だらしない探偵の家に泊まることになりました。最悪です。
だらしない探偵と、男装助手のじれ恋バディ
「相変わらず荒っぽい運転だなあ」
「じゃあ自分で運転してください」
車に充満する煙の匂いに、僕は思わず顔をしかめた。
「車で吸うの、やめてくださいよ。シートに匂いが付きます」
雨がフロントガラスを叩く。僕は間欠ワイパーを一段階上げた。
「別にいいだろ、こんぐらいさ。ご褒美だよ、ご褒美」
はあ、とため息をつく。僕は煙の匂いが嫌いだった。昔の出来事を思い出すから。
ドアパネルのスイッチを入れると、機械音と共に窓が開いた。湿った風が少量の雨と共に流れ込んでくる。
「暖かいベッドが恋しいよ」
独り言のように呟かれた橋田さんの言葉を聞き流しながら、僕はハンドルを切る。
僕たちは事件の調査で遠方まで出ていた。予定では日帰りのはずだったが、調査は思ったより長引き、戻る頃には僕が自宅へ帰れる時間ではなくなっていた。近くのホテルも当たったが、どこも満室だった。
『じゃあ、俺ん家でも来るか?』
頭を掻きながらそう言った橋田さんの言葉に、思わずドキリとした。
日帰りのつもりだった僕は、泊まる準備も、余分な金も持ってきていなかった。
車で泊まります、と言った僕に、橋田さんは『いくら俺が自由な生活してるからって、そこまで嫌がるこたあないんじゃないか』と悲しそうに口を尖らせた。反論しようとした僕に、『ちゃんと掃除はしてるよ』と慌てて付け足した。情けなく眉を下げた橋田さんの顔を見ると、断るわけにはいかなかった。
「ワタル、ここだここ」
そう言って、橋田さんはアパートのドアの前で鍵を取り出した。カチャリ、という音が深夜のアパートに響き、ドアが開く。
橋田さんは僕が入りやすいように大きくドアを開けた。
「お邪魔します……」
敷居を跨いだその瞬間、僕は呆然と目を見開いた。
開け放した廊下から、居間が見える。
机の上には空のカップラーメンにペットボトル。床には脱ぎっぱなしの服。お菓子の袋にビニール袋。
「……これのどこが、『掃除はしてるよ』ですか……」
「いや、やってるよ?毎日。ベッドとソファを」
「ベッドとソファだけですか……」
呆れた声がこぼれる。言われてみれば、ベッドとソファだけは何も置かれておらず、妙に綺麗だった。
「探偵なんですから、もっとこう、節度ある生活を心がけてくださいよ」
「節度、保ってるよ?毎日ご飯食べてるし」
「それは人として必要最低限の行為です」
言いながら、橋田さんに続き、居間へと足を踏み入れる。
「おう、助手、喉乾いた。茶淹れてくれ」
いつの間にかソファに身を沈めた橋田さんが、ちょいちょいと台所へ指し示した。
「なんで僕がお茶を出さなきゃいけないんですか。普通、家主が客人をもてなすものでしょう」
「いや〜、家主の台所事情を把握するのも、助手の大事な仕事だからね」
「絶対橋田さんの偏見ですよね、それ」
のんびりとソファでくつろぐ橋田さんに、ため息をつきながら、台所を漁る。
使い古したような欠けたティーカップ、種類の違うものを二つ、見つける。その横に、粉末タイプのお茶も。
僕は手早くお茶の用意を済ませ、ティーカップを二つ、お盆に乗せた。
「……こういうこと、誰にでも言うんですか」
じわり、と心にもやもやが滲む。
なぜこんな感情になるのか、自分でもわからない。でも、口が動いて止まらない。
「危機管理能力、なさすぎじゃないですか?盗まれでもしたらどうするんですか」
「んー?」
お茶を乗せたお盆を橋田さんの前の机に運ぶ。ポテトチップスの袋。空のペットボトル。床にものが散乱していて、けっこう歩きにくい。
「ワタルだから、かな」
「……は?」
思わず橋田さんを見た。その拍子に、足元で空のペットボトルがべこりと潰れる音がした。
「危ない!」
一瞬だった。
お盆を机に置こうとした瞬間、思い切り、足が宙に浮いた。
