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余命一年の無気力悪役令息なのに、ヤンデレ皇太子と天才たちが命の共有契約を迫ってくる  作者: 月夜 闇花


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第2話「見えざる糸の絡まり」

 王宮からの帰り道、馬車の中でルシルは深く息を吐き出した。

 アルフレッドの最後の言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。

 婚約の破棄は認めない。

 その響きは優しかったが、逆らうことのできない王太子の命令だった。

 なぜ彼が容易く引き下がらなかったのか、ルシルには理解できない。

 元のシナリオであれば、アルフレッドはルシルの傲慢さに嫌気がさしており、婚約解消の申し出など喜んで受け入れるはずだった。

 どこで間違えたのだろうかと思考を巡らせるが、ひどい疲労感がそれを遮る。

 馬車が公爵家の門をくぐると、窓から見慣れた庭園の景色が広がった。

 ルシルは目を閉じ、背もたれに体を預けた。

 婚約が白紙にならなかったとはいえ、自分が長く生きられないことに変わりはない。

 王宮に出入りする機会を極力減らし、目立たずに過ごせば、いずれアルフレッドの気まぐれも終わるだろう。

 そう結論づけ、ルシルは自身の病魔と共に静かに眠りにつくことを選んだ。


 翌日、ルシルは王立学園の旧図書館へと足を運んだ。

 貴族の子弟が通うこの学園において、旧図書館は最も人の寄り付かない場所だった。

 カビと古い羊皮紙の匂いが立ち込める薄暗い空間は、今のルシルにとって何よりも心地よい隠れ家だ。

 重厚なオーク材の扉を押し開けると、冷やりとした空気が頬を撫でた。

 高い天井まで届く本棚が迷路のように入り組んでおり、窓から差し込む僅かな光が、宙を舞う埃を金の粉のように照らし出している。

 ルシルは一番奥の窓辺にある古びた机に腰を下ろし、適当な本を開いた。

 ページをめくる音だけが、静寂の空間に吸い込まれていく。

 古い紙の乾いた手触りが、ルシルの冷たい指先に微かな摩擦を伝えた。

 本の内容は、数百年前の建国神話に関するものだった。

 英雄たちが魔物を討ち払い、光の王国を築き上げるというありふれた英雄譚。

 かつてのルシルであれば、このような埃っぽい本を読むなど考えられなかっただろう。

 華やかなパーティーで誰が一番美しいドレスを着ていたか、誰が王太子の隣に立つに相応しいか。

 そんな無価値な優劣にしか興味がなかったのだから。

 文字を目で追うだけで、内容は頭に入ってこない。

 今はただ、誰の目にも触れない静かな時間が流れることだけが救いだった。

 目を閉じると、微かに土とカビの匂いが混ざった空気が肺を満たす。

 それは死の匂いにも似ていたが、不思議とルシルを安心させた。

 自分がもうすぐ土に還るのだという事実を、優しく肯定してくれているような気がしたのだ。

 どれほどの時間が過ぎたのだろうか。

 ふと、床を擦るような微かな足音が近づいてくるのに気づいた。


「こんな所にいたのか」


 背後から声が掛かり、ルシルはゆっくりと振り返った。

 そこに立っていたのは、くせのある灰色の髪に黒縁の眼鏡をかけた青年だった。

 王宮筆頭魔術師の弟子であり、若き天才と名高いノア・エルメス。

 彼もまた、攻略対象の一人だ。

 手には何冊もの分厚い魔道書が抱えられている。


「……ノア殿。何かご用でしょうか」


 ルシルは表情を変えず、淡々と問い返した。

 ノアは眼鏡の奥の灰色の瞳を細め、ルシルの顔を瞬きもせずに見つめる。

 その視線は、人を見るというよりは、珍しい実験動物を観察するような無機質さを孕んでいた。


「君、ひどい顔色をしているね。それに、周囲の魔力の流れがおかしい」


 ノアは抱えていた本を机に乱暴に置き、大股でルシルに近づいてきた。

 ためらうことなくルシルの腕を掴み、袖口をまくり上げる。

