悪い。聞き方が」
「別にいいよ」
寺本はグラスを持ったまま笑った。
「中三のとき、俺、お前は進学校に行くと思ってた。成績よかったし」
「俺が機械科を選んだら、お前も来ただろ」
「俺は成績より、工具が触りたかったからな」
「じゃあ、同じだよ」
「同じだったんだけどな」
寺本は氷を鳴らした。
「係長って、指図されるのと指図するのの間にいるだけなんだよ。忙しくなったのに、何ができるようになったか説明しにくい」
「頑張ってるだろ」
「頑張ったかどうかって、結果が出てから言われるだろ。俺は途中のまま、肩書きだけ増えた感じ」
俺は返事を急がなかった。寺本も、すぐには次を言わなかった。
皿が運ばれてきて、その間だけ二人とも助かった。
「お前は? 七年やって、何か得た?」
「部品を見るのは得意になった」
「金は」
「ない。五万八千の部屋と、牛丼と、チューハイと、ロボット一体」
「最後、なんだよ」
寺本が笑った。係長の顔が消えた。俺も笑った。
◇
二杯目を頼んだ頃、寺本が聞いた。
「俺の夢、覚えてる?」
「車の設計だったっけ」
「整備士」
「……そうだったか」
「じいちゃんの整備工場に出入りしててさ。紙の上の図が、最後にちゃんと動くところが好きだった。工具を持ってる手が、かっこよかったんだよ」
俺はゴトウ電機の店長の手を思い出した。
「高校出て、今の会社に入って、事務へ回って。そのまま係長。生活は悪くないんだ。でも、あの手にはならなかった」
「今から触れないわけじゃないだろ」
「仕事にするのと、休みに触るのは違うからな。……いや、言い訳かもしれんけど」
寺本は苦笑した。
「お前さ、俺の分を生きてる感じ、あんの?」
「ないよ。俺は俺の検査をしてるだけだもん」
「だよな」
少し乱暴な問いだった。だが、俺の仕事を見下しているわけではないとわかった。
俺は最近直したポンプの話をした。小石が二つ入っていたこと。子どもに博士かと聞かれたこと。アルトが額の置き場所を計算していること。
寺本は聞いて、何度か笑った。
「お前、その話してるとき、楽しそうだな」
「修理代はほぼ出なかったけどな」
「そういう話じゃねえんだよ」
わかっていた。でも、そういう話にしておかないと、照れた。
「そのロボットの話が、一番長いぞ」
「説明が要るやつなんだよ」
「そうか。今度会わせろよ」
俺は頷いた。やめとけと返すつもりだったのに、店長の話より先に約束が一つ増えた。
◇
ホームで別れるとき、寺本が言った。
「お前、変わんねえな」
「悪かったな」
「褒めてる。ぶれてないって意味だよ、たぶん」
「酔ってるだろ」
「酔わないと言えないこともあるんだよ」
寺本は手を上げて電車に乗った。
俺はホームに残り、自分の電車を待った。七年間動かなかったつもりの俺を、変わらなくていいと言うやつもいる。不思議だった。
電車の中では少し目を閉じた。眠ったかどうかは、よくわからない。
最寄り駅に着くと、アルトが自販機の横で待っていた。帰る前に送った一言を、迎えの要請と解釈したらしい。
「お帰りなさいませ、開発者殿」
「外では広瀬さんだろ」
「失礼しました。小声にしたので、つい」
「つい、で済ますな」
四百メートルの道を歩く。その前に俺が自販機を見たら、アルトが缶ココアを買って差し出した。
「三段目の真ん中をご覧になったので」
「欲しいもの、全部見えるのか」
「全部は見えません。今は、見えました」
甘かった。冷たい缶を持つと、酔いが少し遠くなる。
◇
俺は歩きながら、寺本の話をした。
整備士になりたかったこと。係長になっても、まだ途中だと言ったこと。俺が少し羨ましいらしいこと。
アルトは黙って聞いていた。
「あいつは家だの昇進だの、俺よりずっと先にいると思ってたんだけどな」
「同じ方向へ進んでいるとは、限りません」
「お前、今日はまともだな」
「普段も正常です」
「そういう意味じゃない」
空になった缶を、アルトが受け取った。
「広瀬さんの七年も、止まってはいません。部品を見つけた回数が積もっています」
「積もったら、何になるんだよ」
「今日、寺本様に話せることになりました」
俺は返事をしなかった。
さっき話したときの寺本の顔を思い出していた。俺の話を聞いて笑った、係長ではない顔だ。
家に着くと、アルトは夕食を出そうとした。食べてきたと言うと、小さな湯呑みに替えた。そういうところは話が早い。
「次に会う店、予約しますか」
「自分で決める」
「では、候補だけ」
「候補もいい。人間の飲み会だ」
「承知しました。私は帰りを待ちます」
「次は、帰る時間を書いて送る。駅まで来なくてもいいからな」
「はい」
「話の続きは、帰ってからする」
アルトは湯呑みを俺の側へ寄せた。それがいちばん、しっくりきた。
◇
布団に入ってから、寺本に短く送った。
『また飲もう。今度、店長のところに一緒に行くか。見るだけでも面白いぞ』
しばらくして、『見るだけで済むかね』と返ってきた。
俺は笑った。アルトが振り向いたので、なんでもないと手を振った。
俺の分を生きてる感じ、あんの。
ない。誰かの分まで生きられるほど、俺は器用じゃない。
ただ、自分の暮らしの中に、誰かに話せるものはあった。そのことだけ、今日は覚えておこうと思った。
【観測記録 アルト】
寺本様について、開発者殿からお話を伺った。係長になった同級生。整備士に憧れていた方。
私は飲み会の席を知らない。帰り道の声だけを記録する。
開発者殿は、途中で独り言を言わなかった。代わりに、私に話してくださった。
缶ココアの温度は測定済み。声の温度は、測定方法がまだない。
(第十二話・了)




