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余命一年の無気力悪役令息なのに、ヤンデレ皇太子と天才たちが命の共有契約を迫ってくる  作者: 月夜 闇花


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第1話「冷たい心臓と白紙の婚約」

登場人物紹介


◇ルシル・ヴァン・クロイツ

クロイツ公爵家の三男。前世の記憶を取り戻し自分が乙女ゲームの悪役令息であることに気づく。作中の設定通りに命を削る不治の病を患っており余命が短いと思い込んでいる。どうせ死ぬなら静かに余生を過ごしたいと願う無気力で儚げな青年。その諦観に満ちた態度が無意識のうちに周囲の執着を煽ってしまう。


◇アルフレッド・フォン・ルミナス

ルミナス王国の第一王子。本来の乙女ゲームのメイン攻略対象。完璧な王子として振る舞うことに退屈していたが、死を受け入れて何も望まないルシルに出会い彼を自分だけのものにするための暗く重たい情念に目覚める。ルシルの周囲を徹底的に管理し美しい鳥籠に閉じ込めようとするヤンデレ。


◇ガレッド・バルバトス

王室近衛騎士団長の息子。攻略対象の一人。実直で剣の道に生きる青年だがルシルの脆さと彼が時折見せる虚無感に触れ、彼を守ることこそが自らの使命だと盲信し始める。


◇ノア・エルメス

王宮筆頭魔術師の弟子であり若き天才。攻略対象の一人。魔力の流れを見ることができるためルシルの命が削られていく様子に気づき、彼を生かすための研究に没頭する。

 深い水底から浮上するように、ゆっくりと視界が明るくなった。

 重たいまぶたを押し上げると、天蓋のレースが微風に揺れているのが見えた。

 肌を刺すような冷気が、体の芯にまで入り込んでいる。

 指先から心臓に向かって、氷の欠片が血管の中を流れていくような感覚がある。

 息を吸い込むたびに、肺の奥で何かがきしむような痛みが走った。

 体を起こそうとして、腕の筋肉がひどく強張っていることに気づく。

 上質な絹のシーツが滑り落ちる衣擦れの音が、やけに耳の奥に響いた。


『ああ、そういうことか』


 静かな思考が脳裏に浮かぶ。

 ここはどこだろうと疑問を抱くよりも先に、濁流のような記憶が頭の中に雪崩れ込んできた。

 日本の現代社会で生きていた、平凡な日々の記憶。

 そして、このクロイツ公爵家の三男として甘やかされ、傲慢に振る舞ってきた十七年間の記憶。

 二つの全く異なる人生が頭の中で混ざり合い、やがて一つの確固たる輪郭を結ぶ。

 ルシル・ヴァン・クロイツ。

 それが、今の自分の名前だった。

 思い出したのは、前世での退屈で平穏な日常の風景だった。

 コンクリートの建物、液晶画面の青い光、雑踏の音。

 それらの記憶はひどく遠く、まるで色褪せた映画を見ているかのようだった。

 対して、このルシルとしての十七年間は、ひどく鮮明で毒々しい。

 王太子の婚約者という立場を守るために、常に誰かを蹴落とし、見下し、虚勢を張って生きてきた。

 取り巻きを連れて歩き、少しでも自分より目立つ者がいれば容赦なく潰す。

 その根底にあったのは、いつか訪れる死への強烈な恐怖だったのだと、今のルシルには痛いほどにわかる。

 記憶が整理されるにつれて、ひどいめまいに襲われた。

 額を押さえながら、ベッドの脇にある銀枠の姿見へと視線を向ける。

 そこに映っていたのは、月光を紡いだような銀色の髪と、血の気が引いたように白い肌を持つ少年の姿だった。

 氷細工のように整った顔立ちは、確かに前世でプレイしたことのある乙女ゲームの悪役令息そのものだ。

 作中のルシルは、王太子アルフレッドの婚約者という地位を鼻にかけ、身分違いのヒロインを虐げた末に破滅する。

 しかし、彼が破滅に向かって突き進んだ裏には、一つの残酷な理由があった。

 魔力欠乏症。

