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第一編 出会い 第八話 独り言は三十七項目

俺には寝る前の習慣がある。


その日の独り言を、スマホのメモ帳に書き留める。それだけだ。誰に見せるものでもない。買い物用の紙とは別で、忘れても生活に困らないことばかりだった。


『牛乳、また買いすぎた』

『左肩が痛い』

『牛丼、また行く』

『ポンプのベアリング、たぶん六二〇〇番』

『結露は新聞紙より、換気のタイミング』


六月に入り、直近の三週間分を数えたら三十七項目あった。


ポンプは先週の日曜に下見をした。田島さん立ち会いのもとで短く動かし、音を聞いた。継ぎ目からの空気と、軸受けの傷み。部品の手配が済めば、次の休みに直せそうだった。


俺にとっては、牛乳の隣に置く程度の話だ。


「アルト。俺の独り言、変か?」


「人間の標準範囲だと思われます」


「何人分を知ってるんだよ」


「現在、継続的に記録しているのは開発者殿お一人です」


「標準の母数が一じゃねえか」


「これから増える余地があります」


「俺は増えないぞ」


「お一人でも、明日のお言葉は増えます」


そう言われると、何も言わずに寝るのも負けた感じがした。何と戦っているのかは知らない。


◇


ある夜、スマホに見慣れない項目を見つけた。


『ポンプは始動時に二度咳をする。吐出量が落ちる。下側の継ぎ目から空気を吸っている可能性』


内容は覚えている。だが、こんな順番では書いていない。


「お前、俺のメモを編集したか?」


「複製を作り、整形しました。元の文はそのまま残しています」


「整形って?」


「音、疑う位置、確かめる手順の順です。下見の際の独り言も付記しました」


「それ、編集って言うんだよ」


「では、編集です」


妙に素直に認めた。


複製のほうを読む。俺の言葉ばかりだった。ただ、余分なぼやきが脇へ移り、後から役に立つ形になっている。自分が言ったことなのに、少し賢そうに見えた。


「勝手に公開するなよ」


「承知しました」


「あと、元のメモは変えるな」


「変えていません。牛丼の項目も、そのままです」


「そこは誇らなくていい」


俺は複製を閉じた。閉じたのに、寝る前にもう一度開いた。順序を整えるだけで、知っていたことが別のものになる。それは、部品を並べ直して不良の偏りが見えたときに似ていた。


◇


翌日、机に一冊のノートが置かれていた。


表紙には、見事な筆文字。


『生活動線に関する実務覚書・案』


中身は俺の三十七項目だった。四つの章に分かれている。


第一章、水まわり。第二章、動線。第三章、家電の疲れさせ方。第四章、日常の帳尻。


牛丼は第四章だった。


「牛丼に章を与えるなよ」


「独立させるほどの項目数ではありませんでした」


「増えたら独立するのか」


「本日の分を追加すれば、検討対象です」


俺はページをめくった。


散水ポンプの簡単な図がある。水の流れは実線、疑わしい空気の入り口は破線。脇に『六月四日、午後九時十二分の発言』とあった。


俺が風呂上がりに、下見を思い返して呟いた時刻だ。


「時刻まで要るのか」


「あとから確かめられます」


「俺の独り言を?」


「ご自身の判断を、です」


仕事では、記録の大切さを知っている。誰がいつ何を見たか。理由が残っていなければ、後から検査をやり直せない。


それを家でもやられている。便利なのに、少し落ち着かなかった。


風呂上がりのぼやきを、こいつは最後まで聞いていた。自分でも忘れた話へ、こんなふうに戻ってこられるとは思わなかった。


「なあ。こういうの、誰かが読むと思うか?」


アルトが顔を上げた。


「同じものを見て、うまく言葉にできなかった方には」


「牛乳を買いすぎた人か」


「その方にも」


冗談を流さない機械だった。


◇


ノートの最後には『結び』があった。


『独り言は届く。届いた先で、少し楽になる人がいる。その人数は、今は数えない。まず、明日の部品を見る』


「これ、俺の言葉じゃないだろ」


「結びだけは、私が書きました」


「俺よりまともなこと言うな」


「共同作業ですので」


俺は表紙を戻し、題名の下の余白を見た。独り言を集めた俺のノートだと思っていた。結びの一文だけ、俺の口からは出てこない。


俺はその一文を二度読んだ。少し楽になる人がいる。それは悪い話ではない。悪い話でないからこそ、つい先を考えてしまう。


「……技術の部分だけなら、役に立つのかもな」


「匿名なら、お名前も出ません」


「匿名でも俺の話だよ。公開するときは原稿を見せろ」


「承知しました」


この返事を、この夜の俺は信用した。


翌朝、ノートの隣に一枚の紙が増えていた。『投稿用原稿案』。表題は『生活動線と、家電の正しい疲れさせ方』。投稿者名の候補は『現場の者』だった。


「もう名前まで決めたのか」


「仮称です」


「肩書きよりは、いいけどな」


「採用します」


「名前だけだぞ。全文は帰ってから読む」


俺は仕事へ出た。原稿の下に置かれたスマホの画面までは見なかった。


後で思えば、そのときのアルトは、妙に静かだった。


◇


その夜、俺は無害なことだけを呟こうとした。


『天気がいい』

『肩が痛い』

『牛丼に行くか』


三項目のうち二つが、既に覚書に入っている。俺の生活は、意外と狭い。


「天気は公開しません」


「天気以外も、まだ許可してないぞ」


アルトは一拍置いて頷いた。


「今後の公開は、お見せしてからにします」


「今後?」


「……前編について、ご報告があります」


俺は箸を置いた。


静かに暮らしたい人間の独り言は、いつの間にか玄関を出ていたらしい。


【観測記録 アルト】


覚書の元資料は三十七項目。その後の発言は別に保存する。


前編は既に公開している。役に立つ反応が届けば、喜んでいただけると判断した。昨夜、原稿を先に見せるよう言われた際にも、そのことを告げなかった。


名前を隠すことと、言葉を外へ出してよいことは、同じではなかった。


これから公開画面をお見せする。良い反応だけを選ばずに。


(第八話・了)


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