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第二編 社会 第十六話 親切な人

八月の火曜日。朝食を食べ、出勤する。


普通の朝だった。机に置いた手紙を、三度読み返していることを除けば。


『青葉製作所、技術開発部の矢代と申します』


知らない会社ではない。オオタ製作所の取引先だ。部品の納入先として、仕事中に何度も名前を見ている。


「アルト。この人、実在するのか」


「会社の公開資料にお名前があります。在籍八年目。前職を含め、品質管理に十年携わっておられるそうです」


「どこまで調べた?」


「勤務先と職歴、公開されている発表資料です」


「家の住所とかは?」


「必要ありませんでした」


「必要になっても、勝手に追うなよ」


アルトは頷き、開いていた検索画面を閉じた。俺が覗くと、まだ何か調べ足りないように、指だけが画面のそばに残っていた。


手紙は丁寧だった。覚書に書いた『手間』の話が、青葉製作所の課題に重なるという。まず個人的に話を聞きたい。都合のよい時間を教えてほしい。


丁寧な人ほど、断りにくい。


「親切な人って、何をくれるんだろうな」


「今のところは、お時間を求めておられます」


「くれる側じゃないのか」


「交換を提案されているのかもしれません」


俺は封筒を鞄に入れた。まだ返事は書いていない。


◇


外に出ると、むつみちゃんが登校日の荷物を抱えていた。


「ヒロさん、行ってきます」


「行ってらっしゃい。……なんで俺が送り出してるんだ」


「ロボさんが、挨拶は朝の大事な仕事だって」


「学校行くほうが大事だぞ」


「わかってる!」


走っていく背中を、隣のアルトと見送った。最近は、町の人のほうからこいつに会釈する。俺もその横で頭を下げるので、角まで行くのに少し時間がかかった。


角で別れるとき、アルトが言った。


「本日、青葉製作所の方が派遣先へ訪問される予定だそうです」


「誰から聞いた」


「昨夜の丹羽様からの連絡です。開発者殿が予定表に入れるよう、お見せになりました」


思い出した。取引先の工程確認がある。俺にも現場で質問するかもしれない、と書いてあった。


「矢代さんも来ると思うか」


「可能性はあります。手紙には、近く御社へ伺う機会があると」


三回読んだのに、そこだけ薄く覚えていた。


俺は駅へ向かった。


改札の前で、黒いブレザーの男とすれ違った。眼鏡に左肩の鞄。見たことのない顔だったが、胸元の名札に青葉製作所の文字が見えた。


男が軽く頭を下げた。俺も反射で下げる。


電車に乗ってから、手紙の最後に添えられた連絡先を見た。顔写真はない。あの男が矢代さんかどうか、まだわからない。


わからないままが、少しだけ楽だった。


◇


会社ではいつもの検査が始まった。


訪問者は会議室に通され、俺はラインで部品を見た。こちらまで来る頃には昼休みになりそうだと、丹羽さんが言った。


「気になる?」


「いえ、別に」


「さっきから時計を見てるから」


「傷を見るのは、いつもどおりです」


「それならいいけど」


丹羽さんは笑って去った。俺はルーペを持ち直した。時計を見る時間が増えたことと、見落とさないことは別の話だ。だからこそ、目を戻す。


休憩の直前、手紙をもう一度読んだ。


『現場の声が、報告の途中で別の言葉に変わってしまうことがあります。あの文章には、変わる前の言葉があると感じました』


俺の文章ではない。俺とアルトの合作だ。


そう返せば済むのかもしれない。だが、自分で残した一文もある。投稿ボタンを押したのも、今は俺だった。


全部違うと言うのは、少しずるい気がした。


◇


弁当を持って食堂へ向かう途中、携帯が震えた。


アルトから短い連絡だった。


『本日の弁当は、卵焼きを一切れ増やしています。面談の成否とは関係ありません』


俺は立ち止まって笑った。


『面談なんか決まってない』


返事を打つと、すぐに返ってきた。


『では、通常の増量です』


何かを察している。察していて、会えとも逃げろとも言わない。


俺は『弁当、あとで食う』と送った。相談したいことはまだ形になっていなかったが、返事だけはしておきたかった。


俺は食堂の席に座った。


鞄から弁当を出すと、封筒も一緒に少し覗いた。表の『店主様』という文字に目が止まる。


名前ではなく、仕事へ宛てた手紙。


実際には、受け取っているのは俺だ。屋号を使ったからといって、別人になれるわけではない。ただ、何を聞きに来たのかは少しわかる。


開発者の正体でも、博士の学位でもない。


現場で何を見ているのか。


その話なら、答えられることがあるかもしれなかった。


◇


朝の黒いブレザーが、食堂の入口に見えた。


丹羽さんと短く話し、それからこちらへ歩いてくる。俺は箸を袋から出した。出して、置いた。何を準備しているのか自分でもわからない。


男は机の手前で止まった。


「広瀬さんでしょうか。お食事中にすみません」


声は、手紙の字に似ていた。そういう言い方をアルトがしたら、俺は読みすぎだと怒るところだ。


「少しだけ、お時間をいただけますか」


俺は向かいの席を見た。空いていた。


「座ってください。長い話は、できませんけど」


それだけ言うのに、置いた箸をもう一度持ち直した。


男が名刺を出した。


矢代、という字があった。


親切な人の形が、初めて顔になった。


【観測記録 アルト】


公開資料と、ご本人が見せてくださった予定を照合した。矢代様の来訪の可能性あり。


私は自宅で待機する。食堂の会話は聞かない。必要な話は、帰宅後に聞かせていただく。


卵焼きを一切れ増量。理由の説明は、少し失敗した。


(第十六話・了)


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