第3話「豪奢な鳥籠と冷たい微熱」
深い眠りの底から、ゆっくりと意識を取り戻した。
視界を覆っていた暗闇が晴れ、豪奢なシャンデリアの輝きが目に飛び込んでくる。
ルシルは重たい体を動かそうとしたが、指先一つすら自分の意志に従わなかった。
絹のシーツが肌に吸い付くように滑らかで、それがかえって不快だった。
ここは見慣れた公爵家の自室ではない。
天井には精緻なフレスコ画が描かれ、調度品の一つ一つが計算し尽くされた美術品のように配置されている。
部屋の隅に置かれた香炉からは、甘く重たい白檀の香りが漂っていた。
その香りが肺を満たすたびに、頭の奥が痺れるような錯覚を覚える。
静かに息を吸い込むと、冷たい空気が気管を撫でた。
胸の奥に巣食う魔力欠乏症の痛みが、静かな脈動となって全身に伝わってくる。
病魔は着実にルシルの命を削っている。
それなのに、外側の環境だけが過剰なまでに整えられていくことに、奇妙な滑稽さを感じた。
体を起こそうとして、微かな衣擦れの音が響く。
部屋の窓は大きく、柔らかな陽光が差し込んでいるはずなのに、分厚いベルベットのカーテンがそれを遮っていた。
外の景色をわずかに見ることしか許されない、美しい檻。
床には足音を吸い込むほど毛足の長い絨毯が敷き詰められ、外界の音をすべて遮断している。
時間が止まったかのような静寂の中、ルシルの浅い呼吸の音だけが聞こえていた。
視線を巡らせると、部屋の出入り口には見知らぬ近衛兵が二人、彫像のように立っている。
監視されているのだと、ルシルは静かに息を吐く。
指先を動かすことさえ億劫なほどの疲労感が、全身を鉛のように重くしている。
胸の奥から這い上がってくる冷感は、どんなに分厚い毛布をかけられても消えることはなかった。
重厚な扉が開く音がして、金色の髪を持つ青年が足音を忍ばせて歩み寄ってくる。
王太子アルフレッドだった。
彼は仕立ての良い上着を脱ぎ捨てると、ベッドの傍らに用意された椅子に腰を下ろす。
青い瞳が、獲物を愛でるような熱を帯びてルシルの顔を這い回った。
「目が覚めたようだね。気分はどうかな」
「……ここは、どこでしょうか」
「私の私室の隣だよ。君の体調が優れないと聞いて、急遽用意させたんだ。君の家には既に使いを出してあるから、心配しなくていい」
一切の隙がない、甘く優しい声。
しかしその瞳の奥には、ルシルを決して逃がさないという暗い執念が渦巻いている。
アルフレッドは手袋を外し、その大きな手でルシルの頬を包み込んだ。
高い体温が、ルシルの冷え切った肌に容赦なく流れ込んでくる。
それは心地よい温もりというよりは、火傷しそうなほどの強い熱だった。
「ひどく冷たい。まるで氷に触れているようだ。すぐに温かいスープを運ばせよう」
アルフレッドが短く指示を出すと、侍従が音もなく銀の盆を運んできた。
盆の上には、濃厚な香りを漂わせる温かなスープが湯気を立てている。
ルシルは身を起こそうとしたが、背中に回されたアルフレッドの腕がそれを制した。
彼はルシルの体を自らの胸に引き寄せ、背もたれのようにして支える。
逃げ場のない密着に、ルシルは小さく眉間にしわを寄せた。
「殿下、自分でいただけます」
「君は指先一つ動かすのも辛そうじゃないか。私が食べさせてあげるよ」
アルフレッドは銀の匙にスープを掬い、ルシルの口元へ運ぶ。
拒絶を許さない、静かで重圧のある所作だった。
ルシルは諦めて口を開き、温かい液体を飲み込む。
喉の奥を通る熱が、冷え切った胃の腑に落ちていくのを感じた。
しかし、どんなに栄養のある食事をとったところで、枯渇していく魔力が補われるわけではない。
それはただ、命の終わりをわずかに先延ばしにするだけの無意味な行為に思えた。
数口のスープを飲み込んだ後、ルシルは静かに首を横に振った。
「もう結構です。ありがとうございます」
「そうか。あまり無理をさせてもよくないね」
アルフレッドは侍従に盆を下げさせると、再びルシルの髪を梳くように撫で始めた。
その手つきは、壊れやすい硝子細工を扱うようにひどく丁寧だ。
ルシルは視線を伏せ、膝の上に置かれた自分の青白い手を見つめた。
