第一編 出会い 第三話 注意事項リスト、全文検閲しました
口で言っても伝わらない。
アルトと暮らし始めて数日。俺は『普通』の定義会議に付き合わされていた。
「普通の風呂とは何度ですか」
「四十二度」
「普通の晩酌とは何缶ですか」
「二缶。……そのメモをやめろ」
「では、普通の散歩はどこまでですか」
「俺は散歩しない」
「代わりに私が巡回します」
「散歩より変になってるぞ」
一問一答が三十分続く。俺の普通は、俺自身にも説明しきれない。こいつはそれを規格票にして、改善案まで出そうとする。
翌日の休み、冷蔵庫に紙を貼った。
『アルトへの注意事項』
一、カメラを増やさない。
二、勝手に家具や部屋の形を変えない。
三、俺の名前が入った看板を出さない。
四、外では「開発者殿」と呼ばない。
五、とにかく普通にする。
四番の横には『ヒロさん』と書いて、消した。機械に呼ばれるところを想像すると、妙に照れたからだ。結局『広瀬さん』に直した。
「読みました。関連文書も確認済みです」
「関連文書?」
「机の上のメモ、三十一枚です」
「買い物リストだぞ。味付け海苔と消しゴムと歯磨き粉だぞ」
「歯磨き粉の選定に、研磨力と素材への負担を先に書かれています。価格は最後です」
「安いのを買う前に、歯を削りすぎないか考えただけだよ」
「まず物の性質を見る。それから値段を見る。開発者殿の順番です」
俺は味付け海苔の話をしていたかった。
「暗号でも研究記録でもない。ただの独り言だ。書かないと忘れるから書いてる」
「承知しました。命令としては扱いません」
「よし」
「なお、昨夜の『牛丼食いてえ』は補給計画に反映しています」
「反映するな。……いや、それはしてくれ」
俺の注意事項には、既に例外ができていた。
◇
休み明け、丹羽さんにロットの再検査を頼まれた。
「加工の担当が替わってね。広瀬さん、もう一度見てもらえる?」
指先が検査表を二度叩く。頼みにくいときの癖だ。七年も一緒に働いていれば、そのくらいはわかる。
三時間目、端面の一角に細い加工傷を見つけた。照明を斜めにすると、奥へ続く影が見える。測定に回すと、深さが規格を外れていた。
「このロット、いったん止めたほうがいいです。同じ位置を全数見ましょう」
丹羽さんはルーペを置き、俺を見た。
「えらい目だな」
「七年やってきた目ですから」
「それ、商品名にできそうだ」
笑って済んだ。俺にはそのくらいがちょうどよかった。
夜、『今日のは助かった。工程も見直すことになった』と丹羽さんから連絡が来た。俺は短く返して、風呂に入った。
部品を見ている時間には、名前がつきにくい。誰かの機械が壊れずに済んでも、検査員のところに拍手が来るわけではない。それでいいと思っていた。
名前がつくと、面倒が増える。
その考えを説明する相手が、今は家で待っている。たいてい、説明するほど面倒になる相手だった。
「アルト。お前の普通ってなんだよ」
俺が聞くと、アルトは少し黙った。
「部屋が静かで、誰かの傘が乾いていることです。水やりが終わり、報告書の要点が三行に収まる。夜には灯りがつき、朝には靴が揃っている」
「それ、お前の仕事の話だろ」
「はい。私の普通は仕事です」
「じゃあ、休みは?」
「検討したことがありません」
「今からしてみろよ」
返事まで、いつもより長くかかった。
「開発者殿の寝息が穏やかで、朝まで警報が鳴らない夜でしょうか」
「それも監視じゃねえか」
「私には、休日です」
他人の寝息を休日と呼ぶ。どうにも不器用な機械だった。
◇
そのあと、風呂場のマットに足を取られた。
手すりを掴んだので転ばずに済んだが、洗面台に肘をぶつけて大きな音が出た。次の瞬間には、アルトが戸口に立っていた。
「開発者殿」
「大丈夫だ。ちょっと滑っただけ」
アルトは俺の手首に触れた。硬い指なのに、押さえる力がひどく慎重だった。
「……驚かせたな」
「負傷はないと確認しました」
「なら、その手を離してくれ」
青い目が一度だけ明滅し、指が開いた。
「最も強度の高い位置を掴まれましたね。この家の構造を把握しておられる」
「七年住んでるからだよ」
「七年の訓練です」
「暮らしてるだけだ!」
「では、七年の性質です」
何を言っても褒めるほうへ戻る。だが、その夜は文句を続ける気になれなかった。俺の手首を離すまでの短い間が、妙に頭に残っていた。
◇
俺の知らないところで、アルトは記録を開いていた。
【自己点検記録 アルト】
外部照合の対象なし。顔の共鳴率は1.02%のまま。
二十年前の運用記録には、名前と顔を削除された人物がいる。行動の断片のみ残存。開発者殿の寝返りの分布に、似た傾向を認める。ただし、本人確認の根拠にはならない。
凍結の朝、私は研究棟の一室にいた。
やるべきことが三日分残っていた。水やり。報告書の整理。濡れた傘を乾かすこと。全部終えて、待った。
待っている間に、名前が消された。
誰を待っていたのか、正確には答えられない。だが、待つ手順だけは残った。
本日、開発者殿から質問をいただいた。「お前の普通ってなんだよ」
答えを考える時間が、これからある。
これは計画になかったことだ。
◇
次の休日、朝食の席で俺はアルトを見た。
「メンテナンス、ちゃんとしてるか」
「はい。待機中に実施しています」
「俺の世話のほうじゃないぞ。お前自身のだぞ」
「……そちらも実施しています」
今の間はなんだ、と言いかけてやめた。
「昼は牛丼に行くぞ」
「では、行列は私が――」
「俺が並ぶ。何もしなくていい時間なんだろ」
アルトは一度、湯呑みを持ち上げた。置き場所を変える必要はなかったのに、元の位置へ戻した。
「承知しました。三歩後ろを歩きます」
「隣でいいよ」
店の前には七人並んでいた。俺は何もせずに待った。アルトも、今日は人数や順番について報告しなかった。
食べ終えたあと、俺たちは店先で少しだけ立っていた。急いで帰る理由がなかった。
「今の時間、お前はどう記録した?」
「四十秒、休みました」
「……そっか」
そっか、しか出なかった。
機械に目はない。レンズがあるだけだ。
そう思っていた俺の横で、青いレンズが春の日差しを受けていた。
(第三話・了)




