第6話「無価値な願いと深まる闇」
夜の帳が下りた王宮は、昼間とは違う静寂に包まれていた。
ルシルの部屋は魔石の淡い光に照らされ、揺れる影が壁に不気味な模様を描き出している。
厚いカーテンは固く閉ざされ、月明かりすら入り込むことはない。
静まり返った部屋の中で、ページをめくる乾いた音だけが定期的に響いていた。
ベッドの脇に置かれた椅子に座り、分厚い魔道書を読んでいるのはノアだった。
その古びた羊皮紙の束は、王宮の地下深くにある禁書庫から持ち出されたものだった。
そこには、古の時代の禁忌とされる儀式や、人体の魔力回路を強制的に操作する術式が記されている。
ノアは数日前からまともに睡眠をとっておらず、目の下には濃い隈ができていた。
それでも彼の知識欲と執着は衰えることなく、ページをめくる手はひどく正確で冷酷だった。
彼はルシルの命を救うためなら、自らが異端として処刑されるリスクすらも厭わないつもりだった。
彼の灰色の瞳には魔石の光が反射し、冷たい炎のように揺らめいている。
ルシルが微かに身じろぎをすると、ノアは顔を上げた。
「目が覚めたのか」
ノアは本を閉じ、音もなくベッドに近づいてくる。
彼の視線はルシルの顔ではなく、胸元のあたりを鋭く観察していた。
魔力の流れを視覚的に捉える彼にとって、ルシルの体は崩壊していく複雑な数式のように見えているのだろう。
「……ノア殿。いつまで、そうしているつもりですか」
「君の魔力回路が安定するまでだ。いや、安定することはない。このまま崩壊を待つだけだ」
ノアの声には、隠しきれない焦燥と苛立ちが含まれている。
彼は自らの天才的な頭脳をもってしても、この進行する病魔を止めることができない事実に苦しんでいた。
ルシルは重たいまぶたを開け、ノアの顔を真っ直ぐに見つめた。
「だから、もう諦めてください。誰も悪くありません。ただ、私の寿命が来たというだけのことです」
ルシルの淡々とした言葉に、ノアの表情が微かに歪んだ。
その時、部屋の奥の暗がりから、静かな足音が近づいてきた。
「諦めろと言うのは簡単だ。だが、残される者の執着を君は理解していない」
闇の中から現れたのは、アルフレッドだった。
さらにその背後には、扉の前で立哨していたはずのガレッドの姿もある。
彼らは闇の中に潜むようにして、ルシルの状態を監視していたのだ。
三人の男たちが、淡い光の中でルシルのベッドを囲むように立つ。
誰もが言葉を発さず、ただ重たい視線だけがルシルへと注がれていた。
その異常な状況に、ルシルは小さなため息をこぼす。
これ以上、彼らに無意味な期待を抱かせるわけにはいかない。
ルシルは残されたわずかな力を振り絞り、はっきりとした声で言葉を紡いだ。
「皆さんに、お伝えしておきたいことがあります」
三人の視線が、さらに鋭さを増す。
「私は、この世界に何の未練もありません。富も、名誉も、愛も、私には必要のないものです」
静かな部屋に、ルシルの声だけが響き渡った。
「だから、どうか私を自由にして、静かに眠らせてください。あなたたちの輝かしい未来に、私のような死にゆく存在を縛り付ける必要はないのです」
ルシルは自らの真心を伝えたつもりだった。
自分が何も望んでいないことを理解すれば、彼らも無駄な執着を捨ててくれるだろうと。
誰もが幸せになれるはずの結末だ。
しかし、返ってきたのは氷のように冷たい沈黙だった。
室内の温度が急激に下がったかのような錯覚を覚える。
三人の男たちは微動だにせず、ただルシルの顔を瞬きもせずに見つめていた。
その視線の異様さに、ルシルの背筋に冷たい汗が伝う。
彼らの瞳の中にあるのは、納得でも諦めでもなく、己の所有物を傷つけられたような深い憤りだった。
アルフレッドが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
青い瞳が、底知れぬ暗い光を宿してルシルを見下ろした。
「未練がない、か」
アルフレッドの声はひどく甘く、そして恐ろしいほどに重たかった。
彼はルシルのあごに指を添え、逃げ場を塞ぐように顔を近づける。
サファイアの瞳の奥で、黒い炎が静かに燃え上がっているのが見えた。
「君の口から出るその冷たい言葉が、どれほど私の心を苛むか、君にはわかるまい。何一つ望まないと言うのなら、私が無理やりにでも君の口を割らせてみせよう」
アルフレッドの指が首筋へと滑り落ち、脈打つ血管を確かめるように撫でる。
その指先には、いつでもルシルの命を奪えるほどの力が秘められているのに、彼はただひどく優しく肌を撫でるだけだった。
それがかえって、ルシルの恐怖を煽る。
「君がこの世界に未練を持たないというのなら、私たちが君の未練になろう」
ガレッドが一歩前に出る。
彼の赤い瞳には、燃え盛るような決意が宿っていた。
「君が何も望まないなら、俺が君のすべてを守る理由になる。騎士の誓いに懸けて、君を死の淵から引きずり戻す」
ノアが目を細め、冷たく言い放つ。
「君の命が消えようとするなら、僕が魔術の理を書き換えてでも魂をこの器に縫い止める。君の意志など関係ない」
三人の言葉が、見えない鎖となってルシルの手足を縛り付ける。
彼らはルシルの諦観を理解したわけではない。
むしろ、何にも執着しないルシルのその虚無感が、彼らの奥底にある支配欲と保護欲に火を点けてしまったのだ。
誰の手にも届かない場所へ行こうとするルシルを、何が何でも現世に繋ぎ止めようとする執念。
それはもはや、純粋な愛情を超えた狂気の領域に達していた。
アルフレッドの指先が、ルシルの唇を塞ぐようになぞる。
「君は、どこへも行けない。死神が君を迎えに来たとしても、私がその首を刎ねて君を取り戻す」
囁かれる言葉の熱に、ルシルは背筋を震わせた。
彼らの思いが重すぎる。
自分がよかれと思って告げた言葉が、逆に彼らの執着を最も深い闇へと突き落としてしまったことに、ルシルは今更ながら気づいていた。
逃げ道はすでに塞がれている。
ルシルは静かに目を閉じ、絡みつくような甘い絶望の中に意識を手放した。