 冷たい指先が、ルシルの細い手首に触れた。


「な、何を」

「動かないで。魔力の脈動を診ている」


 ノアの顔が真剣なものへと変わった。

 彼は魔力の流れを視覚的に捉えることができる特異な能力を持っている。

 その瞳に、ルシルの体内で枯渇していく魔力の惨状がどのように映っているのかはわからない。

 しかし、ノアの指先がかすかに震えているのを感じて、ルシルは静かに息を吐いた。


「……君の魔力回路、ひどく損傷している。いや、これは損傷というより、魔力そのものが君の命を食いつぶしているのか?」


 ノアの言葉は核心を突いていた。

 ルシルは動揺を悟られないよう、ゆっくりとまぶたを伏せた。


「大げさです。ただの寝不足ですよ」


 ルシルは腕を振り払い、静かに立ち上がった。

 病のことが知られれば、無用な同情や騒ぎを招くだけだ。

 立ち去ろうとするルシルの肩を、ノアの手が強く引き止めた。

 その指先からは、微弱な魔力が流れ込んでくる。

 それはルシルの冷え切った体内を探り、病巣の深さを測るような繊細で執拗な魔力の波だった。

 ノアの顔が驚愕に歪む。


「君の体の中は、まるで冬の湖だ。生命力が芯まで凍りついている。なぜこれで立っていられるのか不思議なほどだ」

「離してください。私は、このままでいいのです」

「このままでいいわけがないだろう。僕の研究室に来い。もっと詳しく調べる必要がある」


 普段は冷静で感情を見せないノアが、声を荒げた。

 その瞳には、純粋な探究心を超えた、焦燥と執着の色が渦巻いている。

 壊れかけた美しい人形を前にして、天才魔術師の直感と保護欲が強く刺激されたのだ。

 ルシルは力なく微笑み、ノアの手首をすり抜けるようにしてその拘束を外した。


「お気遣いには感謝します。ですが、私の体は私が一番よくわかっていますから」


 ノアの制止の声を背中に受けながら、ルシルは旧図書館を後にした。

 少し歩くペースを上げただけで、心臓が早鐘のように打ち、息が切れる。

 中庭に続く回廊は、冷たい石造りで足元から這い上がるような底冷えがした。

 ルシルはマントの襟元を強く引き寄せ、震える体を隠すようにして歩く。

 視界の端が白く明滅する。

 ノアに触れられた腕には、まだ彼から流し込まれた魔力の余韻が残っていた。

 それはルシルの凍りついた魔力回路を無理やりこじ開けようとするような、強引で熱を帯びた感覚だった。

 他者の魔力を受け入れることは、本来ならば拒絶反応を伴う痛みを伴うはずだ。

 しかし、ルシルの体は乾ききった砂漠に水が染み込むように、その僅かな魔力を吸収してしまっていた。

 その事実が、ルシルに得体の知れない不安を抱かせる。

 彼らと関われば関わるほど、自分が彼らの魔力に依存してしまうのではないか。

 そんな思いを振り払うように外へ出ると、遠くから鋭い剣の交わる音が聞こえてきた。

 訓練場で剣を振るっているのは、赤銅色の髪を持つ屈強な青年だった。

 王室近衛騎士団長の息子、ガレッド・バルバトス。

 彼もまた攻略対象の一人であり、実直で正義感の強い騎士だ。

 剣の素振りを終え、汗を拭っていたガレッドは、回廊を歩くルシルの姿に目を奪われた。

 以前の派手な装いとは違い、地味な服装に身を包んだその後ろ姿は、風が吹けば折れてしまいそうなほど細い。

 ガレッドは弾かれたように足を踏み出し、彼を追いかけていた。

 ルシルは彼に見つからないように回廊の影を進もうとしたが、足元の泥濘に靴を取られ、小さく体勢を崩した。

 石畳に膝をつく寸前、力強い腕がルシルの腰を支え上げた。

 ガレッドは自らの腕の中にある軽さに息を呑んだ。

 服越しに伝わってくる体温があまりにも低い。


「大丈夫か、ルシル殿」


 汗ばんだ熱い体がすぐそばにあった。

 ガレッドが心配そうな顔でルシルを見下ろしている。

 彼の大きな手が、ルシルの細い腕をしっかりと掴んでいた。

 その手には硬い剣だこがあり、歴戦の騎士としての力強さを感じさせる。

 対照的にルシルの腕は、硝子細工のように脆く、冷たかった。


