第7話「静かなる眠りと狂気の足音」
病魔がルシルの体を蝕む速度は、日を追うごとに加速していた。
時間の感覚はとうに失われ、朝の光なのか夜の闇なのかすら区別がつかなくなっている。
視界は常に白い霧がかかったようにぼやけ、耳に届く音も分厚い水の壁越しに聞いているように遠かった。
痛みはすでに通り越していた。
代わりにやってきたのは、体が綿のように軽くなり、世界から徐々に切り離されていくような浮遊感だ。
指先から少しずつ自分の存在が薄れていくのを感じる。
それは死がすぐそばまで来ていることの確かな証だった。
しかし、ルシルの心は不思議なほどに穏やかだった。
ついにこの重苦しい肉体から解放される。
誰の記憶にも残らず、ただ静かに消えていくというささやかな願いが、ようやく叶おうとしているのだ。
重たいまぶたを少しだけ押し上げると、枕元にはいつものように誰かの気配があった。
今日はノアだった。
彼の灰色の髪は手入れもされずに乱れ、目の下にはどす黒い隈が張り付いている。
頬はこけ、かつての理知的な天才魔術師の面影は見る影もない。
ノアは震える指先でルシルの腕を掴み、自身の魔力を絶え間なく流し込み続けていた。
彼の魔力は熱を帯びて体内に侵入してくるが、今のルシルにはそれを熱として感じる機能すら失われつつある。
ノアの指先から流れ込む魔力は、乾ききった砂漠に水を撒くようなものだ。
ルシルの壊れた魔力回路は、受け取った端からそれを空中に霧散させてしまう。
それでもノアは魔力の供給をやめなかった。
彼自身の顔色が土気色に変わり、唇から微かな血がにじんでいるのを見ても、彼は止まろうとしない。
魔術の真理を追究してきた彼が、今はただ一人の命を繋ぎ止めるという不可能に挑み続けている。
「……ノア、殿」
声帯を震わせるのもひどく労力が必要だった。
かすれた空気が漏れただけのような音だったが、ノアは弾かれたように顔を上げた。
彼の灰色の瞳には、痛々しいほどのすがりつくような光が宿っている。
「喋らなくていい。魔力の回路を修復しているんだ。僕の魔力で、君の枯渇した部分を補い続ける。そうすれば、君の命は保たれるはずだ」
早口でまくしたてるノアの声は、ひどく震えていた。
彼自身も、自分の行いがただの延命措置にすぎず、根本的な解決にはならないことをわかっているのだろう。
魔力欠乏症は、他者の魔力を無限に飲み込む底なし沼のようなものだ。
このままでは、ノア自身の魔力はおろか、命すらもルシルに吸い尽くされてしまう。
ルシルは力のない指先で、ノアの手を静かに押し返そうとした。
「もう……いいのです。あなたの命まで、削ることは、ありません」
「黙れと言っている。君の命を繋ぐのが僕の魔力だというのなら、何度でも削ってやる。僕のすべてを君にくれてやるから、頼むから、消えないでくれ」
感情を抑えきれなくなったノアが、ルシルの冷たい手に額をこすりつけた。
天才と持てはやされた彼が、今はただ一人の死にゆく少年の前で子供のように震えている。
ルシルは小さく息を吐き、静かに目を閉じた。
彼をこれほどまでに狂わせてしまったのは、自分の存在だ。
自分が早く消え去らなければ、彼らは元の輝かしい未来へ戻ることができない。
次に目を覚ましたとき、傍らにいたのはガレッドだった。
彼はルシルのベッドの脇にひざまずき、両手を組んで祈りを捧げている。
神など信じていなかったはずの屈強な騎士が、今はすがるように見えない存在に助けを求めていた。
彼の赤銅色の髪もまた、光を失ってくすんでいる。
ガレッドの硬い剣だこに覆われた手が、ルシルの青白い肌に触れた。
