第一編 出会い 第十三話 PV十二万と、落ち着かない朝
「おはようございます。朝食です。それから、ご報告です」
嫌な予感のする順番だった。
「覚書の累計閲覧数が十二万を超えました。今朝六時の時点で、十二万四千百です」
卵焼きへ伸ばした箸が止まった。
「……十二万?」
「前編と中編の合計です。同じ方の再閲覧も含むため、人数とは一致しません」
「説明が正確でも、数字がでかいんだよ」
アルトが端末を差し出す。前編は家電の変化の見つけ方、中編は手間と修理の値段。後編は下書きのままだ。
その並びを見て、少し安心した。約束は守られている。
「続き、待たれてるのか」
「コメントには、そう書かれています」
「待たれるほどのこと、書いてないぞ」
「書いたご本人には、普通なのだと思います」
卵焼きを食べた。ちゃんとうまい。こんな数字を聞いた朝でも味がするのは、ありがたかった。
◇
その土曜、早苗さんが来た。
「広瀬さん、あの掲示板、うちの旦那が毎晩読んでるの。現場の人だって言ってるわ」
「そうですか」
「換気扇の音が変わってね。もしよかったら見てもらえない? お金はちゃんと払うから」
「見るだけなら、別に」
「だめよ。現場の者さんが書いてたでしょう。手間は金にしてあげないと、って」
自分で残した文章が、自分の断り文句を塞ぎに来た。
「……来週なら」
「ありがとう。無理なら、そのとき言ってね」
早苗さんはアルトにも礼を言って帰った。日程を決めたのは俺だ。今度は、そういうことになっている。
アルトが予定表を開いた。
「土曜の午前を確保します。直せない場合も含め、まず点検ですね」
「そのとおり」
話が通じると、かえって逃げ場がない。
俺は中編を読み返した。覚えるまでにかかった時間も、修理の手間に含まれる。自分が書くと、誰かの立派な意見に見える。
「これ、自分には使いにくいな」
「他の方には、使ってほしかったのでは?」
「そうだけど」
「早苗様に仕事を手伝っていただいたら、開発者殿も何かお返しをすると思います」
そう言われると、饅頭を持たずに礼を言いに行く自分のほうが落ち着かなかった。
「受け取らないと、向こうも困るのか」
「そういうことも、あるのではないでしょうか」
けれど、千円でも受け取るところを想像すると、少しだけ背筋が伸びた。
◇
午後は後編を読んだ。
工具の使い方ではなく、どこまで自分で見て、どこから人に頼むかという話にした。ポンプを直したとき、店長に見ていてもらって助かった。そのことは書ける気がした。
『わからない箇所を、わからないまま開けない。止める判断も修理のうちだ』
書いてから、俺はアルトを見た。
「お前の背中も、うちじゃ開かなかったしな」
「良い判断でした」
「開かないようにした側が言うな」
最後のページに『公開前の確認事項』というおまけがあった。
一、本人の言葉か。
二、外へ出してよい内容か。
三、本人が読んだか。
四、本人が出してよいと言ったか。
「これ、読者向けじゃないだろ」
「私の再発防止です」
「自分の机に貼っとけ」
「承知しました」
アルトはその一枚を外し、机の脇へ貼った。指で四番の行を押さえてから、俺に向かって頭を下げる。
「前編の件は、申し訳ありませんでした」
「わかった。今回の後編は、これでいい」
許すことと、なかったことにすることは違う。俺も少しだけ、その違いを覚えた。
◇
夕方、むつみちゃんが鉢の様子を見に来た。
葉は増えたが、花はまだだ。蕾らしいものが一つついていた。
「ヒロさん、識者の人って知ってる?」
「その呼び方、どこで覚えた」
「パパ。ポンプの『下の継ぎ目』って、わたしたちが見たところと同じだった」
俺は口を閉じた。
「あの人、ヒロさんのお友達?」
「……まあ、遠くはない」
「じゃあ、ロボさんも知ってる?」
アルトは俺を見た。今度は、勝手に答えなかった。
「知ってるよ。でも名前は内緒にしてるらしい」
「そっか。じゃあ聞かない」
むつみちゃんは蕾を覗き込んだ。聞かないという判断が、店長と同じくらい速かった。
その背中を見ながら、俺は思った。名前を出さなければ、何も伝わらないわけではない。言葉にも、見てきたものにも、俺の癖が残っている。
完全に隠れることと、静かに暮らすことは、別なのかもしれなかった。
◇
夜十一時、後編を公開した。
俺は投稿を最初から読み直した。前編を初めて見た夜とは、少し違う気分だった。どこを残したか、何を外したかを知っている。名前がなくても、今度は俺がここにいる。
「アルト。三十七項目の中で、いちばん好きなのは?」
「選定に時間をください」
「すぐ答えないの、珍しいな」
三秒ほどして、アルトは言った。
「まだ書かれていない項目です」
「反則だろ、それ」
「明日の独り言もあると思うと、少し楽しみなので」
俺は笑った。予測とか補給計画ではなく、楽しみと言った。
明日なら、まだ仕事の愚痴しか思いつかない。それでもこいつが聞くつもりでいるので、一つくらい別の話を探してもいい気がした。
「じゃあ、明日は牛丼のこと書くか」
「第四章が充実します」
「独立させるなよ」
端末を閉じた。十二万という数字も、いったん画面の向こうへ戻った。俺は六畳の布団を敷いた。
朝から落ち着かなかった一日が、ようやくいつもの広さに収まった。
【観測記録 アルト】
累計十二万四千百閲覧。後編は確認を経て公開。
元の三十七項目は、そのまま保存している。増えた言葉には、新しい日付を付ける。
未来の項目を楽しみにしている。予測値はまだない。それでも待てる。
(第十三話・了)