「……ありがとうございます。少し、足元がふらついただけです」


 ルシルは距離を取ろうとしたが、ガレッドは腕を離さなかった。

 それどころか、ルシルの顔色の悪さに気づき、眉間に深いしわを寄せた。


「ひどく冷えている。それに、その顔色は普通じゃない。すぐに医務室へ行こう」

「いえ、その必要はありません。少し休めば治りますので」

「だめだ。騎士として、目の前で倒れそうな者を放っては置けない。俺が背負っていく」


 ガレッドの言葉には、有無を言わせぬ強引さがあった。

 彼は本気でルシルを背負い上げようと腰を落とす。

 その実直すぎる優しさが、今のルシルには重苦しかった。

 彼らはなぜ、これほどまでに自分に関わろうとするのだろうか。

 ただ放っておいてほしいだけなのに。


「やめてください。私は本当に、一人になりたいのです」


 ルシルは強い口調で拒絶し、ガレッドの胸を弱々しく押し返した。

 その手はあまりにも力がなく、ガレッドにとっては小鳥が羽ばたいた程度にしか感じられなかっただろう。

 しかし、その冷え切った体温と、瞳の奥にある深い虚無感は、ガレッドの心に強烈な楔を打ち込んだ。

 守らなければならない。

 この今にも消え入りそうな命を、自分の手で繋ぎ止めなければならない。

 ガレッドの赤い瞳に、熱を帯びた決意が宿る。


「ルシル殿。俺は……君を、一人にはしない」


 力強く宣言するガレッドの言葉に、ルシルはため息をこぼした。

 彼もまた、何かを勘違いしているようだ。

 その時、回廊の奥から静かな足音が近づいてきた。


「私の婚約者に、何か用かな」


 甘く、しかし凍りつくような冷ややかさを伴った声。

 アルフレッドが数人の護衛を連れて歩み寄ってくる。

 その背後には、旧図書館からルシルを追いかけてきたらしいノアの姿もあった。

 三人の攻略対象が、奇しくもこの回廊でルシルを囲む形になった。

 アルフレッドの青い瞳は、ルシルの腕を掴んでいるガレッドの手を鋭く射抜いていた。

 その視線には、自らの所有物に触れられたことへの明確な不快感が混ざっている。

 ガレッドが張り詰めた空気に気づいて手を離すと、アルフレッドは自然な動作でルシルの腰を抱き寄せた。

 逃げ道を塞ぐような、強固な拘束。

 ルシルの細い体が、余すところなくアルフレッドの腕の中に収まる。

 アルフレッドの体温が、背中から熱を伴って伝わってくる。


「迎えに来たよ、ルシル。君の体調が優れないと聞いてね」


 王宮にいるはずの彼が、なぜ学園でのルシルの様子を知っているのか。

 誰かが報告したのか、それとも監視をつけているのか。

 その事実に冷たい悪寒を覚えたが、ルシルは何も言わなかった。


「殿下。ルシル殿の体調は深刻です。私の研究室で直ちに精密な魔力検査を」


 ノアが一歩前に出て進言するが、アルフレッドは冷ややかにそれを制した。


「必要ない。私の婚約者の体調は、王宮の筆頭医師に診させる。君が口出しすることではないよ、ノア」

「しかし、彼の魔力回路は」

「くどいよ」


 アルフレッドの声が一段低くなり、周囲の空気が凍りついた。

 ノアは奥歯を噛み締め、それ以上言葉を続けることができなかった。

 ガレッドもまた、王太子であるアルフレッドに対して口を挟むことができず、ただ悔しげに拳を握りしめている。

 アルフレッドは満足そうに微笑むと、ルシルの耳元に顔を寄せた。


「さあ、帰ろうか。君のための美しい部屋を用意してある」


 その吐息が耳にかかり、ルシルは背筋を震わせた。

 彼の言う美しい部屋が、逃げ場のない牢獄を意味していることに、ルシルはまだ気づいていなかった。

 ただ、ひどい疲労感に目を閉じ、彼に身を預けることしかできなかった。

 ノアの執着、ガレッドの過保護、そしてアルフレッドの重たい束縛。

 静かな死を望むルシルの思惑とは裏腹に、見えない糸が確実に彼の周囲を絡め取り始めていた。

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