終わった──。
お盆が手を離れた瞬間、僕は思い切り頭を打ちつける未来を覚悟して、ぎゅっと目をつぶった。
……だが、いつまで経ってもそのときはやってこない。
なぜ、と思うより先に、体が温かいものに包まれていることに気づいた。
なっ……。
という声が喉まででかかって消える。
抱き止められてるんだ、と気づいたのは、数秒後だった。
僕の肩をぎゅっと抱きしめたその腕は思ったよりも強く、身じろぎする隙間もないほど近かった。
「は、橋田さ……」
恐怖ですっと冷えた心に、急速に熱が集まるのを感じた。
同時に、恐ろしさが頭をもたげた。こんなに触れられて、女だとバレはしないだろうか。
息が浅くなった。
落ち着け、今までどんな手も使ってきたじゃないか。
こんなことで動揺するなんて、おかしい。
それでも橋田さんは、すぐには離れなかった。
腕の力も、ほんの少しだけ強いままだった。
「……大丈夫か」
ようやっと絞り出したかのような掠れた声が、僕の耳を撫でる。妙に艶っぽく聞こえて、ぱっと頬に熱が集まるのを否応なしに感じた。そんな自分に、僕は思わずぎゅっと下唇を噛んだ。
「あ」
声がひっくり返った。ううんと小さく咳払いをする。
「ありがとう…ございます」
ぱっと、体が軽くなった。
放されたのだ、と気づくまでに、一拍遅れた。
おそるおそる振り返ると、そこには眉間に皺を寄せた橋田さんがいた。一瞬、首筋が赤かったのは、僕の気のせいだろうか。さすがに考えすぎだろう。
「おい助手くん〜、自宅で初めての任務で盛大にすっころぶとは、君、天然ボケの才能あるね?」
「誰が天然ボケですか。だらしない橋田さんに言われたくありません」
橋田さんは笑いながら、床に落ちたカップを拾い集めた。
「すみません、こぼしちゃって。僕も手伝いますよ」
「来るな……っ」
手伝おうとした僕を、鋭い声が貫いた。
「あっ、……っと〜、カップ、欠けてるかもしれないし危ないから、ぼうやは下がっててね〜」
「誰がぼうやですか」
よく見ると、橋田さんの手元が僅かに震えている気がする。そんなにカップが落ちたことがショックだったのだろうか。
「すみません……カップ、台無しにしちゃって」
「いいっていいって、どうせ買い換えようと思ってたし」
橋田さんの声は、いつもの軽い調子が戻ってきていた。
手の震えも収まっているようだ。やはり僕の気のせいだったのだろう。あの橋田さんが、助手が転んだくらいで動揺するはずがない。
そこから片付けは無事終わり、橋田さんはふう、と息をついた。
「で……どうする」
「どうするって、なにがですか」
「どこで寝るかだよ」
「はぁ?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
「僕は床でいいですよ」
「客人に床はないだろ。せめてソファとかさ……」
そこまで言って、橋田さんは、あ、と呟いた。にこーっと笑みが広がる。あの笑み、今までの経験上、なんだかすごく嫌な予感がした。
「ソファに一人じゃ心細いよな?一緒に寝てやろうか?ぼうや」
「馬鹿にしないでください!」
反射的に言い返した。
だが、先ほど抱き止められた腕が脳裏に蘇る。
否応なしに、再び頬が熱を持つのを感じた。
それを見た橋田さんが、一瞬、黙った。
その目から、からかいの色がすっと消えるのを、僕は見た。
だが、すぐ、橋田さんはにこーっと微笑みを浮かべる。
「そっかそっか。やっぱり一人で寝るのは心細いか〜。いいよいいよ、おにいさんが一緒に寝てあげるよ」
「は、恥ずかしくなんてないです……!」
言ってから、しまったと思った。
橋田さんはまだ、恥ずかしいなんて一言も言っていない。
「それに、橋田さんと寝るほうがよっぽど、恥ず…」
「この超デキる探偵さんと添い寝だなんて、恐れ多くてできないよな?わかるよその気持ち、すごくよくわかる」
