第11話「初めての微笑みと砕け散る理」
命の共有契約によって引き上げられたルシルの体力は、ゆっくりとではあるが着実に回復を見せていた。
ベッドから起き上がり、数歩であれば自力で歩けるようになっている。
もちろん、三人がそれを素直に喜ぶことはなかった。
ルシルが少しでも動こうとすれば、ガレッドが飛んできて抱き上げ、ノアが脈拍を測り、アルフレッドが冷ややかな目で休むように命じるのだ。
彼らにとって、ルシルはただ息をして自らの庇護下にいればそれでいい存在だった。
ルシルが自発的に何かを望むことすら、彼らは自分たちの管理が行き届いていない証拠だと捉えかねない。
しかし、閉ざされた部屋の中で窓の外を眺める時間が増えるにつれ、ルシルの胸にある小さな感情が芽生え始めていた。
外の空気を吸ってみたい。
死を待つだけだった頃には決して抱かなかった、生へのささやかな執着だった。
「……少しだけ、庭を歩いてみたいのです」
ある日の午後、ルシルがぽつりとこぼしたその言葉に、室内の空気がぴたりと止まった。
三人の視線が、驚きとともにルシルに集中する。
「外に出るだと? まだ君の体は外の空気に耐えられないかもしれない。魔力の定着率も、ほんのわずかだが乱れるリスクがある」
ノアが神経質に眼鏡を押し上げ、早口で反論した。
「俺がずっと抱き抱えているなら構わないが、君自身の足で歩くのは危険だ。もし転びでもしたらどうする」
ガレッドもひどく心配そうな顔で難色を示した。
しかし、アルフレッドだけは静かにルシルの瞳を真っ直ぐに見つめ返していた。
「……君がそれを望むなら、叶えてあげよう。ただし、私たち三人が片時も離れずに付き添うことが条件だ」
アルフレッドの言葉に、他の二人は渋々ながらも同意した。
分厚い扉が開かれ、数カ月ぶりにルシルは外界の空気に触れた。
王宮の奥に設えられた専用の庭園は、他の者が一切立ち入れないように厳重に封鎖されている。
石畳の上を歩くルシルの両脇にはアルフレッドとガレッドが立ち、少し後ろからノアが魔力の波長を監視していた。
肌を撫でる風は少し冷たいが、それがひどく心地よかった。
肺に吸い込む空気が、部屋の中の淀んだ甘い香りとは違い、土と緑の匂いを含んでいる。
見上げれば、どこまでも高く澄んだ青空が広がっていた。
鳥が羽ばたく音、葉擦れの音、遠くで噴水が跳ねる音。
死の淵にいたときには色褪せて見えていた世界が、今は鮮烈な色彩を持って目に飛び込んでくる。
自分が生きているという事実が、初めて実感として胸の奥に落ちてきた。
前世の記憶を思い出し、不治の病に侵されていると知ったときから、ルシルの時間は止まっていた。
どうせ死ぬのだからと、すべての物事に無関心になり、ただ呼吸を繰り返すだけの機械のように生きてきた。
しかし、今は違う。
胸の奥で力強く脈打つ鼓動が、ルシルに生きろと叫び続けている。
それは三人の魔力がもたらす物理的な力だけではない。
彼らの執着という名の熱が、ルシルの凍りついていた心を底から溶かしてしまったのだ。
世界はこれほどまでに美しく、命はこれほどまでに温かい。
ルシルの足取りがふらつくと、即座にガレッドの逞しい腕が腰を支えた。
「無理をするな。少し休もう」
庭園の中央にある白い東屋へ導かれ、ルシルは柔らかいクッションの上に座らされた。
ノアがすぐに温かい紅茶を用意し、アルフレッドがルシルの肩に自分の上着をふわりと掛ける。
三方向から向けられる熱と視線は相変わらず重たいが、不思議と息苦しさは感じなかった。
ルシルは紅茶の入ったカップを両手で包み込み、ゆっくりとその温もりを味わう。
ノアが淹れた紅茶からは、心を落ち着かせるハーブの香りが立ち上っていた。
ルシルが一口含むと、心地よい温かさが食道を通って胃へと落ちていく。
アルフレッドの上着からは、彼が普段から身につけている白檀の香りが微かに漂い、ルシルを優しく包み込んでいた。
胸に刻まれた契約の紋章から、彼らの魔力が穏やかに流れ込んでくるのがわかった。
彼らは自分の命を削り、未来を捨ててまで、ルシルをこの美しい世界に繋ぎ止めてくれたのだ。
その事実が、凍りついていたルシルの心をゆっくりと溶かしていく。
ルシルはカップを置き、静かに顔を上げた。
アルフレッドのサファイアの瞳、ガレッドの燃えるような赤い瞳、ノアの知的な灰色の瞳。
そのすべてが、ただルシル一人を見つめている。
「……風が、とても気持ちいいですね」
ルシルの口から、自然と言葉がこぼれた。
それは諦観でも虚無でもない、生を慈しむような響きを持っていた。
「あなたたちが繋ぎ止めてくれたから、私はまた、この空を見ることができました」
ルシルは彼らを見つめ、そして、ゆっくりと顔をほころばせた。
それは作り物の笑みでも、冷たい諦めの笑みでもない。
心からの、無防備で純粋な初めての微笑みだった。
「ありがとう。私を、生かしてくれて」
その微笑みは、彼らの理性を完全に打ち砕くには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
かつて氷のように冷たく、誰の愛も拒絶していた彼が、今、自分たちに向けた圧倒的な肯定。
三人の思考は極限まで白熱し、そして一つの真理へと収束していく。
この笑顔を守るためなら、自分たちの命はおろか、世界すらも焼き尽くして構わない。
彼らの無意識下に残っていたわずかな躊躇や常識すらも、この瞬間に跡形もなく消え去った。
アルフレッドは震える手でルシルの頬を包み込み、その柔らかい唇に自らの唇を強く押し当てた。
ガレッドはルシルの細い手を両手で握り締め、祈るように額をこすりつける。
ノアはルシルの首筋に顔をうずめ、その脈打つ命の音をむさぼるように聞き入った。
三人の狂気は、ルシルの微笑みによって、もはや誰にも解けない永遠の愛へと昇華されたのだった。