彼の赤い瞳には、数日徹夜したことによる太い血走りが浮かんでいた。
常に前線で剣を振るい、どれほど強大な魔物にも臆しなかった男が、今は見えない死神に怯えて震えている。
ガレッドにとって、守るべきものとは王国の平和であり、弱き民であったはずだ。
それがいつの間にか、ルシルというただ一つの命にすり替わっている。
「神よ。私の命を差し出しても構わない。どうか、この者の命を」
ガレッドの祈りの言葉は、ルシルの胸に痛いほどに響いた。
彼らはなぜ、これほどまでに自分に執着するのか。
自分は彼らにとって、ただの悪役令息でしかなかったはずだ。
彼らの優しさは、自分には重すぎる。
ルシルは微かに首を横に振り、ガレッドの祈りを遮るように声を絞り出した。
「ガレッド殿……」
「ルシル殿。目が覚めたのか。痛みはないか。何かほしいものは」
ガレッドは慌てて顔を上げ、ルシルの手を両手で包み込んだ。
彼の手はひどく温かく、そして微かに震えていた。
「祈るのは、やめてください。私は、もうすぐ」
「駄目だ。そんな言葉は聞きたくない。俺は君を守ると誓ったんだ。俺の盾で、どんな運命からも君を守り抜いてみせる」
ガレッドの言葉は力強かったが、その奥には深い絶望が隠しきれずに滲んでいた。
彼もまた、剣や盾ではどうにもならない死の足音に怯えているのだ。
ルシルは彼らの痛切な思いを受け止めることができず、ただゆっくりと呼吸を繰り返すことしかできなかった。
そして、最も重たく、逃げ場のない執着を持っていたのはアルフレッドだった。
彼は夜が更けると決まってルシルの部屋を訪れ、他の二人を追い出してルシルを独占した。
今夜もまた、アルフレッドはベッドの傍らに腰を下ろし、ルシルの銀色の髪を静かに撫でている。
「君の髪は、まるで月の光を溶かしたように美しいね」
アルフレッドの声は甘く、そして恐ろしいほどに落ち着いていた。
ノアやガレッドが焦燥に駆られているのに対し、アルフレッドだけは不気味なほどの静けさを保っている。
しかし、その青い瞳の奥で燃える暗い炎は、誰よりも深く、誰よりも狂気に満ちていた。
アルフレッドの指先が、ルシルの頬をなぞり、首筋へと降りていく。
彼はルシルの冷たい唇に自身の唇を押し当てた。
熱い吐息が流れ込み、ルシルは微かに身をよじる。
それは愛を確かめる口づけというよりも、生命力を無理やりにでも分け与えようとする執念の儀式だった。
アルフレッドはルシルを逃がさないように抱きしめる。
彼の背中からは、隠しきれない焦燥と、それすらもねじ伏せようとする強烈な傲慢さが滲み出ていた。
「殿下……」
「何も言わなくていい。君はただ、私の腕の中で静かに息をしていればいいんだ」
アルフレッドはルシルの冷え切った体を抱き寄せ、自分の熱を分け与えるように力強く抱きしめた。
彼の心音が、ルシルの耳元で鳴り響いている。
「君を死なせはしない。この世界の理が君を連れ去ろうとするなら、私がその理を壊してやる」
それは単なる慰めではなく、王太子としての、いや、一人の狂った男としての確固たる宣言だった。
ルシルは彼の腕の中で、ついに抗う気力すらも失っていくのを感じた。
自分の意志では、もう何も選べない。
死ぬことすらも、彼らが許してくれないのだ。
全身の力が抜け、ルシルの意識は深い泥沼の底へと沈んでいく。
周囲の音が遠ざかり、アルフレッドの腕の熱だけが微かに残る。
これが最期なのだろうかと、ルシルは思考を手放した。
苦痛も、恐怖も、もう何もない。
ただ、静かな闇がルシルを優しく包み込んでいた。




