第8話「見捨てられた光と禁忌の劇薬」
深い闇の底に沈んでいたルシルの意識は、わずかな光と騒がしい音によって水面近くまで引き上げられた。
まぶたを開く力はない。
ただ、ぼやけた聴覚だけが周囲の状況を断片的に拾い上げていた。
部屋の外、重厚な扉の向こう側から、聞き覚えのある高い声が響いてきた。
「お願いです。アルフレッド殿下にお目通りを。私は彼を、光の魔法で癒すことができるかもしれません」
それは、乙女ゲーム本来のヒロインの声だった。
平民の出でありながら希少な光の魔力を持つ彼女は、作中において彼らの心を救い、導くはずの存在だ。
太陽のように明るく、誰にでも分け隔てなく接する彼女の存在は、陰謀渦巻く王宮において唯一の希望となるはずだった。
本来のシナリオ通りであれば、彼女はこの時期に学園で彼らと絆を深め、愛を育んでいる。
そして、悪役令息であるルシルを断罪し、華々しい結末を迎えるのだ。
彼女の清らかな声は、閉ざされた鳥籠の中に一筋の光を差し込むかのようだった。
彼女の魔法ならば、あるいは自分を救えるのかもしれない。
いや、命が助からずとも、彼女が本来の役割を果たし、彼らの狂った執着を解いてくれることをルシルは微かに期待した。
しかし、扉の向こうで響いたアルフレッドの声は、氷点下まで冷え切っていた。
「誰がその女を王宮の奥まで通した。近衛は何をしている」
「で、殿下。彼女は光の魔力を持つと申し出ておりまして、もしかすればルシル様のお体に」
「だから何だ。得体の知れない下賤の魔力を、私の婚約者に近づけるわけがないだろう」
ヒロインが必死に言葉を重ねる声が聞こえる。
「殿下、どうか私に一度だけ機会を。私の光の魔法なら、彼の凍りついた魔力を溶かすことができるかもしれません」
彼女は純粋な善意と使命感から、この異常な事態を解決しようとしているのだろう。
だが、アルフレッドにとって彼女の言葉は、ただの耳障りな雑音でしかなかった。
「黙れ。次その口を開けば、舌を切り落とす。彼に触れられるのは、この私だけだ」
一切の容赦がない、冷酷な宣告だった。
彼女が持つ本来の主人公としての魅力も、光の魔力も、今の彼らには何の価値もない。
ヒロインの小さな悲鳴が聞こえ、その後、近衛兵に乱暴に引きずり出されるような足音が遠ざかっていく。
本来結ばれるはずだった運命の糸は、ルシルという存在によって跡形もなく断ち切られてしまったのだ。
彼らの目は、もうルシル以外には何も映していない。
扉が開き、アルフレッドが部屋に戻ってくる足音が聞こえた。
彼の歩みはひどく荒々しく、室内の空気が一気に重たくなる。
「ノア。文献の解読はどうなっている。彼の心臓は、もうほとんど止まりかけているんだぞ」
アルフレッドの焦燥に満ちた声が響く。
部屋の隅では、魔石の光を頼りにノアが数え切れないほどの古い羊皮紙を広げていた。
紙の乾いた匂いと、酷使された魔石が焦げるような匂いが室内に充満している。
「わかっている。だが、魔力欠乏症を根本から治癒する術式はどこにもない。あるのは、この禁忌の術式だけだ」
ノアの声はかすれ、ひどく疲労していた。
「命の共有契約……」
ガレッドが重々しい声でその名を呟いた。
「そうだ。強力な魔力を持つ者が、自らの魔力回路と命の根源を対象者と直接接続する。術者の魔力が続く限り、対象者は死なない。いや、死ぬことができなくなる」
ノアは羊皮紙を指さし、狂気をはらんだ声で続ける。
「だが、これは魂を繋ぎ止める呪いと同じだ。術者と対象者の命が共有され、すべての痛みと魔力が連動する。彼を逃がさない代わりに、僕たち自身も永遠の枷をはめることになる」
「構わない。私と彼の命を繋げ」
アルフレッドがためらうことなく即答した。
「殿下、それはあまりにも危険です。もしルシル殿の病魔が殿下の命まで喰いつくせば、王国の未来が」
「王国の未来などどうでもいい。彼がいない世界に、私が君臨する価値などない。それに、私一人の魔力で足りないというのなら、お前たちも繋げばいいだろう」
アルフレッドの提案に、室内は一瞬の静寂に包まれた。
王太子、筆頭魔術師の弟子、騎士団長の息子。
三人の優れた才能と膨大な魔力を持つ彼らが、その命と未来をたった一人の少年に注ぎ込む。
それはまさに、神の理に逆らう禁忌の術だった。
「……元より、俺の命は彼を守るためにある。異存はない」
ガレッドが静かに同意した。
「魔術師としてこれほど興味深く、そして狂った実験はない。僕の魂も、彼の器に縫い止めてやろう」
ノアもまた、歪んだ笑みを浮かべてそれに賛同する。
ルシルは闇の中で、彼らの狂気的な決断を聞いていた。
やめてくれ。
私のために、あなたたちの未来を捨てることなどない。
私はただ、一人で静かに消えたいだけなのに。
ルシルは必死に声を上げようとしたが、口は開かず、指先一つ動かすことはできなかった。
やがて、ベッドの周囲を囲むように三人が立ち、冷たい手がルシルの胸元に、額に、そして手に触れる。
三人分の膨大な魔力が、儀式の詠唱とともに室内に渦巻き始めた。
「ルシル。君はもう、どこへも行けない。永遠に、私たちと共にあるんだ」
アルフレッドの甘く重たい囁きが、ルシルの意識を最後に捉えた。
眩い魔力の光が視界の裏で弾け、ルシルは逃げ場のない深い絶望と、熱を帯びた執着の鎖に巻き込まれていった。




