第4話「執着の連鎖と閉ざされた扉」
王宮の奥深くに設えられた私室での生活は、昼と夜の境目すら曖昧なものだった。
ルシルの体調は日を追うごとに悪化し、一日の大半を深い眠りの中で過ごすようになっている。
目を覚ますたびに、枕元には必ず誰かの気配があった。
アルフレッドが政務の合間を縫って訪れ、冷え切ったルシルの手を握り続けていることもあれば、無言のまま監視を続ける近衛兵の視線を感じることもあった。
すべてが過剰に保護され、外界からの刺激は遮断されている。
鳥のさえずりも、風の音も、ここには届かない。
届くのは、ルシルをこの世に縛り付けようとする重苦しい執着だけだった。
浅い眠りの中で、ルシルはよく前世の夢を見た。
ただ歩き、ただ食べ、ただ眠るだけの平穏な日々。
それは退屈であったが、今思えば何よりも尊い自由だった。
夢から覚めると、必ず手足に重たい鉛が繋がれているような感覚に襲われる。
ある日の午後、静寂を破るように重厚な扉が乱暴に開かれた。
近衛兵たちが制止する声を無視して踏み込んできたのは、黒いローブに身を包んだ若き天才魔術師、ノア・エルメスだった。
彼のくせのある灰色の髪はひどく乱れ、眼鏡の奥の瞳には血走ったような執念が宿っている。
「どけ。僕の魔力検査を妨害する気か。王宮筆頭魔術師の権限において、彼に直接の処置を施す必要がある」
ノアは冷徹な声で近衛兵を退け、大股でルシルのベッドへと歩み寄ってきた。
手には、禍々しい光を放つ赤い魔石が握られている。
「……ノア殿。王宮の奥にまで入り込んでくるとは、随分と無茶をなさるのですね」
ルシルはかすれる声で言い、ゆっくりと体を起こそうとした。
しかし、ノアの手が乱暴にルシルの肩を押し留めた。
「寝ていろ。君の魔力回路は、この数日でさらに崩壊が進んでいる。あの無能な医師たちには、この惨状が見えていないのか」
ノアの指先が、ルシルの胸元に直接触れる。
布越しであっても、彼の指から発せられる熱を帯びた魔力が、ルシルの冷たい体内に流れ込んでくるのがわかった。
それは病魔に侵された回路を無理やりこじ開け、生命力を注ぎ込もうとする強引な行為だ。
焼け火箸を突き立てられたような痛みに、ルシルは小さく身をよじった。
「やめてください。無理に魔力を流し込まれても、私の体はそれを保持できない。無駄なことです」
「無駄かどうかは僕が決める。君のその凍りついた湖のような魔力を、僕の火で溶かしてやる」
普段は冷静沈着なノアが、感情を剥き出しにして叫んだ。
彼の指先が震え、ルシルの胸元の衣服を強くつかむ。
魔術師にとって、自らの魔力を他者に直接注ぎ込むことは自らの命を削る行為に等しい。
それにもかかわらず、ノアは底なしの沼に水を注ぐように、惜しげもなく自らの力をルシルに与えようとしていた。
「なぜ、そこまで私に執着するのです。私のような悪役令息が消えたところで、誰も困りません」
ルシルの淡々とした言葉が、ノアの逆鱗に触れたようだった。
ノアは歯を食いしばり、顔を近づけてルシルの虚ろな瞳を睨みつける。
「誰も困らない? ふざけるな。君が消えれば、僕が困る。君という世にも稀な魔力の持ち主を、観察し、解剖し、そして生かし続けることこそが、今の僕のすべてなんだからな」
それは狂気を孕んだ研究者の言葉のようでありながら、その実、ひどく歪んだ愛情の告白だった。
ノア自身もその矛盾に気づいているのか、彼の灰色の瞳には焦燥と悲痛な色が入り混じっていた。
その時、再び扉が開き、硬い金属音が室内に響き渡った。
「ノア殿。それ以上ルシル殿に近づくのはやめていただこう」
鋭い声とともに現れたのは、銀色の甲冑を身にまとったガレッド・バルバトスだった。
彼の赤い髪は怒りに燃え上がり、手は腰の剣の柄に添えられている。
近衛兵として王宮の警護にあたる彼が、アルフレッドの許可なくこの部屋に入ることは本来ならば許されないはずだ。
しかし、ガレッドは規則を破ってでもルシルの無事を確認しにきたのだ。
「騎士の分際で魔術師の治療の邪魔をする気か、野蛮人め」
「治療だと? ルシル殿が痛みに顔を歪めているのが見えないのか。お前の強引な魔力譲渡は、彼の体を傷つけているだけだ」
二人の間に火花が散り、室内の空気が一気に張り詰めた。
ルシルはため息をこぼし、重たい頭を枕に沈める。
なぜ彼らは、こうも必死になるのだろうか。
自分はただ、静かに目を閉じて眠りたいだけなのに。
「……お二人とも、争うのはやめてください。私のために、これ以上何もする必要はありません」
ルシルの声はひどく弱々しく、しかし不思議なほどはっきりと二人の耳に届いた。
争っていたノアとガレッドの動きが同時に止まる。
彼らの視線が、ベッドに横たわる青白い少年へと注がれた。
「ルシル殿……」
ガレッドが剣から手を離し、静かにベッドの傍らにひざまずいた。
彼の大きな手が、ノアに触れられていたルシルの手を取り、包み込むように握りしめる。
ガレッドの指には硬い剣だこがあり、無骨でありながらも深い温もりを宿していた。
「俺は、君を守ると決めた。騎士の誓いに懸けて、どんな病魔からも君を救い出してみせる。だから、そんな諦めたような顔をしないでくれ」
実直な言葉の裏に、懇願するような痛みが滲んでいた。
ルシルは静かに目を閉じ、自分の手が彼らの熱に少しずつ侵食されていくのを感じていた。
「私室の前で騒ぎを起こすとは、随分と血の気が多いようだな」
氷のような声が降り注ぎ、室内の空気が一瞬で凍りついた。
入り口に立っていたのは、冷ややかな笑みを浮かべたアルフレッドだった。
彼の背後には、制圧された近衛兵たちが立ちすくんでいる。
アルフレッドは音もなく歩み寄り、ガレッドの手からルシルの手を奪い取った。
「ノア。魔力の処置が必要なら、まずは私に許可を求めるのが筋だろう。それとも、王太子の命令よりも己の研究欲が優先されるのかな」
「……申し訳ありません、殿下。しかし、彼の状態が一刻を争うのは事実です」
「ガレッドもだ。無断で私の私室に踏み込むとは、騎士団長の息子とはいえ許されることではないぞ」
アルフレッドの声は静かだが、逆らうことを許さない威圧感が込められていた。
三人の男たちの視線が、ベッドの上のルシルで交錯する。
ルシルは三人の重圧に耐えかねて、小さく咳き込んだ。
その咳に反応して、三人が一斉にルシルに手を伸ばそうとし、そして互いを牽制し合う。
アルフレッドの重たい権力、ノアの狂気的な魔力、そしてガレッドの盲目的な献身。
それぞれの形は違えど、彼らの執着は確実にルシルの周囲を幾重にも取り囲み、強固な檻を作り上げていく。
誰もがルシルを独占したがっている。
逃げ場はどこにもない。
ただ死を待つだけの虚無の世界は、彼らの熱狂的な愛によって、息苦しいほどの甘さに塗り替えられようとしていた。