 この世界の貴族は生まれながらにして魔力を宿しているが、稀にその魔力が自らの命を少しずつ削っていく特異体質の者がいる。

 ルシルはまさにそれだった。

 心臓の奥に巣食う冷たさは、間違いなくその病の進行を示している。

 余命は長く見積もってもあと一年というところだろう。

 元のルシルはその恐怖から逃れるように虚勢を張り、他者を攻撃することで自らの存在価値を確かめようとしていた。

 しかし、二つの記憶が融合した今、ルシルの心にあるのは波一つ立たない水面のような諦観だけだった。

 死ぬのは怖い。

 だが、怯えながら誰かを傷つけてまで生き延びたいとは思わない。

 どうせ避けられない運命ならば、誰の記憶にも残らずに静かに消え去りたかった。

 ベッドから滑り降りると、冷え切った大理石の床から冷気が足の裏へと伝わってくる。

 窓枠に手をつき、広大な庭園を見下ろす。

 朝陽に照らされた色鮮やかな花壇も、今のルシルの目にはただの虚無にしか映らなかった。

 破滅フラグを回避し、静かな死を迎えるためにすべきことは一つしかない。

 王太子アルフレッド・フォン・ルミナスとの婚約を白紙に戻すこと。

 それがすべての始まりであり、悲劇の根源だったからだ。

 小さく息を吐き出すと、ガラス窓が白く曇った。


 自室の重厚なマホガニーの扉をノックする音が響く。

 入室を許可すると、長年ルシルに仕えている初老の執事が静かに一礼して歩み寄ってくる。

 彼の手には、王宮の紋章が刻まれた銀色の盆があった。


「坊ちゃま。アルフレッド殿下より、本日午後のお茶会の案内が届いております」


 執事の声には、普段通りの恭しさが込められている。

 しかし、その視線の端には、主人の顔色の悪さを案じるような色が見え隠れしていた。

 ルシルは盆の上の手紙を一瞥し、ゆっくりとうなずいた。


「わかった。準備を手伝ってほしい」


 以前のルシルであれば、この招待状を受け取った瞬間に歓喜の声を上げ、使用人たちを総出でこき使って着飾っていただろう。

 一番高価な絹の服を選び、宝石を散りばめ、少しでも王太子の目を惹こうと必死になっていたはずだ。

 しかし、今のルシルにとって、着飾ることはただの重労働でしかなかった。

 広いクローゼットの中から最も装飾の少ない、落ち着いた薄灰色のスーツを選び出す。

 手伝おうとする使用人たちの手をゆるやかに制し、最低限の身支度だけを整えた。

 鏡の前に立つと、そこには病的なまでに色の薄い青年が立っている。

 首元に巻かれたクラヴァットの結び目だけを直し、ルシルは静かに部屋を後にした。


 王宮へ向かう馬車の中は、ひどく静かだった。

 車輪が石畳を転がる単調な音が、足元からかすかな振動となって伝わってくる。

 ルシルは窓枠に肘を突き、流れていく王都の街並みを虚ろな瞳で眺めていた。

 青空の下、活気にあふれた市場の喧噪が遠く聞こえる。

 人々は笑い合い、忙しなく歩き回り、それぞれの生を謳歌している。

 その光景は、ルシルの目にはまるで別世界の手の届かない幻のように映った。

 自分の命が終わりに向かっているというのに、世界は昨日と何も変わらずに回り続けている。

 その事実は、不思議とルシルの心を落ち着かせた。

 自分一人が消えたところで、この世界には何の影響もない。

 だからこそ、誰の記憶にも残らないように、静かに舞台から降りたかった。

 胸の奥で、再び冷たい痛みが脈打つ。

 ルシルは眉間にしわを寄せ、冷え切った指先で自分の胸元を強く押さえた。

 魔力欠乏症による発作は、まだそれほど頻繁には起きていない。

 しかし、体内の魔力が確実に枯渇していく感覚は、常にルシルを苛んでいた。

 深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 痛みが引くのを待つ間に、馬車は王宮の巨大な鉄門をくぐり抜けた。


