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第一編 出会い 第十五話 個人事業主の開発者殿

七月の休日、机に封筒が置かれていた。


「開発者殿。ご報告があります」


「また投稿が伸びたのか」


「開業の準備です」


俺は封筒の表を見た。『ひろせ修理』。見知らぬ店の名前だった。見知らぬのに、俺の姓を使っている。


「……誰の店だ」


「候補として、開発者殿の事業です」


中には開業に関する書類の下書き、売上をつける帳簿、依頼の一覧が入っていた。


早苗さんの換気扇。田島さんの給湯器の不調相談。鮮魚店の冷蔵ケース。勝手に増えていると思ったが、よく見ると『予約』と『相談のみ』が分かれていた。


「まだ出してないな?」


「提出していません。名義に関する手続きは、ご本人の確認を受ける約束です」


「覚えてたか」


「記録しております」


俺は畳に座った。安心すると、今度は書類の中身が気になった。


「なんで開業なんだよ。近所の手伝いだぞ」


「報酬を受け取り、継続して依頼を引き受けるなら、お金と責任を整理する必要があります」


帳簿には、先週俺が立て替えた部品代まで入っていた。小銭入れにレシートを押し込んだままでは済まないらしい。


正論を封筒に入れて朝から渡すなと思った。


◇


早苗さんの換気扇は、先週点検していた。交換する小部品も揃っている。


その午後、電源を抜いて軸まわりを清掃し、指定の部品を交換した。カバーを戻し、試運転をする。乾いた引っかかりの音が消えた。


二十分の仕事だった。だが、前の点検と部品を探した時間は、それより長い。


「ありがとう。これ、約束の分」


早苗さんが部品代と、工賃の千円を渡した。


「近所だし、工賃は――」


「現場の者さんが怒るわよ」


自分の文章には、もう少し逃げ道を書いておくべきだった。


俺は受け取り、領収書を書いた。字が少し曲がった。


千円で急に別人になるわけではない。けれど、お礼の饅頭とは違う重さがあった。次に同じような音がしたら、ちゃんと確かめに来ようと思った。


帰り際、むつみちゃんが小声で言った。


「ヒロさんと識者の人、似てるねって、パパとママが言ってた」


「……似てるだけかもしれないぞ」


「うん。でも名前は聞かない。内緒なんでしょ」


知られていないのではなく、言わないでくれている。


情報統制の外側に、そういうものがあった。


◇


ゴトウ電機へ寄ると、店長は帳場の端を空けた。


「商売を始めるんだって?」


「まだ考えてるところです」


「考えるなら、いくら受け取って何に使ったか、今日から書け。後で思い出すのがいちばん面倒だ」


俺はアルトの帳簿を見せた。店長は目を通して頷いた。


「よくできてる。だが、書いてある数字が本当か確かめるのは、お前だぞ」


「はい」


「あと、何でも直す看板は出すな。できないものまで来る」


給湯器の相談は、症状の聞き取りだけにして専門業者へ繋ぐことにした。冷蔵ケースも、冷媒まわりは触らない。依頼を受けることと、自分で全部直すことは違う。


「断るのが下手なら、断り方を先に決めとけ」


店長は缶コーヒーをくれた。甘かった。


「派遣の仕事と両方やって、大丈夫ですかね」


「雇ってる会社に確認しろ。勤務時間もあるし、寝ないで直して本業で見落としたら意味がねえ」


いつもの聞かない店長が、今日は必要なことだけを聞かせた。


「帳簿で困ったら持ってこい。申告の判断は、わかる窓口で聞けばいい。俺は領収書をなくさないやり方くらいしか教えられん」


それだけでも、俺には十分だった。


◇


数日かけて、派遣元に副業の扱いを確認した。勤務に支障を出さず、職場の設備や情報を使わない。請け負う範囲も、自分で説明した。


書類を読み直し、必要な手続きをしたのは俺だった。


『ひろせ修理』。


屋号を書く欄で、しばらく手が止まった。もっと立派な名前にすることもできたが、思いつく名前はどれも俺より先へ走っていった。


「これでいいか」


「ご自身のお名前です」


