第二編 社会 第十八話 喫茶店の二時間
喫茶店へ行く前に、作戦を三つ決めた。
自分を大きく見せない。会社の具体的な資料は出さない。一時間で帰る。
これなら守れると思った。入ってすぐ、矢代さんに聞かれた。
「七年間で、いちばん覚えている欠陥はなんですか」
俺はコーヒーを一口飲んだ。
「……五年前の冬です」
話し始めた時点で、帰る時間のことを少し忘れた。
◇
アルミの鋳造品だった。端面を加工したところに、小さな気泡の跡が三つ並んでいた。
「最初は、たまたまかと思ったんです。でも向きが揃っていて、奥へ続いてる感じがした」
「見ただけで、不良だと?」
「疑っただけです。表だけじゃ、奥で繋がってるかまではわかりませんから」
俺は紙ナプキンの端に、丸を三つ描いた。
「規格書に、連続する内部欠陥についての項目がありました。そこを示して、出荷を保留にしてもらった。追加の断面調査をしたら、やっぱり奥で続いてたんです」
「それで、ロット全体を?」
「再検査と原因調査です。対象は四百個。全部が不良だったわけじゃない。でも、そのまま通してはいけないロットでした」
矢代さんは、俺の描いた三つの丸を見た。
「規格書を知っていたから、止められた」
「知らなかったところを、読んで探したんです」
矢代さんは手帳に書いた『規格を熟知』を二本線で消した。その下に、『違和感があって調べた』と書く。
「すみません。私まで、結果を知ってから話を短くしていました」
俺はその書き直しを見て、ナプキンの図をもう少し向こうへ押した。
見つけた、と書けば一行だ。その前の迷いや、根拠を探した時間は、一行の外へ落ちる。
「消したほうも、残しといてください。どこが違ったか、あとでわかるので」
「はい。両方残します」
手帳を見せたまま答えてくれたので、俺は話を続けた。
◇
「もし、規格書に該当する項目がなかったら?」
俺は考えた。
「それでも、出荷を止めて調べてほしいと言います」
「ご自身の判断で、不良にする?」
「俺一人で決められる範囲じゃないです。ただ、わからないのに通していいとは言えない。丹羽さんに見せて、それでも迷ったら、その先へ回す」
言いながら、五年前の嫌な汗を思い出した。間違っていれば、大げさに止めたやつになる。合っていても、すぐには証明できない。
「怒られるかもしれませんけど、後で壊れるよりはいいですから」
矢代さんはハンカチを出して、眼鏡を拭いた。
「その手順を、うちの若手にも聞かせたい」
「俺、講師なんて」
「今すぐ、という話ではありません。まず、その判断が伝わる形を一緒に考えたいんです」
俺は身構えた。褒められた次に、知らない役割が来た。
矢代さんもそれに気づいたらしく、少し言葉をゆっくりにした。
「今の仕事を辞めてほしいのではありません。無理のない相談の形を、会社に提案できないかと」
「どういう形ですか」
「まだ、決めていません」
初めて、矢代さんが答えを持たない質問になった。俺は少し楽になった。
◇
一時間が経ったところで、矢代さんが時計を示した。
「お約束の時間です」
俺はナプキンの図を見た。三つの丸の横に、いつの間にか傷の向きの図まで増えていた。
「あと少しなら。さっきの、報告が三段階って話なんですけど」
自分から延ばした。
「その前に、一件だけ連絡していいですか」
アルトへ『一時間ほど遅くなる。俺が話を延ばした』と送った。返事は『夕食を温める時間を変更します』だった。理由を聞き返されなかったのが、少しありがたかった。
携帯をしまい、俺は矢代さんのほうへ向き直った。
そこから、さらに一時間かかった。
現場の言い回しを、そのまま残すと誰が読みにくいのか。数字へ変えると何が失われるのか。結論だけでなく、確かめた順番も短く書けないか。
矢代さんは何度も頷き、ときにはわからないと止めた。俺も、知らない会社の事情には知らないと答えた。
全部が噛み合ったわけではない。だからこそ、二時間かかった。
最後にはコーヒーが二杯になっていた。
「広瀬さん、またお話ししてもいいですか」
「予定を聞いてくれるなら」
「もちろんです」
会計は矢代さんが済ませた。俺の二杯分で八百円。誘った側だから、と言われ、強く押し返せなかった。
店を出ると、空は暗かった。
一時間で帰る作戦だけが破られた。それも、自分で破った。
◇
帰宅すると、アルトはいつもの湯呑みを出した。
「二時間になった」
「お話は、最後までできましたか」
「まだ、ある。俺のほうから延ばしたんだけどな」
「では、作戦の変更です」
「失敗って言わないんだな」
「必要なら変更するのが作戦です」
話した内容を伝えると、アルトは黙って聞いた。講師の話で、少しだけ目の光が変わった。
「次は、目的を先に伺ってはいかがでしょう」
「質問で返すってことか」
「はい。何を求め、どれだけの時間が必要なのか。まだ決まっていないことは、そのまま確認します」
「迎撃っぽくなったな」
「ご理解いただけて光栄です」
俺は笑い、八百円の話をした。
「どう返したらいいんだろうな」
「次はご自身がおごると、お伝えになれば」
「また会うのが前提かよ」
「会いたくない場合は、礼だけお伝えください」
答えは単純だった。俺が勝手に難しくしていただけらしい。
◇
机に名刺を置いた。
裏面はまだ白い。俺が話に詰まるたび、矢代さんは答えを先に書かず、ペンを置いて待っていた。その手のほうを、名刺の字よりよく覚えていた。
俺は、今日話した四百個のことをメモに残した。会社や製品がわからない範囲で、疑ってから確かめるまでの順番を書いた。公開するためではない。明日、自分で読み返すためだ。
「七年って、話すと長いな」
「二時間では、足りませんか」
「全部を話したわけじゃないけどな」
「続きがあります」
そう言われて、初めて少し誇らしかった。
誰かの知らない七年を、俺は持っている。持っているからといって、全部渡さなくていい。必要なところから話せばいい。
アルトが、コーヒー代を記録するかと聞いた。
「友情を帳簿にするな」
「友情、として扱うのですね」
「そこだけ拾うなよ。次は俺が払うって、覚えとくだけだ」
まだ友達と呼ぶには早い気がして、名刺を重ね直した。
その夜は、いつもより早く布団に入った。頭は疲れていたが、嫌な疲れではなかった。
【観測記録 アルト】
面談は二時間。後半の一時間は、開発者殿が希望された。
コーヒー二杯分、八百円。貸し借りの表に入れようとしたところ、友情を帳簿にするなと指示された。
表は作らない。次に何を話したいかは、ご本人が考えている。
(第十八話・了)




