だらしない探偵の看病をすることになりました。最悪です。
それは昼下がりのことだった。
僕は家で一人、家を出る準備をしていた。
今日はクライアントからの依頼で、浮気調査をする予定だった。確か14時からのはず。
『悪い、今日の調査はナシだ。今日は休み。喜べ』
簡素なメッセージが、僕のラインに届いた。
すぐに疑問が頭をよぎる。
『なんでですか。なにかあったんですか?』
ぽん、と画面にメッセージを送る。
おかしい。普段なら、橋田さんはやたら電話をしたがる。『その方が感情が伝わるだろ?』だそうだ。僕はあまり共感できない。僕はメッセージのほうが好きだ、楽で手軽だから。橋田さん曰く、その楽さが気に入らないらしい。
その、橋田さんからのメッセージ。
違和感が僕の胸をよぎる。
もしかして、橋田さんの身に何かあったんじゃないか?
いや、焦るな。あの橋田さんだ。なにか対処をしてるのかもしれない。ここは返事を待とう。
1時間。1時間半……返事がない。既読もつかない。
電話をかける。コール音だけが虚しく響いた。
……様子を見るだけ。死んでないか確認するだけ。
僕は上着を手に取った。うまく掴めなくて、上着が床に落ちる。
それをもう一度手に取って、僕は車の鍵に手をかけた。
ドアノブを回せば、簡単にドアは開いた。
相変わらず散らかった部屋。でも、今日はやたらペットボトルが多いように感じた。
だが、ぱっと見、橋田さんの姿が見当たらない。
「橋田さん?」
呼びかけながら居間に入る。橋田さんがどこにいるか、すぐにわかった。ベッドの上だ。伸びている。
「もう、なに寝て……」
その言葉は途中で途切れた。
ベッドの上で浅く呼吸する橋田さんは、眉根に皺が寄って、苦しそうに見えた。いつも綺麗なベッドの上も、ペットボトルが散乱している。
「橋田さん?」
思わず、駆け寄った。
ベッドの前で膝をつけば、橋田さんはゆっくりとこちらを振り返った。
「ワタル?お前、なんでここに……」
赤い頬。潤んだ瞳。熱を出しているのだ、と気付いた。
「なんで言ってくれなかったんですか……!もっと早く言ってくれれば、僕……」
言葉を飲み込む。
怒鳴りたいのに、橋田さんの呼吸がやけに浅くて、声が出なかった。
「言えば、お前、来るだろ。……風邪、移すし。完璧探偵のだらしない姿なんて、見せられない」
たぶん、僕に心配させまいとして、風邪も移したくなかったんだろう。本当に馬鹿な探偵だ。
「なに馬鹿なこと言ってるんですか……」
呆れながら、台所へと向かう。冷蔵庫を開けながら、橋田さんに声をかけた。
「おい、勝手に見るなって」
「……いつから熱が出たんですか」
卵をひとつ取り出す。冷凍室を開ければ、ラップに冷凍されたご飯を見つけた。こういうところ、無駄に律儀だ。取り出して、レンジに放り込む。
「……昨日の夜。だからなんだよ。てかなにしてんだ、ワタル」
「その、ワタルっていうあだ名、なんですか。僕にはちゃんとした名前があるんですけど」
「『渡 悟』を省略してワタル。呼びやすいだろ」
「呼びやすいもなにも、渡でいいじゃないですか」
「それだと、親しみがないだろ〜?もっと気楽にいきたいんだよ」
「……意味不明です」
ブーン、という音がレンジから響く。それを聞きながら、水を鍋に入れ、火をかけた。ガスコンロのカチカチという小気味良い音が耳に響く。
文句を言う口とは裏腹に、手だけは勝手に動いていた。
温まったご飯を鍋に入れ、卵を落とす。塩を少し。かき混ぜる。
気づけば、湯気の立つ粥が小さな器に収まっていた。
「お、意外と手際いいな」
「……っ、馬鹿にしないでください。意外ってなんですか。橋田さんと違って、僕もこれぐらいできます」
「違って、ってどういうことだ、おい。俺も粥作れるぞ」
無視して、橋田さんのいるベッドにお粥を持って行く。
無言で粥の入った器を差し出した。
「……これ」
橋田さんが呟く。口元が嬉しそうに緩むのを、僕は見た。僕は、持っているスプーンを粥につけた。とろり、と粥がスプーンに移る。
直後、僕を見て、にやりと橋田さんの口元が吊り上がる。
「なに、あーんしてくれんの?」
「……張り倒されたいんですか?」
スプーンを持つ手に思わずぎゅっと力が入った。