 ◆ ◆ ◆


 王宮の南棟に位置する白亜のサンルームは、色とりどりの薔薇が咲き乱れる温室に隣接していた。

 ガラス張りの高い天井から降り注ぐ陽光が、純白のテーブルクロスに柔らかな影を落としている。

 ルシルは案内された席に静かに腰を下ろし、ただ自分の手元を見つめた。

 膝の上で組まれた指先は、夏の陽射しの中にあってもひどく冷たい。

 遠くで小鳥のさえずりが聞こえる。

 甘い花の香りが鼻腔をくすぐるが、今のルシルにはそれすらも少し煩わしかった。

 やがて、規則正しい足音が大理石の床を叩きながら近づいてくる。

 豪奢な装飾が施された扉が開かれ、一人の青年が姿を見せた。

 金糸を束ねたような輝かしい髪と、深く澄んだサファイアの青い瞳。

 王太子アルフレッドは、絵画から抜け出してきたかのように非の打ち所がない容姿をしていた。

 仕立てのいい紺色の軍服が、彼の長身と鍛え抜かれた体躯をさらに引き立てている。


「待たせたね、ルシル。少し会議が長引いてしまって」


 アルフレッドは隙のない笑みを浮かべて向かいの席に座った。

 その声には、誰をも魅了するような甘さと、わずかな疲労感が混ざっている。

 以前のルシルであれば、彼が自分との時間を優先してくれたことに有頂天になり、甲高い声で愛を囁いていただろう。

 だが、今のルシルはただ目を伏せ、立ち上る紅茶の湯気を眺めるだけだった。

 侍従が音もなく近づき、二人のカップに琥珀色の液体を注ぐ。

 カップがソーサーに置かれる小さな音が、静寂の中に響いた。

 侍従たちが一礼して下がり、広い空間には二人だけが取り残される。


「いえ。お忙しい中、お時間を取らせて申し訳ありません」


 ルシルの口からこぼれたのは、抑揚のない平坦な声だった。

 アルフレッドの眉が、ほんのわずかに動いた。

 精巧なからくり人形が予想外の動きをしたのを見たかのような、探るような視線がルシルの顔を撫でる。

 その視線の鋭さに、ルシルは内心で小さく息を吐いた。


「君から直接会いたいと手紙を寄越すなんて珍しい。いつもなら、無理にでも私の執務室に押しかけてくるのに」


 冗談めかした口調の裏に、冷ややかな観察者の気配が潜んでいる。

 アルフレッドは理想的な王太子を演じているが、その本質は周囲の醜い打算や欲望に辟易している冷徹な為政者だ。

 彼はルシルのことも、王族との繋がりを求める権力欲の塊としてしか見ていなかったはずだ。

 それは間違いではない。元のルシルは確かにそうだった。

 だからこそ、ここで縁を切るのがお互いのためになる。


「今日は、折り入って殿下にお伝えしたいことがありまして」


 ルシルはカップには手を伸ばさず、真っ直ぐにアルフレッドの青い瞳を見返した。

 胸の奥で、病魔が冷たい爪を立てているのを感じる。

 生きているだけで息苦しい。

 早くこの重荷を下ろし、一人だけの静かな暗闇に沈みたかった。

 視線を絡めたまま、アルフレッドは優雅な仕草でティーカップを持ち上げる。

 一口だけ口に含み、ゆっくりと飲み込む。


「お伝えしたいこと? また新しい宝石でも見つけたのかな」

「いいえ。殿下との婚約を、白紙に戻していただきたいのです」


 温室を吹き抜けた微風が、薔薇の甘い香りを運んできた。

 カップを口元に運ぼうとしていたアルフレッドの動きが、硬直したように止まった。

 彼の顔に張り付いていた隙のない笑みが、一瞬だけガラスにひびが入るように歪む。

 長い沈黙が落ちた。

 風に揺れる葉の擦れる音だけが、やけに大きく聞こえる。

 アルフレッドはゆっくりとカップをソーサーに戻した。

 その動作には、先程までの優雅さとは違う、どこか張り詰めたような重さがあった。