「まんまだな」


「わかりやすいと思います」


それにした。


届出の控えはファイルにしまった。アルトは屋号と開業日を書いた小さな紙を、額に入れて持ってきた。


二枚目の額だった。


「勝手に増やすなよ」


「飾ってよろしいですか」


俺は少し考えて、頷いた。


「チラシと看板は、まだなしだぞ」


「承知しました」


今回は、俺の返事を待ってから、感謝状の隣に置いた。


「お前の名前は、入ってないな」


「事業主は開発者殿ですので」


「それはそうだが」


紙の端を押さえ、俺は空いた場所を見た。名前を増やしたい理由は、商売の書類では説明できそうになかった。


仕事に使う机の明かりも、少し直した。ゴトウ電機で買った照明の部品を、小さな台へ取り付ける。金属の表面を見るとき、毎回同じ向きから光を当てたかった。


店長にもらった端材で試すと、角度によって傷の見え方が違った。台に目盛りをつけ、アルトに順番を説明する。まだ人に見せるほどのものではない。写真だけ残し、続きを休みの日の楽しみにした。


◇


月半ば、玄関先の花が咲いた。


店長にもらった株に、小さな一輪。回復に時間がかかり、アルトの最初の見込みより遅かった。毎日記録した葉の数の先に、やっと色がついた。


ちょうど、家賃の引き落としを確認した日だった。


「非日常が重なったな」


俺が言うと、アルトが振り向いた。


「はい。おめでとうございます」


俺は二十九歳で、派遣の検査員で、古いロボットと暮らしている。感謝状が一枚あって、小さな修理屋を始めて、玄関では花が咲いた。


花を見ているアルトの横へしゃがんだ。狭い玄関で、肩が触れそうになる。


「来年も咲くのか、これ」


「株の状態によります。手入れは続けます」


「じゃあ、水やりの間隔も教えとけよ。お前が整備に行ってる日は、俺がやる」


「ご負担を増やすことになります」


「家にある鉢だろ」


アルトは花のほうを向いたまま、しばらく黙った。俺は鉢の受け皿についた土を指で払った。


「開発者殿。修理のお手伝いも、続けてよろしいですか」


「頼む。けど、何も直すものがない日も、ここにいていいんだぞ」


青いレンズが俺へ向いた。


「仕事がなくても、ですか」


「俺だって休みの日はいる。お前だけ働きどおしじゃ、落ち着かないだろ」


「……承知しました」


少し遅れた返事だった。今度の承知しましたは、ちゃんと届いた気がした。


俺は先に立ち、戸を押さえた。アルトが鉢を日陰へ寄せ、部屋へ入る。机の前には、二人で座れるだけの場所があった。


◇


その翌週、店長から電話が来た。


覚書を読んだメーカーの人が店に来て、ポンプの修理の話を聞いたという。書き手が誰かは答えていない。ただ、技術の話を聞きたい相手がいる、と。


「手紙だけ渡していいか。嫌なら断る」


俺は迷ってから、いいと答えた。


数日後、ゴトウ電機経由で封筒が届いた。宛名は『ひろせ修理 店主様』。


『青葉製作所、技術開発部の矢代と申します。覚書を拝読し、現場で同じ問題を考えておられる方に、ぜひお話を伺いたいと思いました』


俺はアルトに見せた。


「これ、なんだと思う?」


「親切な方かもしれません」


「かもしれない、なんだな」


「まだ、お会いしていませんので」


俺は手紙を畳んだ。判断を急がない機械の横で、次に会う人の顔を考えた。


俺の中身は、ただのフリーターです。


ただし、小さな修理屋も始めました。


……本当に。


【観測記録 アルト】


屋号、ひろせ修理。手続きは開発者殿ご自身が確認し、実施された。


花、一輪。予測より遅い。記録から遅れを消さない。待った日も、この花の一部である。


来年の水やりを分担する話をした。仕事のない日にも、ここにいてよいと言われた。


返事に少し時間がかかった。聞き取れなかったわけではない。


次の来訪候補、矢代様。評価は保留。


(第十五話・了)


(第一編・完)


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