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第二編 社会 第二十一話 リコールの始まり

二万四千個。


会議室の紙に、その数字があった。


治具の摩耗が確認された三社で、影響の可能性がある部品を洗い出した結果だ。すべてが不良と確定したわけではない。だが、混ざっていないとは言えない。


一万八千個は既に出荷済み。六千個は工場や倉庫に残っていた。


「在庫分は出荷を止めた。出荷分は、納入先と確認しながら回収する」


社長が説明した。


俺の日報が、回収を始めるきっかけになった。防いだのはリコールそのものではない。その先で起きるかもしれなかった故障と、さらに不良を作り続けることだ。


そう理解すると、数字がいっそう重かった。


◇


顧客の一社から、礼状が届いた。


問題を早く共有してくれて助かった。納入済みの機械で故障が起きる前に調べられる。今後の点検にも協力してほしい。


もちろん、礼だけで済む話ではなかった。原因調査、費用の分担、交換の手配。社長も品質担当者も、何度も電話をしていた。


「広瀬。お前の日報がなかったら、もっと遅れてた」


「まだ、回収は終わってないですよね」


「ああ。だから続ける。お前は、今日の分を見てくれ」


俺は頷いた。


世界を救ったと言われるより、今日も見てくれと言われるほうが、仕事に戻りやすかった。


ラインでは木島が手を振った。


「英雄、お帰り」


「やめろ」


「じゃあ、広瀬。こっち見て」


差し出された部品に目を落とした。変な気負いは、それで少し消えた。


◇


帰宅して数字を話すと、アルトは静かに聞いた。


「一万八千は、もう外に出てたんだ」


「今からでも、戻せるものがあります」


「全部が直る前に、俺だけ褒められるのは変な感じだ」


「発見と回収は、別の仕事です。開発者殿の発見に礼を言った方も、回収が終わったとは考えていないと思います」


俺は湯呑みを両手で持った。


ポンプを直したときには、目の前で水が出た。今度は、行ったこともない場所へ部品が戻ってくる。直った音を全部聞くことはできない。


「目で確かめられないな」


「報告を待つ必要があります」


「お前でも?」


「私でも、です」


その返事が、今夜はありがたかった。


◇


業界紙の記事が更新された。


『治具摩耗の点検、回収へ。対象部品二万四千個』


記事の下には、最初の観察をした人は誰かという書き込みがあった。オオタ製作所へ取材の電話も来ているらしい。


「名前が出たら、どうなるんだろうな」


「技術について問い合わせる方が増えると思われます。ただ、全員が私生活に関心を持つとは限りません」


「限りません、か。断言しなくなったな」


「見えていない方まで、統制できるとは言えませんので」


俺は苦笑した。万能みたいな顔をしていた機械の答えが、少しずつ現実的になる。安心が減るのかと思ったが、逆だった。


「じゃあ、できるところから頼む」


「会社からの確認事項を整理します。お名前を出す場合は、その都度ご判断いただけるように」


俺は頷いた。


名前を永久に隠せると約束されるより、出すときに聞いてくれるほうがよかった。


◇


翌朝、丹羽さんが日報の束を持ってきた。


「これからは、所見の欄を少し広げることになった」


新しい書式には、観察した事実と、疑う原因を書く欄が分かれていた。俺だけのためではない。全員が使う紙だった。


「それから、外に出す資料は品質担当を通す。名前を載せるときは本人にも確認する。そこを、きちんと決めた」


「助かります」


「匿名だって、社内では誰が何を見たかわからなきゃ困るからな。自分の欄には、今までどおり署名してくれ」


俺は新しい日報に名前を書いた。


広瀬塑鉄。


毎日書いてきた字なのに、今日は少し丁寧になった。


丹羽さんが、その手元を見て言った。


「目立ちたくないのはわかった。でも、見つけたことまで小さくするなよ」


「……はい」


「間違ってたら一緒に直す。そのために、名前がある」


そういう署名なら、俺にもできる気がした。


◇


数日後、出荷分の回収が七割まで進んだと知らされた。戻ってきたものは、順番に測り直されている。異常のない部品も、基準を確認してから扱いを決める。


数字はまだ途中だった。


その夜、俺はアルトに言った。


「今日は七割」


「残りも、追跡中ですね」


「ああ」


アルトは記録に七割と書いた。勝利とも完了とも書かなかった。


夕食は生姜焼きだった。箸を取ったまま数字の話をしていたら、アルトが皿の端を指した。


「そこは、まだ召し上がっていません」


「皿の進捗まで数えるなよ」


「冷める前に、と思いまして」


食べると、生姜の匂いがした。うまかった。


その一口で心配が消えるわけではない。それでも、次の一口は温かいうちに食べた。風呂に入って、明日の分の目を休める。それしかできない夜もある。


「明日の朝、また記事を確かめるかも」


「公表された更新がありましたら、お伝えします。会社で聞かれたことは、また教えてください」


「なければ?」


「ないと、お伝えします」


俺は灯りを消した。


何も変わらなかった日を、勝手に埋めない。それも大事な記録なのだと、最近わかってきた。


【観測記録 アルト】


対象二万四千個。うち出荷済み一万八千個、未出荷六千個。未出荷分は保留。出荷済み分の回収は七割。


リコールを防いだ、とは記録しない。回収を始め、被害の拡大を防ぐために動いている。


本日の日報に、ご本人の署名あり。外部公開とは別の記録として管理する。


(第二十一話・了)


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