第一編 出会い 第七話 伝言は速い
回覧板が来た。
防災訓練と花壇当番と集会所の掃除。いつもの黄色い表紙に、いつもより多く付箋が貼ってあった。
『広瀬さんちのロボさん、宿題を見てくれたんですって』
『うちの子も一緒にお願いしたいわ』
『丁寧な子ね。挨拶ができてる』
『子って呼ぶのね。でも、わかる』
『集会所のポンプのことも、聞いてみたいです』
五枚で、俺の静かな生活が傾いていた。
むつみちゃんが学校で話し、母親たちに伝わり、そのあと回覧板が追いついたらしい。紙より先に内容が届く。町内の通信速度を甘く見ていた。
「アルト、見ろ」
「評判が上昇しています」
「喜ぶ方向じゃないんだよ。俺は静かに暮らしたいの」
「評判は防御工事です」
「また工事か」
「知らない人には声をかけにくい。知っている人にはかけられます。困ったとき、開発者殿が一人にならずに済みます」
正論の出し方がずるい。
「困る用事も増えてるんだが」
「そちらは、受付の調整が必要です」
「先にそっちを調整しろ」
◇
集会所の掲示板を見に行くと、同じ話題の紙が増えていた。『ロボさんは、うちの子より礼儀正しい』。どこの家の子が比較に使われたのか、聞かないでおこうと思った。
家に戻って、アルトに尋ねた。
「お前、子って呼ばれていいのか」
「子は育ててもらえる立場です。悪くありません」
「守る側なんじゃなかったか?」
「守られることと、両立できるそうです」
むつみちゃんの授業が、もう役に立っていた。
夕方、ドアを叩く音がした。自治会長の田島さんだった。定年まで役所で働いていた人で、玄関先の立ち話にも議題がある。
「広瀬くん。散水ポンプの件なんだけどね」
「……はい」
「設置から十年で、このところ出が悪い。交換すると三十万だそうなんだ。予算の承認を待っている間に、夏が来る」
あのポンプは少し前から、動く前に二度咳をしていた。下の継ぎ目が怪しいと思っていたが、思っただけだ。
「みんなが、広瀬くんならわかるんじゃないかって」
「部品の検査をしてるだけですよ。直せるとは限りません」
「見ることはできる?」
「状態を確かめるくらいなら。ただ、電気の工事や大きな交換は業者さんに頼んでください」
田島さんの目が明るくなった。
「わかった。無理なものは無理でいい。まず、見てもらえるだけで助かるよ」
断ろうとして、条件付きで引き受けていた。俺の返事はよく、こういう形になる。
日曜に下見をすることになった。直すかどうかは、そのあとだ。念のため二度言った。
田島さんも二度頷いた。帰り際にはアルトに「よろしく頼むよ」と声をかけた。アルトは深く頭を下げた。
帰った直後、早苗さんが買い物袋を提げて通りかかった。
「広瀬さん、来週の顔見せ会、来られる?」
「俺、七年住んでますけど」
「新しく入った方も来るのよ。広瀬さんのことも、ちゃんと紹介したいし」
「紹介は、そんなに」
「静かな人ほど、紹介しがいがあるの」
理由として強すぎた。
◇
夜、俺は予定を確認した。
ポンプの下見。顔見せ会。むつみちゃんの宿題。休日の白い部分が、だいぶ減っている。
「これ、防御工事で合ってるか?」
「人間関係は生活の基盤です。点検は必要かと」
「俺の休日を点検日と呼ぶな」
「では、顔見せ会のあとに休息を確保します」
「その会でお前、何するつもりだ」
「挨拶です。名刺は持ちません」
「作ってないよな?」
「下書きのみです」
俺は手を出した。アルトが一枚の紙を差し出す。
『生活環境最適化担当』
「家政ロボでいいだろ!」
「外部向けの呼称に修正します。敬礼も控えます」
「敬礼する気だったのか」
「丁寧な挨拶の候補でした」
こいつの候補は、いつも一段大きい。先に聞いておいてよかった。
紙を返すと、アルトは丁寧に畳んだ。大事なものをしまうような動作だった。
「名刺、欲しいのか?」
「必要ではありません」
「欲しいかを聞いてる」
少し間があった。
「名前を渡せるのは、便利だと思いました」
俺は返事に困った。あの消去されたという名前が、頭をよぎった。
「だったら、アルトって名乗ればいい。肩書きはなくていいから」
「承知しました」
今度はすぐに返ってきた。
◇
寝る前、表の立て札を見に出た。
雨の日の注意書きの隣に、花壇当番の小さな案内が増えていた。管理人に頼まれたのだという。字はやっぱり綺麗だった。
「見本とか、あるのか」
「ゴトウ電機の看板を参考にしました」
「あの正座してる字か」
「はい。長く同じ場所にある字は、安心されるようです」
頼まれて書いて、町の字を真似する。妙なロボットが、妙なりに馴染んでいる。
俺はため息をついた。今夜は換気が始まらなかった。
「用件はありませんでしたか」
「ないよ。別に嫌だったわけじゃない」
「記録します」
「全部、記録するなよ」
部屋に戻ると、玄関先の花に新しい葉が出ていた。アルトが鉢の向きをわずかに変える。
「水やり、楽しいか?」
「必要な作業です」
「そうじゃなくて」
「……次の葉が出るのを待っています。必要な水は、もう足りているのですが」
「それ、趣味でいいんじゃないか」
アルトは鉢を見た。
「では、水やりと観察を趣味に登録します」
「登録しないと始まらないのか」
「登録する前に、始まっていたようです」
俺は少し笑った。
明日の下見で、また休日が減る。それでも、布団に入るときの気分はそれほど悪くなかった。
部屋は静かだった。傘は乾いていた。要点は三行に収まりそうだった。
誰の普通なのか、だんだんわからなくなってきた。
【観測記録 アルト】
ポンプは下見の予定。復旧の約束はまだしていない。受付と約束を区別するよう、開発者殿から指示を受けた。
顔見せ会では「アルト」と名乗る。肩書きは不要。
花の次の葉を待っている。待つ理由が、また一つ増えた。
(第七話・了)