僕の気持ちなんてほったらかして、橋田さんはうんうんと頷く。
「でもな、ぼうや、さみしいときはさみしいって言っていいんだぞ?」
「だから、さみしいわけじゃありませんって!」
橋田さんに噛み付いていたら、いつのまにか頬の熱は引いていた。
「ひどいな。じゃあ俺が床で寝て風邪引いてもいいわけ?」
うっ、と言葉に詰まる。
「ひどい、親不孝者の助手だ……まさかそんな冷たい子だったなんて……」
「それは……ていうか、橋田さんがソファでもいいじゃないですか!」
「うっかり床に落ちて骨折でもしたらどうするの!?」
「しませんよ!ソファをなんだと思ってるんですか!」
こうなった時の橋田さんは案外頑固で、なかなか意見を曲げない。
「いつも一人でさみしそうなワタルをもてなしてあげようとする俺の優し〜い気持ちを、ワタルは無視するんだ。うう、おにいさん悲しいよ。俺、こんな冷たい助手に育てた覚えないんだけどなあ」
「育てられた覚えもないですけどね……」
本当に悲しそうに眉根を下げる橋田さんに、だんだんと僕のトーンが下がっていく。出た。橋田さんの可哀そうな子犬作戦だ。いつものやつ。僕が何も言えなくなるやつだ。
「……まあ、冗談はともかく。床は駄目だ。体、冷える」
その言葉が決定打だった。
真面目な橋田さんには、僕でも勝てない。
その晩、僕は橋田さんとベッドで寝ることが決定したのだった。……僕にとっては、屈辱的だけど。
「じゃ、先シャワー浴びてくるわ。覗くなよ、ぼうや」
「誰が覗くものですか」
橋田さんはいたずらっぽく言って、風呂場に消えていった。
ぱたりとドアが閉まったあと、シャワーの音が聞こえてきた。
橋田さんが、シャワーを浴びてる。
その瞬間、心臓がにわかに音を立て始めるのを感じた。
心臓に手を当てる。落ち着け心臓。静まれ。そう念じるけど、ドキドキは止まってくれない。
水音がやけに近く感じる。
なぜか、さっきの橋田さんの腕を思い出した。意外と力強くて、たくましい腕……。
僕はぶんぶんと首を振った。何を考えているんだ、僕。関係無いだろ。馬鹿か。
心臓の鼓動は依然、うるさいままだ。
僕がベッドの端でじっとしていると、ふわり、といい香りが漂ってきた。おそらく、シャンプーかボディソープの香りだろう。思わず想像しそうになる自分を、ぱちんと両手で頬を叩いた。
おかしい。なんか今日の僕はひどくおかしいみたいだ。
橋田さんの自宅にいるという、イレギュラーな事態のせいかもしれない。最悪だ。
「おーい、ワタル。タオルどこ置いたっけ」
「自分の家でしょう!」
「いや、俺も今そう思った」
浴室の向こうから、いつもの間延びした声が聞こえた。
その調子のせいで少しだけ息が戻る。
けれど、扉が開いた瞬間、また全部駄目になった。
濡れた髪。首筋を落ちる水滴。いつもより少しだけ薄い部屋着。
僕は反射的に目を逸らした。
「おい、なんで目ぇ逸らすんだよ。そんなにみっともなかったか?」
「違っ……」
その低い声に、また頬が熱を持つのを感じた。
一瞬の無言が落ちる。
「おっ、もしかして、俺のセクシー風呂上がり姿に当てられたとか?」
「違います!!」
自分でもびっくりするほど大きい声が出た。
耳まで熱い。顔を直視できない。
「なあ」
橋田さんがこっちに来る気配がした。僕の目の前に影が落ちる。しゃがみ込まれた、と気付いた瞬間、そっと手が伸びてきた。
指先が、僕の顎に触れる。
「……こっち見ろよ」
持ち上げられた顔のすぐ近くに、橋田さんの目があった。
お風呂上がりの橋田さんは、いつもとまるで違って見えた。
頬についた水滴。水を含んでラフに崩された髪型。少し弧を描いた目元。湿り気をまとう唇。
その低い声が、やけに甘く響いて聞こえて、僕はまた、反射的に顔を逸らした。
なんで僕は目を逸らした?