「……今、何と言った?」


 声の温度が、数度下がっている。

 甘さを纏っていたはずの響きは消え失せ、刃のような冷たさがそこにあった。

 それでも、ルシルの心は波立たなかった。

 命の灯火が消えかけている者にとって、王太子の威圧など取るに足らないものだったからだ。


「言葉の通りです。私と殿下の婚約を、なかったことにしていただきたいのです」

「理由を聞かせてもらえるかな。これまで君は、あらゆる手段を使って私との繋がりを誇示してきたはずだが」

「……疲れたのです。王太子の婚約者という立場にも、周囲の目にも」


 それは半分嘘であり、半分真実だった。

 病に蝕まれた体では、貴族社会の重圧に耐えることすら困難になっている。

 ルシルは静かに息を吐き、膝の上の指先をわずかに握り込んだ。


「私は、殿下に相応しくありません。もっと優れた、殿下を心から支えられる方をお選びください」


 淡々と告げるルシルの声には、一欠片の未練も熱もこもっていなかった。

 ただ事実を述べるような響き。

 アルフレッドのサファイアの瞳が、細められた。

 獲物を観察する捕食者のような、粘着質で鋭い視線がルシルの全身を這う。

 病的なまでに白い肌、生気を失った銀の髪、そして何も映していない虚ろな瞳。

 以前のルシルからは考えられないほどの脆さが、そこにはあった。


「君が私に相応しいかどうかは、私が決めることだ。それとも、他に意中の相手でもできたのかな」

「まさか。私のような者に、そのような相手がいるはずもありません。ただ、一人で静かに過ごしたいだけです」

「静かに過ごしたい、か」


 アルフレッドは背もたれに体を預け、長い指で自身の顎をなぞった。

 その仕草はひどく洗練されているのに、どこか危険な香りを漂わせている。

 彼はこれまでの人生で、数え切れないほどの人間から求められ、すがりつかれてきた。

 王太子という地位、類まれな容姿、優れた頭脳。

 誰もが彼を利用しようとし、愛という名の欲望を押し付けてきた。

 ルシルもその一人だったはずだ。

 しかし、今のルシルの瞳には、欲望も、執着も、計算すらも存在しない。

 ただ深い諦めと、死を受け入れたような底知れない虚無だけが広がっていた。

 それが、退屈を持て余していたアルフレッドの心に、奇妙な波紋を広げた。


「君の申し出は、聞かなかったことにしておこう」


 不意に、アルフレッドが立ち上がった。

 革靴が床を叩く音が響き、長い影がテーブルを越えてルシルの体を覆い尽くす。


「どういう、ことでしょうか」


 ルシルが顔を上げると、アルフレッドが身を乗り出すようにして顔を近づけてきていた。

 鼻先が触れ合いそうな距離。

 上質な香水の匂いが、ルシルの鼻腔を満たす。

 アルフレッドの大きな手が伸びてきて、ルシルの頬を包み込んだ。

 手袋越しの冷たい感触に、ルシルの肩がわずかに跳ねる。


「君の手は、ひどく冷たいね。まるで死人のようだ」

「……」

「婚約の破棄は認めない。君はこれからも、私の婚約者として王宮に出入りしてもらう」


 その声はひどく優しく、甘かった。

 しかし、目の奥で揺れる光は、決してルシルを逃がさないという暗い執念に満ちていた。

 理由を尋ねる気力すら沸かず、ルシルはただため息をこぼす。

 どうせ自分は長く生きられない。

 彼が何を考えているにせよ、死が二人を分かつまでの短い間のことだ。

 ルシルは抵抗することなく、ただ静かにそのサファイアの瞳を見つめ返した。

 その無抵抗な姿が、アルフレッドの胸の奥にどす黒い火を点けたことなど、知る由もなかった。

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