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第二編 社会 第十九話 迎撃と迎え撃たれる

次に矢代さんと会ったのは、翌週の木曜だった。


駅前で十五分。出勤前に会うことは、前の晩に連絡を受けて決めていた。


「先日は、ありがとうございました」


「こちらこそ。二杯分、ごちそうさまでした」


矢代さんは薄い資料を一枚出した。


「先日の規格書の話で、一つだけ質問してもいいですか」


来た。今日は俺も、質問で返すつもりだった。


「何のための質問ですか」


矢代さんは少し驚き、それから頷いた。


「広瀬さんにお願いしたい仕事の範囲を考えるためです」


逃げずに答えられると、迎撃の次がわからなくなる。


◇


「五年前の製品の規格が、今どうなっているかはご存じですか」


「今担当しているものは読みます。担当から外れた製品の改訂までは、追えてません」


「当然だと思います。ただ、経験を他の工程へ伝えるときには、その違いも確かめる必要があります」


矢代さんが見せたのは、具体的な規格ではなく、改訂前後で判断条件が変わる簡単な模式図だった。


「五年前に正しかった基準を、そのまま今日使えるとは限らない。ですから、私は現場の経験と文書を照らす時間を、仕事として確保したいんです」


俺は資料を見た。


現場の経験が立派だ、で終わる話ではなかった。経験を使うために、読み直す時間をくれるという。


「……それなら、必要だと思います」


「手伝っていただけますか」


頷きかけて、止まった。


アルトの質問リストを思い出した。時間。目的。誰が頼むのか。


「まだ、はいとは言えません」


矢代さんが黙る。


「会社の仕事に関わるなら、俺個人だけで決められないです。派遣元とオオタ製作所にも話を通してください。資料をどこまで使えるかも、先に」


言い終えると、変に喉が乾いた。断ってはいない。それでも、いつもの相槌より力が要った。


矢代さんは資料を引っ込め、頭を下げた。


「おっしゃるとおりです。私が先を急ぎました」


手帳には、もう俺の名前の下に仕事の候補が三つ書かれていた。矢代さんはその横へ、大きく『未相談』と足した。


「社内へ説明できる形にしようとして、ここでお返事までいただこうとしていました。申し訳ありません」


「急いでくれるのは、ありがたいんですけど」


「では、正式な提案にする前に、関係先へ確認します。確認できた範囲を持って、もう一度ご相談します」


十五分になる前に、話は終わった。


俺は会社へ歩きながら、肩が少し軽いことに気づいた。答えを出さなくても、話を前へ進める方法はあるらしい。


◇


夜、アルトへ報告した。


「迎撃、どうだったと思う?」


「相手を帰らせる作戦としては、不成功です」


「やっぱりか」


「ご自身の条件を伝える作戦としては、成功です」


「便利な採点だな」


「最初の目的設定に、誤りがあったのかもしれません」


アルトが、自分の間違いを長い理屈なしで言った。俺は湯呑みを置いた。


「矢代さん、悪い人じゃなさそうだぞ」


「はい。ですから、追い返したいのか判断できません」


「守るんじゃなかったか」


「開発者殿を理解しようとする方を、遠ざけてよいのか。そこが、まだ」


青い目が少し伏せられた。


「喫茶店からお帰りになった日は、お話が長く続きました。次も話したいとおっしゃっていました」


「うん」


「それを聞いてからも、私は相手を遠ざける準備をしていました」


机には、アルトが作った質問の一覧があった。俺が困らないようにと揃えた言葉が、こいつ自身を困らせている。


「胸のあたりが、処理の遅れる感覚になります」


「機械の不調か?」


「自己点検では異常がありません」


「じゃあ、心が痛いってやつかもしれないな」


アルトはしばらく黙った。


「名称の候補として、保存します」


「すぐ確定しなくていいぞ」


