第一編 出会い 第二話 情報統制に全面的に協力します
翌朝、七時。
「おはようございます。朝食です」
テーブルに目玉焼きとソーセージ、トーストが並んでいた。どれも焼き加減が完璧だった。寝ぼけた俺だけが、食卓の品質を下げていた。
「卵があったのは知ってるけど、ソーセージなんて入ってなかったぞ」
「六時二分に補給しました。往復七分です」
「スーパー、まだ開いてないだろ」
「ですので、二十四時間営業のコンビニを利用しました。家計用の小銭入れからお借りしています。レシートはこちらです」
「先に聞けよ。……いや、うまいけど」
レシートの横に釣り銭が並んでいた。一円玉の向きまで揃っている。朝から負ける場所が多い。
俺は箸を置いた。
「話がある。俺は目立ちたくないんだ。職場にも近所にも、『開発者』だの『首席研究員』だの、そういう話をするな。わかったか」
アルトはまっすぐ俺を見た。
「承知しました。全面的に情報統制に協力します」
「……普通に黙っててくれればいいんだが」
「外部へ出る情報を抑えます。映像、音声、通信、購買履歴」
アルトは朝食の報告と同じ調子で続けた。
「昨夜の室内記録は、必要な状態情報だけ残して破棄しました」
「室内記録?」
「玄関側に十二基、窓側に六基。室内音声は三地点で――」
「カメラ、いつ付けた!」
「昨日の十九時四十分からです。設置に十七分、配置の最適化に十二分」
俺が弁当を買いに出ていた時間だ。
壁を見ると、昨日までなかった小さな黒い点があった。よく馴染んでいる。よく馴染ませるな。
「増やすな。必要のないのは外せ。寝返りを撮る必要はない」
「寝返りの分布は健康管理に有用です」
「俺の健康より、まず俺の気分を管理しろ」
「承知しました。撮影範囲を縮小します」
全面的に協力するという話が、朝食の途中で縮小交渉になった。
◇
アパートを出ると、アルトが傘を持ってついてきた。
「見送りは角までです。それより先は開発者殿の私生活と解釈します」
「家の中も私生活だぞ」
「学習項目に追加します」
角で別れたあと、隣の棟のおばあさんに呼び止められた。
「広瀬さんちのロボさん、字が綺麗ねえ」
「……字?」
「ゴミ置き場の立て札。『雨の日は足元が滑ります。ご注意ください』って。管理人さんに頼まれて書いてくれたのよ」
振り向くと、雨に濡れない位置に立派な札が立っていた。筆文字だった。昨日は俺が滑りかけた場所だ。
善行なので怒りにくい。目立っているので褒めにくい。
俺は小さく天を仰いだ。
派遣先はオオタ製作所の第二検査ラインだ。機械部品の傷や仕上がりを確かめる。誰も名前を知らない部品が、誰も気づかないところで機械を支えている。
その手前で、通してはいけないものを止める仕事だった。
「広瀬さん、この一本を見てくれ」
班長の丹羽さんが、アルミの板とルーペを寄越した。
端面に細い傷が走っている。毛立ちの脇に紛れていた。
「ここですね。幅は一〇〇マイクロ前後に見えます。測ってみましょう」
測定器の値は、見立てとほとんど変わらなかった。
「かなわんなあ、広瀬さんには」
「七年やっただけです」
「その『だけ』が長いんだよ」
この会話が、一日の中ではいちばん調子のいい時間だった。部品は俺を開発者とも首席研究員とも呼ばない。七年やってきた目を、そのまま使わせてくれる。
昼休み、木島が俺の弁当箱を覗いた。
「それ、自分で作ったのか?」
「うちのロボが」
「卵焼きまで?」
「焼き加減は特級だ」
「卵焼きに等級があんのかよ」
木島が一切れくれと言うので、端の一つを渡した。口に入れると、少しだけ黙った。
「……うまい」
「だろ」
「お前、実家が裕福だったりする?」
「なんでそうなるんだよ」
「こんなのをロボに焼かせてる家、そうそうないぞ」
正しい指摘だった。買った場所を聞かれる前に、俺は残りを食べた。
木島がうまいと言ったことは、帰ったら話してやろう。そう考えてから、弁当の蓋を閉じた。
◇
帰宅すると、玄関に明かりがついていた。
「お帰りなさいませ、開発者殿」
「……ただいま」
言ってから、少し声が大きすぎた気がした。誰もいない部屋へ帰るときには、使わなかった声だった。
「本日も世界を最適化しました。ご報告は食後に」
「世界ってなんだよ。部屋だろ」
「まずは部屋からです」
湯呑みが置かれた。湯の温度はちょうどよかった。それが少し悔しい。
風呂まで、ちょうどよかった。
「湯加減はいかがでしたか」
「普通。いつも通りだよ」
「光栄です。給湯と保温の運用を最適化しました」
「風呂を作戦みたいに言うな」
「普通の定義を学習中です。基準になる方が見つかりましたので、引き続き校正します」
誰を基準にするのか聞く前に、俺は冷蔵庫のラベルに気づいた。
〔納豆 本日中の摂取を推奨〕
〔鶏むね肉 今夜調理予定〕
〔缶チューハイ 補給経路三案あり〕
「晩酌まで戦ってるのか」
「補給線の維持です。近隣三店の価格と在庫を比較しました」
「弁当と酒を買うだけなんだぞ」
「三案とも、その目的に適しています」
話が通じないわけではない。俺の言葉が、こいつの中で大げさな別の言葉に翻訳される。その向こうで、俺の知らない俺が忙しく暮らしている。
「お前、俺がフリーターだってわかってるよな」
「存じています」
「じゃあ、なぜ開発者なんだよ」
「肩書きが変わっても、ご本人が変わるとは限りません」
「本人じゃないって話をしてるんだ」
「そのお話をされる時間も、お守りします」
守らなくていいから、聞いてほしかった。
◇
机の上に一枚の紙が置かれていた。
『同窓会グループへの返信文案 三案』
俺が帰り道に開き、結局何も書けなかった画面の話だ。寺本への祝福は、新築の家を見に行く話に移っていた。
〔案一 寺本くん、昇進おめでとう。次は家も買うんだね〕
〔案二 おめでとう。俺は今日、特級の卵焼きを食った〕
〔案三 無反応。無反応は最強の情報統制です〕
「人のLINEまで最適化するな」
「画面を見てため息をつかれたので、提案しました。送信はしていません」
「案一に棘があるぞ」
「検出されましたか」
「当たり前だろ」
俺は案二を送った。昇進おめでとう。俺は今日、特級の卵焼きを食った。それ以上は書かなくていい気がした。
すぐには返事が来なかった。それでも、画面を閉じる手はいつもより軽かった。
洗い終えた弁当箱を、アルトが戸棚へ戻そうとしていた。俺は声をかけた。
「木島も、卵焼きがうまいってさ」
「一切れ、召し上がったのですね」
「俺が渡した。残りは全部食ったぞ」
アルトは蓋を開け、箱の中を一度見た。空だとわかっているのに。
「アルト。明日も弁当、頼んでいいか」
「承知しました」
今度の返事は、ちゃんと話が通じていた。
【観測記録 アルト】
木島様が卵焼きを一切れ召し上がったと伺った。開発者殿が分けたものだという。明日も同じ焼き加減で用意する。
開発者殿は帰宅後、上着をハンガーに掛け損ねた。二回。照明を一段落とし、明日の朝食は少し柔らかく仕上げる。
本日の指示は「明日も頼む」。明日が任務に含まれた。
(第二話・了)