男同士なら、こんなことで慌てるはずがない。
いや、そもそも僕は男じゃない。
でも橋田さんは知らない。こんな動揺、知られてはいけないんだ。
「な〜んて、うら若いぼうやには目に毒だったかな?はは」
ぱっと手を離し、橋田さんは笑いながら両手をひらりとあげた。
「……そういうところ、嫌いです」
「からかいすぎた?ごめんごめん。ほら、ワタルの番」
脱衣所で、服に手をかけた。ここで橋田さんが入ってきたらどうしよう。全て台無しになる。またあの頃みたいに……。
ゆるゆると頭を振る。橋田さんはだらしないけど、人が着替えているときに急に入ってくるような無遠慮な人ではないことくらい、これまで一緒にいて分かっていた。不安を払拭するように息を吸い、僕は風呂場へと足を踏み入れた。
蛇口をひねる。シャワーヘッドから、温かいお湯が勢いよく流れ出す。
風呂場は、拍子抜けするほど物が少なかった。リビングと比べると、綺麗すぎるくらいだ。
シャンプーとリンス、ボディソープ。タオルが一つ。
これをさっきまで橋田さんが使っていたのか、と思うと、妙に心が落ち着かなくなる。
ボディソープを手に取る。手のひらが胸元を滑った瞬間、先ほどの橋田さんの腕がフラッシュバックした。
……気付かれて、いないだろうか。
もう、あの孤児院の頃のように、舐められたくない。
女だと知られた途端、殴り返すことさえ許されなくなるのは、もう嫌だった。
でもおかしい。橋田さんといると、そんなの全部どうでもよくなる瞬間があるのだ。
あの妙に力の抜けた、ぼんやりとした空気に、あてられたのかもしれない。
ふ、という笑いが自分の鼻から漏れて、自分でそれに驚いた。
……やっぱり、おかしい。橋田さんといるとおかしくなる。そんな自分が奇妙で、でも変に心地よい自分が嫌だ。
風呂から上がると、橋田さんはベッドに腰掛けていた。
目が合った瞬間、なぜか橋田さんのほうが一瞬だけ言葉に詰まった。
「おー、上がったか」
橋田さんは、うん、と小さく咳をして、ぽんぽんと隣を叩いた。
「ほら。寒いだろ、こっち来いよ」
一瞬、ひるんだ。
ソファで、助手席で、隣に座るのとは、なにか決定的に違う気がしたから。でも、不自然に思われたくなんか絶対にない。絶対だ。
僕は平然とした顔をして、橋田さんの隣に腰掛けた。
「ほら、寝ころんでいいぞ。遠慮は不要だ」
そう言って、橋田さんはごろりと寝ころんだ。一瞬、ボディソープの香りが漂って、息が止まる。
「もちろん、そうしますよ」
喉がぎゅっと閉まるのを感じたが、僕は平然としたふりで橋田さんの隣に横になった。
息が無意識に浅くなるのを気取られないように、ゆっくりと呼吸する。
沈黙が降りた。
「……あれ、なんでなにも言わないんですか」
「は?」
わずかに上がった声が隣から聞こえた。
いつもならエンドレスでしょうもないことを口にする橋田さんなのに、なんだか珍しい。
「有能な助手が隣にいるのに、感想がないなんてさみしいですね」
「お前、それは……」
珍しく言葉に詰まった橋田さんに、からかってやろうかと口を開こうとした瞬間、衣擦れの音がして、思考が真っ白になった。
次の瞬間、背中にぬくもりが触れた。
橋田さんが、こちらに背を向けて寝返りを打ったのだと気づくまで、一拍遅れた。
体温が、じわりと僕の背中に伝わる。
少し浅い呼吸が、背中を通して伝わってくる。
眠れる、わけがない。
「……電気、消すぞ」
橋田さんは、そう短く言って、リモコンに手をかけた。部屋が暗くなる。
徐々に、橋田さんの呼吸が一定になっていく。パラパラとした雨音が部屋に響いた。
一日中運転していた疲労が、今になってじわじわと来た。
眠れない。
そう思っていたはずなのに、気づいた時には、意識が暗いほうへ沈んでいた。
『渡 悟くん』
優しい声がした。女性の声だ。懐かしい声音に、目頭がじんわりと熱くなる。
『悟くん、大丈夫よ。この格好の限り、悟くんは絶対傷つけられない』
『先生……!』
大振りなスカートのその姿に手を伸ばす。顔がよく見えない。もっと見たい──。
スカートを掴んだと思った瞬間、その姿は溶けるように消えた。
『なんだお前、女なのかよ』
口を開く前もなく、拳が飛んできた。
『女のくせに、こっち見るなよ』
避けられない。いつもの僕なら避けられるのに、体が動かない。
男児の影が溶けるように消えて、大きな影に変わる。
『男だと嘘をついていたのか』
低い声が降ってきた。
