第二編 社会 第十七話 初対面と、初手
「青葉製作所の矢代です。手紙、お読みいただけましたか」
「読みました。……まさか、食堂で会うとは」
矢代さんは、向かいの席に腰を下ろした。現場見学を終え、丹羽さんに紹介を頼んだのだという。
「訪問そのものは会社の用事ですが、今のお話は私個人のお願いです。お返事をいただく前に、押しかけた形になってしまいました」
謝り方に、営業の手慣れがなかった。好印象だった。好印象なのが困る。
「五分だけなら」
「ありがとうございます」
矢代さんは時計を見て、出しかけた手帳を鞄へ戻した。
「今日は、お話しできる日だけ伺えれば」
そう言ったのに、覚書の話になると、少し身を乗り出した。
青葉製作所、技術開発部。部品の調達先と、品質管理の間を行き来する仕事らしい。
「覚書を読みました。『手間』の話です。あれを読むまで、自分が何を言い損ねていたのかわかりませんでした」
「大した話では」
「うちでは、現場の声が届くまでに三段階あるんです。最後は数字だけになる。その数字は間違っていない。でも、なぜその時間がかかったのかが、なくなる」
俺は箸を持ったまま頷いた。
「調べ直したって書くと、何を、と聞かれる。そこまで書くと長いって言われるんですよね」
「ええ。短くした最後に、予定より遅れたという数字だけが残る」
初対面なのに、同じ日報を見たことがあるような返事だった。
「あの文章には、その途中がありました」
矢代さんが言った。
「ご本人かどうかを無理に伺うつもりはありません。ただ、ゴトウさんから、現場の話ができる方だと聞きました」
「投稿は、俺一人で書いてるわけじゃないです」
言ってから、箸を置いた。
全部否定するつもりだったのに、違う言葉が出た。
矢代さんは、その一言を追いかけなかった。
「そうですか。では、広瀬さんご自身の仕事のお話を、今度聞かせていただけませんか」
◇
五分が経つ前に、矢代さんは立った。
「明日の帰り、駅前の喫茶店ならおります。難しければ、別の日でも。お断りでも構いません」
俺は名刺を裏返した。日時を書けるだけの空白がある。
矢代さんはもう鞄を持っていた。急かさないのかと思ったら、かえってこちらから呼び止めたくなった。
「返事は、今日の夜でもいいですか」
「もちろんです」
矢代さんは頭を下げて食堂を出た。俺は冷めかけた卵焼きを食べた。アルトが増やした一切れも、ちゃんと残っていた。
◇
帰宅すると、アルトが待っていた。
「お帰りなさいませ、開発者殿」
「ただいま。会ったよ、矢代さん」
アルトは湯呑みを置き、話を聞く姿勢になった。
食堂の五分を説明する。名刺を渡すと、アルトは表と裏を見た。
「裏面が空欄です」
「普通だろ」
「まだ何も押しつけていない、という表明にも見えます」
「読みすぎだよ」
「はい。推測です」
訂正が早くなった。そのことを褒めるのは、こいつの思うつぼな気がしてやめた。
「行ったほうがいいと思うか」
「お話ししたいですか」
「質問を質問で返すな」
「私がお答えする前に、そこを伺いたいのです」
俺は湯呑みを持った。
怖くはある。知らない人に仕事を褒められると、次には俺の知らない俺を求められそうだ。だが、途中が残っていたという言葉は、もう一度聞いてみたい気もした。
「少し、話してみたい」
「では、時間を決めてはいかがでしょう」
「一時間くらいか」
「延長の可否は、その場でご判断を」
俺は名刺の連絡先へ返事をした。翌日の夕方。一時間だけ。
送信してから、深く息を吐いた。
「迎撃の準備をします」
「せっかくまともだったのに、言い方を戻すな」
「質問への対応案、です」
それでも、機械の頭の中では既に陣地が作られていそうだった。
◇
夜更け、覚書の管理画面を開いた。
『続きを書く』というボタンがある。そこへ指を置いたが、押さなかった。
書けばいいのかもしれない。直接話すより、文章なら考える時間がある。まず物を見る。それから値段を見る。現場の声を途中で潰さない。言いたいことは、いくつかあった。
ただ、誰に向かって書くのかがわからなかった。
読者なのか。矢代さんなのか。それとも、会うのを怖がっている俺への言い訳なのか。
「アルト。今、続きを出したら、矢代さんも読むよな」
「読まれると思います」
「会う前に説明できるな」
「はい。ただ、明日なら、わからないところをその場で聞いていただけます」
俺は指を離した。
画面の向こうへ逃げるのはやめようと思った。書かないことが逃げになる日もあれば、書くことが逃げになる日もあるらしい。面倒な話だった。
「続きは、明日しゃべってからにする」
「承知しました」
「うまく説明できなかったら?」
「その箇所を、あとで一緒に整えます」
それならできそうだった。
「帰ってから、同じ話を二度してもいいか」
「二度目は、わかりにくかったところを伺います」
「一度目は?」
「聞きます」
俺は名刺を引き出しにしまいかけて、机に戻した。明日持っていくものを、隠す必要はない。
◇
寝る前、アルトが確認した。
「明日は経歴を聞かれるかもしれません」
「工業高校を出て、いくつか仕事をして、検査で七年。それだけ」
「それだけ、と先に小さくしなくてもよいかと」
「お前はすぐ大きくするからな」
「では、寸法どおりに」
笑ってしまった。
「寸法どおりに話せたら、帰って報告する」
「お待ちしています」
灯りが落ちた。机の名刺は、暗がりでも白かった。
宿題じゃない、と自分に言い聞かせた。明日、話をしに行くだけだ。
【観測記録 アルト】
面談は明日の夕方。返事は開発者殿が送信された。
「続きを書く」は押されなかった。続きは対面で話した後に考えるとのこと。
名刺は引き出しではなく、机の上に残った。まだ逃げていない、という解釈を保存する。解釈であることも付記する。
(第十七話・了)




