第二編 社会 第二十話 検査日報の行方
火曜のラインは平穏だった。
その平穏な日に、俺は検査日報を書いた。ロット番号三二〇〇。端面の加工傷が三件。測った深さは許容範囲に収まっているが、向きと位置が揃っている。
『治具の摩耗が疑われる。三件のみで原因は確定できないが、同一工程の追加点検を提案する。摩耗が進む場合、今後数週間で不良率が上がる可能性あり』
加工中の部品を支える治具が、片側だけ減っているのではないか。そこまで書くと、欄の最後に文字が詰まった。
いつもより少し長い。俺の日報は、大体そんな具合だった。
丹羽さんに渡して帰った。
翌朝、班長に呼ばれた。
「昨日の件、調べたら当たってた。治具に偏った摩耗があったよ」
「交換ですか」
「まず予備に替える。それと、同じ型の治具を使ってる納入先にも知らせる」
丹羽さんの手には、俺の日報の写しがあった。
書いて、提出して、それで終わると思っていた紙が、別の机へ行こうとしていた。
検査台へ戻ると、木島が交換前の治具を眺めていた。
「ここか。言われて見れば、減ってるな」
俺も横から見た。部品に残った傷と、治具の当たる位置を比べる。話が合うところと、まだ確かめきれていないところがあった。
「写真、もう一方向から撮っていいですか」
班長に聞くと、品質担当を呼んでくれた。
日報の一行を確かめるために、いつもより多くの手が動いている。俺の仕事が急に大きくなったのではなく、見えなかった先の仕事が見えるようになったのかもしれなかった。
◇
午後、社長と品質担当者の打ち合わせに呼ばれた。
治具はオオタ製作所だけのものではなかった。共通の供給元から、複数の加工会社へ渡っている。手元の不良を撥ねるだけでは、別の場所で同じものが出るかもしれない。
「日報の観察部分を、取引先へ共有したい」
社長が言った。
「数字と、推測を分けて書いてくれたのが助かった。公開できる範囲も、こちらで整理する」
俺は頷いた。会社の資料だ。どこへ出すかを決めるのは、俺だけではない。
「説明で足りないところがあれば、書きます」
「頼む」
その夕方、承認された概要だけを持ち帰った。図の配置を整える作業を、アルトに手伝ってもらうためだ。現物の写真や顧客名、加工条件は含めない。
アルトは紙を見て、すぐに言った。
「これは、広く知らせたほうがよいと思います」
俺は湯呑みを置いた。
「勝手には出すなよ」
「出しません。ですが、同じ治具を使う方が、取引先の外にもいるかもしれません」
俺も同じことを考えていた。
だからこそ、先に相談した。
◇
翌日、丹羽さんに話すと、社長へ上がった。治具の供給元にも確認し、当面の点検項目を共同で知らせることになった。
業界紙が取り上げたのは、その数日後だ。
『加工傷の偏りから治具摩耗を発見。複数の現場へ点検呼びかけ』
発信元はオオタ製作所。担当検査員の名前は、俺の希望で出さなかった。記事になった文は俺の日報そのものではなく、会社が確認した観察と対策の要約だった。
それでも、見覚えのある図がある。
俺は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
「広瀬さんの日報、遠くまで行きましたね」
若手が言った。
「会社の発表だよ」
「最初に書いたのは広瀬さんでしょう」
そうだ。今度は、どうやって外へ出たのか全部知っている。それでも落ち着かない。
自分の判断が、別の人の判断の入口になる。公開するとは、そういうことだった。
◇
夜、記事の反応を読んだ。
『うちでも点検したら、同じ位置に摩耗がありました』
『交換周期だけで見ていた。取り付け方も確かめたい』
『検査の記録を取っておく意味がよくわかる』
感謝の言葉の間に、疑問もあった。条件が違う場合はどうなのか。三件だけで警報を出すのは早すぎないか。
「三件で断定したわけじゃないんだけどな」
「追記用の説明をまとめますか」
「ああ。でも、会社で確認してから」
アルトは頷いた。
以前なら、もう返信していたかもしれない。今は、質問と回答案を別の欄に置いている。
「前だったら、勝手に出したか?」
「出したと思います。早いほど多くの故障を防げると考えて」
「今回、遅すぎたと思う?」
アルトは記事を見た。
「私の知らなかった点検結果が、記事に加わりました。問い合わせ先もあります。早く出しただけでは、書けなかったことです」
「じゃあ、待った意味はあったな」
「はい。ただし、待つ間は長く感じました」
その感想は、少しこいつらしかった。
◇
週の終わり、三社が類似の摩耗を見つけたと連絡があった。交換用の治具は合計四十本。発注しただけで全部が解決するわけではなく、既に加工した部品の追跡も始まった。
数字を聞いて、俺は嬉しくなるより先に黙った。
「そんなに、同じものがあったのか」
アルトも、勝ったとは言わなかった。
「早く気づけた分だけ、調べる時間があります」
「俺は、ここで部品を見てただけなんだよな」
「その場所からしか、見えないものがありました」
机には、訂正と追記を入れた図があった。明日、丹羽さんに渡す。もう一度読もうとすると、アルトが白紙を一枚、差し出した。
「何か足りないか」
「鞄へ入れる際の、折れ防止です」
俺は図を挟み、鞄へしまった。それでも携帯へ手が伸びた。新しい報告が来ていないか、また確かめようとしていた。
「お前も、気になるか」
「はい」
こいつまで待っている。それなら俺だけで画面を睨んでいても仕方がない。
携帯を伏せて、流しに残った湯呑みを洗った。布巾を受け取るとき、アルトの手も、もう画面には触れていなかった。
【観測記録 アルト】
公開は関係先の確認後、会社名で実施。開発者殿のお名前は非公表。
三社で点検が進行。交換治具は四十本。効果は発注数だけでは測れないため、検証結果を待つ。
待つことと、何もしないことは違う。本日は、その区別を記録する。
(第二十話・了)