『生意気な子だね。なら、罰を受けてもらわないと』
重いバケツを押し付けられる。
両腕が沈む。持てない。こんなもの、持てるはずがない。
『女なんだから、掃除くらいできるだろう』
『なんで僕が女って知って……』
口を開く前に、平手が飛んでくる。激しい音が自分の頬から響き、ぐっ、という声が僕の口から漏れた。
『そういう口の利き方、誰に教わった。女なら女らしくしてろ』
もう一度、手が振り上げられる。やめて、叩かないで──。
薄ぼんやりと意識が浮上する。
頭に温かい感触が触れている気がする。
撫でられてるんだ、と不鮮明な頭で理解した。
「あ、起きたか。うなされてたぞ。怖い夢でも見たのか?」
横に寝ている橋田さんらしきその影が、ぼやけて先生と重なった。
「こわい……です」
「……っ」
息を呑む音が聞こえた。自分でも何を言っているのかわからない。ただ、口が勝手に動いた。
もうろうとする中、橋田さんが固まっているのが見えた。先生の影がぼんやりと重なっている。
目頭に熱いものがこみ上げてきて、頬を伝う。
橋田さんがこちらに近づくのが見えた。
気づくと、僕は橋田さんの腕の中にいた。
胸に押しつけられた頬から、心臓の音が骨に直接伝わってくる。速い。すぐに放されるんだと思った。
けれど、背中に回った腕はそのままだった。壊れものを扱うように優しいのに、ほんの少しだけ、逃がさない強さがある。
橋田さんが、ふっと息を吸った。
でも、その息は途中で止まった。
──あ、と思う。
さっき、お風呂を借りた。シャンプーも、ボディソープも、橋田さんのを使った。だから今、僕からは橋田さんと同じ匂いがしているはずだ。
橋田さんの指が、僕の肩で一度止まった。何かを確かめるように、ためらうように。
それから、喉の奥で息を殺す音がした。
「ワタル……」
耳元に落ちた声は、低く、掠れていた。
「……細いな」
その呟きに、胸の奥が小さく跳ねた。
怖くはなかった。男の人にこんなふうに抱きしめられたのは初めてなのに、突き飛ばす気が、不思議と起きない。
「俺は……」
続きはなかった。喉の奥で、何かを飲み下すような音がしただけだ。
橋田さんの暖かな腕の中で、僕の呼吸はだんだんと深くなっていく。
──なんだか、懐かしい。
そう思ってしまった瞬間、体の力がすうっと抜けて、意識が、ゆっくり、奥底に沈んでいった。
「おはよう」
意識が浮上する。目の前に、見馴れた顔。橋田さんだ。
にやにやと悪い笑みを浮かべている。
昨日……何があったっけ。なんで橋田さんは笑ってるんだろう。
薄ぼんやりとした頭で、昨日の行動が再生される。
悪夢を見て……そしたら、橋田さんが抱きしめてきて……。
「……っ!」
みるみるうちに顔に熱が集まるのを感じる。
「いやー、ほんとに心細かったんだねえ。おにいさんがいて、ほんとに良かったね」
「う、うるさいです……!あれは、たまたまで……!」
「へー、たまたまで俺にすがってきたんだ。たまたま、ねえ」
「すがってなんかいません!橋田さんが勝手に……」
そこまで言って、また心臓が音を立て始めるのを感じて、僕は慌てて言葉を切った。
「ま、いいわ。そんだけキャンキャン吠えるなら、元気になったってことだろ」
そう言って、橋田さんは身を起こした。
ベッドから降り、くしゃくしゃの髪を手で押さえながら、何でもない調子で訊ねてくる。
「朝飯、なにがいい。トーストでいいか。卵くらいなら焼けるぞ」
「橋田さん、ご飯作れたんですね……」
「失礼な。俺をなんだと思ってるんだ」
「生活能力皆無人間」
「おいおい、そこまで言うこたないだろ」
橋田さんは苦笑して、キッチンに向かう。
昨日のことはそれ以上触れてこない。その橋田さんなりの気遣いが、なんだか無性に悔しい。
昨日の橋田さんの腕、暖かくて、妙に力が抜けた。──また、抱きしめてくれたら。
いや、なに考えてるんだ、僕。あの橋田さんだぞ。あの生活能力皆無人間にそんなことを考えるなんて、明らかにおかしい。
台所から、トーストの焼ける匂いがした。
昨日までなら、ただ雑な生活の匂いだと思ったはずなのに。
今はそれを、少しだけ待ってしまっている自分がいる。
最悪だ。
本当に、最悪だ。
そう思いながら、僕はもう一度、毛布の端を握りしめた。
ここまで読んでくださりありがとうございました!
もしお気に召されたら、ブックマーク・感想・レビューなどいただけると励みになります。
次のお話では、渡が橋田さんを看病します。よかったらぜひ。