「はい」


俺は質問の一覧を引き寄せた。時間と目的を聞く、その二つに丸をつける。


「これは助かった。お前に聞いてなかったら、勢いではいって言ってた」


「使える部分は、ありましたか」


「あったよ。全部捨てるな。俺も、断りたいのか話したいのか、最初はわかってなかったんだから」


アルトは紙を畳もうとしていた手を止めた。俺が丸をつけ終わるまで、端を押さえていた。


◇


必要な書類を、二人で一覧にした。


相手ごとに、何を聞くかを分けた。仕事の時間と費用、使ってよい資料。アルトが書式を整え、俺が確かめる。返事も俺がする。


一度に全部は埋まらなかった。送信は明日の朝にして、今日はわかるところまでにした。


「確認した分は、出していい。未確認のところは空欄のままで」


「承知しました。空欄を推測で埋めません」


「そこ、得意だろ」


「得意ですが、使わない練習をします」


俺は笑った。


得意なことを使わない。こいつには、部屋を改造するより難しいのかもしれない。


◇


夜中の二時に、一度目が覚めた。


頭に残っていたのは契約のことではなく、二杯のコーヒーだった。礼は言った。だが、次は俺がおごるという話は、まだしていない。


机へ行くと、アルトが顔を上げた。


「眠れませんか」


「ちょっと、手紙を書こうと思って」


便箋とペンが出てきた。今度は予測していたのではなく、引き出しから出しただけだ。俺はそれに少し安心した。


『矢代様。先日はありがとうございました。現場の話をあんなに長くしたのは、久しぶりでした。次は俺からコーヒーをおごらせてください。ひろせ修理 広瀬塑鉄』


短い手紙だった。丁寧すぎる気も、砕けすぎる気もした。二枚目を書こうとして、やめた。


俺の言葉は、これくらいだった。


読み終えたところで、アルトが尋ねた。


「写しを保存してもよろしいですか」


「なんで?」


「ご自身で書いた、お返事なので」


俺は便箋を渡した。アルトは一度だけ撮り、すぐ返した。原本を取らないところが、今夜はよかった。


「これで八百円、返したことになるか」


「コーヒーは、まだおごっていません」


「急に現実的だな」


「ですが、次の約束になりました」


封筒を閉じた。翌朝、会社宛てに出した。今度は俺から、仕事の顔へ送る手紙だった。


◇


翌週の日曜、矢代さんと再び会った。今度はこちらからコーヒーをおごる約束だった。


駅前で待ち合わせると、買い物へ行く途中のアルトも一緒になった。俺が矢代さんへ挨拶している間、アルトは黙ってこちらを見ていた。


「じゃあ、あとでな」


「はい。お気をつけて」


アルトを見送り、喫茶店の席へ着くと、矢代さんが言った。


「広瀬さん、ご自宅のロボットと、いい関係ですね」


「……普通ですよ」


「普通じゃないです」


矢代さんは少し笑った。


「あのロボット、広瀬さんを見る目が――大切な人を見る目をしてます」


俺は返事ができなかった。


「家族、ですか?」


「ええ、まあ」


「それも、いいですね」


矢代さんは次の議題へ移った。


帰り道、俺は考えた。


大切な人を見る目。


それは、どういう目だろう。


家に着くと、アルトが「お帰りなさいませ、開発者殿」と言った。


その声が、いつもより温かく聞こえた。


【観測記録 アルト】


木曜のご相談の後、ご本人の許可を受け、手紙の写しを保存した。


新しい感覚の候補、「心の痛み」。名称は未確定。守りたいものが、二つの方向へ伸びたときに生じる。


開発者殿は、便箋を一枚しか使わなかった。書き直さないことにも、判断がある。


翌週の日曜、駅前で矢代様にお会いした。お二人は喫茶店へ、私は買い物へ行った。帰宅された開発者殿は、私の挨拶のあと、少し長くこちらを見ていた。何を話されたのかは聞かなかった。


(第十九話・了)


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