人が看病しようとしているときに、なんでこの人は余計なことをいちいち言うのだろう。
「…………自分で食べてください」
「言われなくても、そうするよ」
スプーンを橋田さんに押し付けようとした、そのときだった。
橋田さんは苦しそうに咳込んだ。身を起こすのもやっとという感じで、橋田さんは起き上がろうとした。
「……っ!」
思わず、橋田さんの体を押し戻した。
その姿が、見ていられなかった。
僕は無言で、スプーンを握り直した。
「口、開けてください」
「いいって。自分で出来る」
明らかに苦しそうに絞り出されたその言葉を聞き流して、僕はスプーンを橋田さんの口に運んだ。
意外にも、素直に橋田さんは口を開く。
「………美味しい」
「そうですか」
「……ワタルにしては」
「ちょっと、どういうことですか」
もぐもぐと咀嚼しながら、橋田さんはにやりと笑う。
「いやあ、助手くんに看病される日が来るとはねえ。これは役得かな」
「そういうこと言ってる場合じゃないでしょう!」
その瞬間、橋田さんが少しだけ黙った。
僕の手が、わずかに震えている。しまった、気付かれた。
「……そんな顔するほど、心配してくれたんだ」
僕は、思わず言葉に詰まった。
橋田さんは笑った。いつものへらりとした笑みじゃなくて、ふにゃっと笑った。紅潮したその笑みに、またなにも言えなくなる。
「……っ、もういいです」
僕は口をつぐんで、粥を橋田さんの口に運んだ。
やっぱり大人しく、橋田さんは食べさせられている。
しばらく、無言の時間が続いた。それは、器が空になるまで続いた。
「はい、これ」
解熱剤と水を手渡す。もうこれで大丈夫だろう。冷えピタも貼ったし、あとは寝るだけだ。橋田さんはもうすでにうとうとと微睡んでいた。食事にも、僕との会話にも体力を使ったのだろう。
「薬も飲んだし、寝てください。僕は帰ります」
ベッドから立ち上がろうとした、その瞬間だった。
手首に何かが触れた。
「……行くな」
掴まれているのだ、と数秒遅れて気づいた。
「悟……」
その弱々しい声に、胸の奥を直接掴まれた気がした。
名前。初めて、呼ばれた。
掴まれた手首が、熱い。
振り返れば、もうろうとした顔の橋田さんと目があった。その眉は悲しげに垂れ下がっていて、瞳は熱っぽく潤んでいる。
僕は、その場から動けなかった。
振りほどくことも、できなかった。
ただ、その場に縫い止められたように立ちすくんだ。
橋田さんは、何か言いたげに口を開いた。でもそれは音になることなく、消えていった。
ただ、手首を掴む手が、一瞬、ほんの少しだけ、強くなった。
僕はもう一度、ゆっくりとベッドの端に腰掛けた。
橋田さんの頬に、そろりと触れる。
「……熱い」
橋田さんは何も言わなかった。ただ、ぼんやりとした目を僕に向けて、ふにゃっと笑った。
それを見て、僕は目を逸らした。
──結局、一睡もできなかった。
手首に残った熱が消えるまで、動けなかった。
あのあと、僕は橋田さんのベッドの端に、朝まで座っていた。
ぐっすり眠る橋田さんを横目に、タオルや冷えピタを変えたり、次の薬を用意したり、細々した作業だ。
ピピッ、という体温計の音で、橋田さんが身じろぎした。薄く目を開ける。
「……熱、ちょっと下がってますね」
「…………」
僕を見て目を見開く橋田さんに、僕はなんでもない調子で体温計を確認した。
橋田さんは、枕元の水と空になった薬の袋、それから僕の顔を順番に見た。
「………ありがとな」
僕は突然立ち上がった。
思わず、聞きそうになった。……昨夜のこと、覚えてるか。でも、口が動かなかった。
「……朝ごはん、作ります」
「ワタル」
びくり、と肩が震えた。そのまま動けなくなる。
「いやあ、朝まで看病してもらえるとは、助手くんも成長したねえ」
「なんですかその上から目線」
橋田さんが小さく呟くのが聞こえた。
「助かった」
僕は返事をしないまま、台所へ向かった。
逃げるように、卵を取りに行った。
ここまで読んでくださりありがとうございました!
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次のお話では、橋田さんと渡がちゃんと探偵します。よかったらぜひ。