「何かほしいものはあるかな。珍しい異国の本でも、美しい宝石でも。君が望むなら、世界中の富をこの部屋に集めてみせよう」
アルフレッドはルシルの耳元に顔を寄せ、熱い吐息とともに囁いた。
その言葉に嘘はないのだろう。
王太子である彼が本気になれば、国中の財宝をここに山積みにすることなど容易い。
かつてのルシルであれば、その言葉に目を輝かせ、次々と高価な品を要求していたはずだ。
しかし、今のルシルの心はひどく静まり返っていた。
宝石の輝きも、美しい書物の知識も、命が尽きようとしている体には何の価値も持たない。
「何も、ほしいものはありません。ただ、眠りたいだけです」
淡々と返された言葉に、アルフレッドの長い睫毛が微かに揺れた。
欲望を見せない人間は、支配者にとって最も扱いが難しい。
何を与えれば喜ぶのか、何を取り上げれば屈するのかがわからないからだ。
アルフレッドはこれまで、他者の欲望を巧みに操ることで抗えない支配を築き上げてきた。
しかし、ルシルにはその手が通じない。
死を受け入れた虚無感だけが、ルシルの心を硬い殻のように覆ってしまっている。
それが、アルフレッドの胸の奥に得体の知れない苛立ちと、それ以上の深い執着を呼び起こしていた。
「欲のない君は、ひどく綺麗で、ひどく残酷だ」
アルフレッドの指が、ルシルの銀色の髪に絡みつく。
痛みを感じるほどに強く引っ張られ、ルシルは小さく顔をしかめた。
「君が何も望まないというなら、私が君のすべてを望もう。君の視界も、君の吐息も、君の命も、一つ残らず私のものだ」
暗い情熱を孕んだ瞳が見下ろしてくる。
ルシルは抵抗する気力もなく、ただ静かに目を伏せた。
重たい沈黙の後、ルシルは絞り出すような声で口を開いた。
「殿下。私は、領地にある辺境の療養所へ向かいたいのです」
「療養所? そんな辺鄙な場所へ行く必要がどこにあるんだい。ここには国で一番の医師たちが揃っている。君の病状も、必ず彼らが治してみせる」
「……私の体は、もう長くはありません。最期のときくらいは、静かな森の中で一人で過ごしたいのです」
淡々と告げた言葉が、室内の空気を急速に凍らせた。
アルフレッドの指先が、ルシルのあごを強く上向かせる。
骨がきしむほどの強い力が加えられた。
サファイアの瞳が、ルシルの逃げ場を塞ぐように見下ろしている。
「最期なんて言葉を軽々しく口にしないでほしいな。君は生きるんだ。私のそばでね」
「殿下……」
「辺境への移動は許可しない。君はここで、私の庇護の下で静かに過ごせばいい。何一つ不自由はさせないよ」
アルフレッドの声は甘く囁くようでありながら、逆らうことのできない冷酷な響きを帯びていた。
これは保護という名目の監禁だ。
ルシルは静かに息を吐き、抗議の言葉を飲み込む。
病に蝕まれた体では、王太子の意志に逆らって王宮を抜け出すことなど到底不可能だった。
午後になると、アルフレッドの言葉通り、数人の老齢の医師たちが部屋を訪れた。
彼らは王宮の医療を束ねる最高峰の知識人たちだったが、ルシルの診察を始めると一様に顔を青ざめさせた。
聴診器を当て、魔力の脈動を測る魔石をかざす彼らの手が、かすかに震えている。
「殿下。ルシル様の症状は、私どもの手に負えるものではございません。体内の魔力回路が自滅を始めており、生命力を喰い尽くしております」
筆頭医師が、地にひざまずいて震える声で報告した。
アルフレッドは椅子の背もたれに深く腰掛けたまま、氷のように冷たい視線で医師たちを見下ろした。
「治せないと言うのか」
「は、はい。魔力欠乏症の中でも、これほど進行の早い例は過去の文献にも」
「無能が」
短く吐き捨てられた言葉に、室内を支配する重圧がさらに増した。
医師たちは床に額をこすりつけ、恐怖に震えることしかできない。
ルシルはベッドの上からその光景を眺めながら、ただ虚無感だけを抱いていた。
彼らが無能なのではない。この病がそういう運命として設定されているだけなのだ。
自分は静かに死を受け入れているというのに、周囲の人間だけが異常な熱を帯びて狂っていく。
ルシルは重たいまぶたを閉じ、再び深い眠りへと意識を沈めた。
外側から鍵をかけられた鳥籠の中で、冷たい微熱だけが彼を支配していた。




